―― 蝶へ  ぶじ つかまえました  桜

 真剣そのものの表情で文机に向かっていた少女が、ことりと筆を置いた。
 教えた人間のせいだろうか、桜は文机に向かうとき、無駄に姿勢がよい。背筋を張り、達人の趣で筆を構え、さらさらと書いていく。水茎のほうはいまだ流麗とはいえず、ところどころ蚯蚓が悶え、のたうち回るさまを連想させたが、それでも読めるだけ精進したといえよう。詰めていた息を吐き出し、少女のうすべにの矢絣からふっと力が抜けた。
 紆余曲折あったが、桜は丞相から雪瀬が見初めてさらってきた娘、とのことで葛ヶ原内外の見解は定まった。許嫁である紫陽花から平手打ち三回を食らわされたところまで含めて。旅籠の二階にあった雪瀬の居室は一階に移され、その隅で桜が寝起きを始めて数日がたっている。堤の調査も順調に進み、霧井湊を発つ見通しもついた。
 いよいよ船出が近付くと、桜は訪問商からいくつか日持ちをする干菓子を買った。月にうさぎ、萩に秋蝶。精緻な細工を思わせる干菓子たちは、柚葉への土産にするのだという。それから思いついた様子で、買ったうちのいくつかを紙に包み、筆を取った。宛先は、蝶へ、となっている。
 そして冒頭の一文である。
「捕まえたって何をですか?」
 茶を運んできた竹が桜の手元をのぞきこんで尋ねた。
 きょとんと瞬きをして、桜はもちろんとでも言うように力強く顎を引いた。
「雪瀬だよ」
「えっ、雪瀬様が捕まえたほうじゃないんです?」
「ちがうよ。雪瀬が逃げるから、私が追いかけたの」
 至極何でもないことのように桜は言ったが、はたから聞いているとひどい誤解を生みそうな表現で、案の定竹は、なんで逃げてるんですか雪瀬様、と思っているのがありありとわかる半眼で雪瀬を見た。雪瀬は顔をしかめた。
「別に逃げてない。あのときはそう思った桜が階段上から飛び降りてきただけ」
「へぇーえ?」
「……何」
「だって、飛び降りてきたってことはもちろん桜さんを受け止めたんでしょう雪瀬様! そのあとどうされたんですか! お昼には言えないことが始まるんですか!」
「雪瀬は転んだけど、ちゃんと下敷きになってくれたよ」
「えー……したじきー……」
 ちょっと憐れなものを見るような目になって、竹は息をついた。
 そもそもちゃんと下敷きという言葉がおかしい。いくら小さくて華奢だからって突如上から落ちてきた娘を怪我させることなく受け止めたんだから、よいではないか。というようなことを言うと、
「えっ、だってかっこよくないです」
 と竹はきっぱりと言った。
「あっそ」
 生意気な小姓の耳を思い切り引っ張ると、呻く小姓は放っておいて雪瀬は『朱表紙』と呼ばれる娯楽読み物をめくった。蝶姫から桜がもらったもので、雨に濡れて一部がぼけていたり、紙自体がへこんでいたりするものの、いちおう読めてはいる。蝶はどきどきして鼻血を噴いたらしいの、と貸すときに桜は説明をしたが、本の半ばまでいっても雪瀬にはいったいどのあたりで胸をどきどきさせたらよいのかわからない。試しに、女を置いて行方をくらます男のどこがいいんだろう、と言ったところ、ああ置いていかれるとおなかがきりきりして血を吐くような気持ちになるね、と遠い目をして桜に呟かれ、なんだかものすごく不穏な方向に話が向かいそうな気がしたので、そうですね男が悪かったですね、と何故か朱表紙の皇子に代わって謝ることになり、以来感想については話していない。
「って、ああ!?」
 いたいですう……と耳をさすっていた竹がふと何かに気付いた様子で身を起こした。
「ちょっ、これってもしかして幻の朱表紙第一巻、白馬の章じゃないですか!?」
「うん。蝶にもらったの」
 桜はうなずき、『蝶』の部分だけとっても誇らしげに付け足した。
「蝶はこの本が大好きなんだよ。いつも皇子様の話をしてた」
「私も実物ははじめて見ました。いやあまさかお目にかかれるなんて……。白馬の君こと、とき皇子が実は幼少の頃に、姫君の危機を救って、背中に傷を負っていたという悲しい過去が記された幻の書!」
「姫君は、とき皇子がじぶんを助けてくれた皇子さまだって途中まで気付かないんだって蝶が言ってた」
「そう! そこが泣けるんですよ!!!」
 竹は朱表紙を抱きしめ、身を乗り出した。それから、あそこはどうだっただの、あのときの皇子様は凛々しかっただのと熱く語り出したふたり――語っているのは主に竹であったが――を雪瀬は見つめた。何故かひどい疎外感が突き刺さった。
「とき皇子はですね、姫の危機にはいつでも駆け付けてくれて、必要なときには叱ってくれて、本当はやさしくて傷つきやすいひとなのに、普段はそんなところをおくびにも出さずに明るくふるまっている。本当に徳の高い方ですよ、皇子は。私の子どもの頃からの憧れなんですねえ。現には、とてもいそうにないですけど」
「……そうかなあ」
 ほとりと、桜は首を傾げた。
 伏せがちの眸に甘やかな色が宿る。
「私には蝶が皇子様だけどなあ……」
 えっ、という顔を男ふたりはした。
「いやあ、蝶姫様って、女性ですよ?」
「でも、蝶は強いし、かっこいいよ。私が泣いているといつも現れて、解決してくれるし、もしものときはお嫁さんにしてくれるって約束してくれたの」
 蝶にあてた文を胸に抱いて、桜は頬をほわほわと上気させた。細めた眸はどこか夢を見るようで、友人相手というよりは、むしろ恋煩いである。竹が不憫そうな顔をして雪瀬を見た。
「だけど、蝶姫様が皇子様なら、雪瀬様ってなんなんですか。単なる獲物ですか」
「竹」
 雪瀬はいい加減この話を終わらせてしまいたかったが、桜はううんとやはり律儀に考え込んでから、口を開いた。
「雪瀬は私のお姫様かなあ」
 思わず、雪瀬は噎せた。
「えー、可愛げなんてありますかこの方に?」
「うん」
 楽しそうにうなずき、桜はそれはもう可憐に微笑むのだった。
「だからわたし、もっと強くなって、立派になって、雪瀬の皇子様になるからね」
 そうですか……、と雪瀬は答えるしかない。


 *


「へっくし!!」
 姫君にあらざる盛大なくしゃみをして、蝶は鼻を啜った。
 鼻をおさえて懐紙を探していると、「どーぞ」と横から差し出される。
「おお、すまぬな……」
 詫びつつ懐紙を受け取ろうとして、蝶ははたと目を剥いた。
「だから、なぜ! おまえが! ここに! おる!」
「唾飛ばさんでよ、姫。それから鼻を先にお啜りよ」
 真砂は若干呆れた様子で、ひらひらと手を振った。その手に一枚、上質だとわかる紙が握られているのを見て、蝶は眉をひそめる。兄である朱鷺皇子の判が押されたそれは、目の前の男を蝶の側付にする旨が記されていた。
「どういうことじゃ!」
 蝶は書状をむしり取る勢いで叫んだ。手を伸ばしたがひょいとかわされ、つんのめりそうになったのを一歩手前で助けられた。
「ふふーん、見た? 姫君、ちゃんと見ました? でもズルでも偽でもないですぜ。きちんと所定の門戸を叩いて、学問と武術の試験を突破して、朱鷺殿下の面接も通ってきた正真正銘の本物。やっぱり姫君のもとで護衛をつとめあげたのが効いたなあ」
「途中で行方をくらます護衛だったがな」
「あれえ、そんなことあったっけ? 何かの間違えでなーい? ともかく、よろしく御主人様。今後ともよしなに」
「なら今すぐ解雇してくれようか」
「素直じゃないねえ、姫君。本当はうれしくってたまらないくせに」
 にやにやと口端を上げ、真砂は蝶の隣に腰を下ろした。何がどうしてそうなるのだ、と蝶は間をあけて横に座り直したが、蝶が俺と再会できてうれしそうだから、と真砂はあけられた分の間を詰めてしまった。
 すでに夏の終わりである。庇の先にもうけられた前庭では、銀の雫を宿した草の合間で秋虫が鳴き始めている。月が美しい。うっすらと円窓から射し込んだ月光に、ひとつ蜜蝋を灯して、蝶は文を開いていた。そばに干菓子と朱表紙が置いてある。真砂は膝に立てた頬杖を傾け、蝶をのぞきこんだ。
「桜サン?」
「……何故わかる」
「だって、姫君のおともだちなんて桜サンくらいしかいな――」
 言っている途中で干菓子を口に突っ込まれた。
「五月蠅い。ちっとは黙りぃよ」
 蝶は真砂に背を向け、つたない文字の並ぶ、おそらくはあまり長くはない文を何度も読み返している。気付かれないようにちらりとうかがうと、花が咲きこぼれるような笑みが載っていた。ずっるいよなあ、と思う。肉親を除いて、蝶にこんな顔をさせられるのは桜くらいのものである。
「なんでも、葛ヶ原には朱表紙好きの小姓がいるらしい。ほれ、最新が出たからと送ってくれた。案じていた蝶の身も知らず、まったくのんきなことよ……」
 毒づきつつも、蝶は頬が緩むのを抑えきれないようだ。
 桜が雪瀬に追い付けたのか、そのあとどんな顛末に落ち着いたのか、真砂はあえて訊こうとは思わなかった。興味も関心もない。それでも、のん気に手紙を送ってきているのだから、つまりはそういうことなんだろう。
「ああ、それにしても白馬の君は相変わらず素敵だのう……」
 鼻を押さえつつ、蝶はほうと嘆息した。真砂は呆れかえって、姫君の書物をめくる背を見やる。
「朱表紙はきっぱりやめたんじゃなかったでしたっけ」
「だって、桜が送ってくるものだから」
「なら俺が代わりに読んで差し上げましょうか」
「や、やめい! 白馬の君! 蝶の白馬の君!」
 背後から書物を取り上げると、先ほどまでの取り澄ました顔はどこへやら、必死な形相で手を伸ばしてきた。とはいえ、身の丈にだいぶ差があるので届かない。
「ちょーう」
 機嫌をよくして、真砂は甘く囁いてみた。
「髪さわってよい?」
「は? 嫌じゃよ」
「あっそう。ならこれは俺が読んで、結末だけを姫に教えてしんぜよう」
「やめい!!! おまえはなんだ、蝶に恨みでもあるのか!」
「まさか。とてもとても、さながら手中の珠のように大事に愛でておりますよ、御主人様」
「嘘くさい!」
「嘘じゃないのに。わっかんないんだねえ」
 低くわらいながら、真砂は朱表紙を後ろ手に持ってくる。
 当人も自認している橘真砂の性格は気まぐれで思いやりなどもなくて、何かを大事にするなんて面倒くさくってとてもやっていられない。そういう細やかな話が苦手なのだ。――だけども。懸命に腕を伸ばしてくる娘が面白いので、もうしばらく付き合ってもよいか、と思ってしまったあたりがたぶん自分の運のツキだった。面倒くさい女に落ちてしまった自分の。

……「文」了




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(「桜と雪瀬のラブコメ」&「朱表紙に浸りたい蝶と、いちゃいちゃしたい真砂との攻防」@『蒼穹、その果て』)



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