フェビラ砦にエディルフォーレの軍旗が上がる。
 濃紺に銀糸で星を描いたそれは、北方の凍て風にも負けることなく、堂々と暁天に翻った。凱歌が風に乗って流れてくる。エディルフォーレの兵たちが歌う凱歌だ。炎を囲んで騒ぐ兵たちの頬は酒気で赤く染まり、眸は歓喜で輝いている。他方、炎から外れた暗がりでは、呼吸を止めた無数の屍が横たわっていた。エスペリアの亡き兵士たちである。その青黒く強張った屍を凱歌が叩く。

 万歳!
 女王陛下万歳!

 ――悪夢である。
 そのような情景を、実際にリユンは見たわけではない。
 何しろ、フェビラ砦陥落とともに敗走したエスペリア軍である。フェビラから後方のバルテローまでの長い道のりをリユンは命からがら、紙一重で生き抜いた。たどりついたバルテロー砦に翻るエスペリアの旗を見上げたとき、まだ十三の少年だったリユンは不覚にも安心からくずおれて、気付いたときには砦の内にいた。仲間たちがここまで運んでくれたらしい。
 リユンは冷たい石壁にこつんと頭をもたせた。
 特に負傷のひどかった左足には添え木がされ、包帯が巻かれている。無論軍医による施術を受けたわけではなく、物資不足ゆえに痛み止めすら存在しない。芯のほうから痛む足を抱え、リユンは悪寒と高熱と戦いながら、少し眠った。
 フェビラ砦の歓声は、バルテローまで届いていた、という。
 真偽のほどは定かではない。幻聴だったのかもしれない。しかし、リユンには確かに聞こえた。浅いまどろみに安寧はなく、ただ夢の淵まで追いかけてくる凱歌がリユンに向かって咆え立てている。
 
 エディルフォーレ万歳!
 女王陛下! 女王陛下、万歳!!!

「黙れ」
 舌打ちをする。リユンは半ば感覚を失った足を引きずって、砦のふちに手をかけた。凍て風が吹きすさび、リユンの身体をまるごと持ち去ろうとする。のろのろと腕をかざし、天を見上げた。月が輝いている。雲はなかった。星も見えない。中天に架かる月は高く、遠い。打ちのめされた心地がした。泣き出しそうになるのをこらえて、リユンは赤い目をして天を睨めつける。
「ルチエ=エディルフォーレ」

 女王陛下! 女王陛下、万歳!!! ――……
 
「僕はおまえに跪かない」
 ひとりの少年がそう呟いたとき、北方の大国エディルフォーレの硝子宮殿では、ひとりの女が凍てた窓越しに、ちろちろと燃える炎を見つめていた。エディルフォーレに君臨する“雪女王”、ルチエ=エディルフォーレ。このとき三十五歳。在位はすでに十七年を迎え、絶大なる権力と手腕で、国に黄金期をもたらそうとしていた。なお、エディルフォーレに大敗を喫し、南部地区フェビラを奪われたエスペリアは翌年、“玉座の空白”と呼ばれた内乱の十年に幕を引き、“銀獅子王”レーヴェ=エスペリアが若干十四歳で即位する。
 両者の戦いは以後、三十年に渡って続いた。


 *


「将軍。リユン=サイ将軍。おい起きろこのぐうたら上官」
 最初は遠慮がちに肩を揺らすだけだった手がこぶしを作り、翻る。
 直後、ぱしっ、とよい音が鳴った。
「起こすにしては、ずいぶん手荒じゃないか。ゼノン=エスト大尉」
 しかめ面をする部下にわらって、リユンは長い脚をひょいっと出してやった。油断をしていたゼノンは見事なまでにつんのめって、列車のコンパートメントの床に大音量を立てて転がる。驚いた近くのコンパートメントが次々開き、床に踏みつぶされた蛙のようになっている大尉を発見した。大丈夫ですか、と手を差し出してきた老婆に、問題ありません、と真面目に返して、ゼノンは勢いよく起き上がった。
「何をなさるんですか、将軍!?」
「おはようの挨拶だよ。エスト家はどうやら手荒なのが好みらしいから、合わせたんだけども?」
「それはあなたのっ、寝起きが悪すぎるからで……っ」
「キミの顔を見て目覚める朝が心地いいわけあるかい。うちの奥さんなら、キスひとつでたちまち夢から覚ましてくれるんだけれど、キミじゃあねえ」
「朝からのろけないでください!!」
 ゼノンの怒声が起き抜けのこめかみに響く。
 朝から元気なことだ。それ以上相手にするのが面倒くさくなったリユンは、悪い体勢で寝ていたせいで軋んだ肩を鳴らして、車窓を押し上げた。夏とはいえ、ひんやりとした風が車内を吹き抜ける。外に広がるのは、黒々とした針葉樹林で、光の侵入を許さないこもりがちの林は、白昼であってもどこか夜のような気配を纏っている。
 ――あの国の夜は、昏い。
 妻とした女が何かの折にそのように漏らしていたことを思い出す。
 確かにそうなのかもしれない、とリユンは思った。エディルフォーレという国には深い夜気が纏わりついている。
「今何時?」
「十時半です。あと三十分程度で到着予定です。駅では、エディルフォーレのモラン大将がいらっしゃる予定で――……」
 律儀に説明を始めるゼノンの声に適当に耳を傾けながら、徐々に昏さが深まる森を眺める。瞼をこすってひとつ大あくびをした。途中、焼けた寒村が木々の間から見えて、あれはエスペリア兵が焼いた村だろうか、ととりとめもなく考える。
(長い戦だった)
 けれど、リユンの胸に感慨はない。勝利の喜びも。

 三十分後、列車はエディルフォーレの玄関口であるシュリア=ラス駅に到着し、リユンは部下とともにプラットフォームに降り立った。外套を襟元できつく引き寄せても、刺すような外気が身体を打ちのめす。駅舎の前にはエディルフォーレの迎えの者がおり、リユンたち一行の姿を認めると、近づいてきた。
「エスペリアのリユン=サイ将軍でしょうか。私はバルニカ=モラン。女王よりあなたがたの迎えを仰せつかった者です」
 エディルフォーレ語で男が言った。胸に縫い取った銀星をつけている。確か地位は大将だったはずだ。
 通訳の青年が口を開こうとするのを押しとどめて、「ええ、僕がリユン=サイです」とリユンはエスペリア語でこたえ、バルニカと軽く握手を交わした。
「歩きましょうか。詳しい話は馬車の中ででも。これ以上外に立っていると、凍えてしまいそうです」
 続きはエディルフォーレ語に切り替えて話す。
 バルニカが少し意外そうな顔をしてリユンを見た。母国語と大差ない完璧な発音は、長い間、姉やエディルフォーレ人である妻に教わり培ったリユンの特技のひとつだ。周囲に呆れられるほど溺愛しているリユンの妻は、八歳年下のエディルフォーレ人の元奴隷である。若い時分、リユンは一度、エディルフォーレ軍に捕虜として囚われたことがあった。妻との出会いは獄中だった。エスペリアからの助けを得て脱出した折、健気についてきた少女は紆余曲折を経てリユンの妻となり、今は二児の母である。
「馬車は近くにとめてあります。こちらへ」
 バルニカが先導し、駅舎となっている木造の古い建物をくぐった。外に出た拍子にひらりと天から白い花びらが降る。摘まみあげて、リユンは軽く眉を上げた。花だと思ったそれは、季節外れの雪片だった。


 およそ十五年ぶりである。
 リユンはエスペリア使節団の大使として再びエディルフォーレの地を踏んでいる。目的は、和平交渉。先の戦いでエディルフォーレはエスペリアに大敗を喫した。かつてエディルフォーレに奪われた南部フェビラ砦には今再び、エスペリアの獅子旗が翻っている。
 エスペリアの銀獅子王にこれ以上の侵攻の意志はない。
 ゆえの休戦協定。
 リユンに課せられた王命がそれだった。
 一行がたどりついたシュリア=ラス駅は、国境からそう離れていない、エディルフォーレでも親エスペリア派のエラド宝石伯が治める領内にあった。休戦のための講和会議は、十日後この地で行われる。エディルフォーレ女王ルチエが第三国やエスペリアへ自ら赴くことを頑ななまでに拒んだためだ。エスペリア側は銀獅子王の代わりに総司令であったリユンが赴くことで女王の提案を受けた。
 シュリア=ラスから、滞在地であるエラド宝石伯の別館へ移る。
 金剛石が多く出土することから「宝石」の名を冠する辺境伯の館はしかし存外質素なものだった。館には数名の奴隷が働いているだけで、見れば、天井に吊るされたシャンデリアは長く使われていなかったことを示すように蜘蛛の巣が張っている。奴隷の女が持ってきたホットワインをかたわらに置き、リユンは書き物机に向かった。机には、インク壺と数枚の便箋。
「リユン将軍は、雪女王にお会いしたことがあるのですか」
 念のため、銀の毒見棒をワインに通していたゼノンが尋ねる。反応はなかったと見え、一口含んだあと差し出されたそれをリユンは手に取った。
「いいや。実際に会ったことはない」
「将軍でもですか」
 少し意外そうに呟いたゼノンに、ペンを回して軽く顎を引く。
「女王は戦場には現れないからね。エディルフォーリアの硝子宮殿から伝令を飛ばして、兵を動かす。もちろん現場での細かな判断は大将に委ねられているんだろうけど、見えない相手にチェスをやっている気分だった。顔は知らないけれど、思考の癖や性格、好みはだいたい、わかってる。あちらもそうだと思うけど」
「では、将軍が思われる雪女王とは、どんな方です」
「苛烈で短気」
 リユンはわらった。
「好戦的で、やられたら必ずやり返す。度胸が試させる局面では、まず打って出る。だけれど、頭に血がのぼるタイプかっていうとそうじゃない。したたかだし、狡猾な女だよ。こちらをわざと挑発してくる嫌味なところもあってさあ、僕はあれで確実に、喫煙量が増えたね。あとは、とても頭が切れる」
「……それって俺にはリユン将軍にしか見えないんですけど」
 ぼそっと返され、リユンは思い切り顔をしかめた。
「昔レーンにも同じことを言われたよ。僕からしたら、とても心外なんだけど、……そうか」
 話しながら、親友であり自分の主である男のことを思い出す。
 敵対する国の女王に似ているだなどと言われて、うれしいわけがない。あの頃はぶん殴る勢いで否定したものだが、今なら少しわかる気もする。
 リユン=サイ将軍は、非情だ。
 目的のためには手段を選ばない。誰もがためらうことでも、それをしなければならない、ただそれだけの理由でリユンは臆することなく成し遂げることができる。戦に勝利し続けたということは、それだけの殺戮を続けたということだ。ルチエ=エディルフォーレとリユン=サイ。積み上げた屍の数は変わらない。
「似ているか」
 ぬるまったホットワインに口をつけ、リユンは呟いた。



『こんな時間まで仕事か』
 夜中に執務室でチェスの駒をいじっていると、対面にどっかりと座る人影があった。
 彼の王であり親友である男だ。こんな夜更けに何をしにきたのかと問えば、夜遊びのついでだと言う。近頃ではすっかりなりをひそめたが、レーヴェ=エスペリアは少年時代、身をやつして軍学校に通っていた以来の癖なのか、ときどき王宮から忍び出ては、馴染みの酒屋で酔いどれ客たちと馬鹿みたいに騒いで王宮に帰っていく。
 対面に座った男からは少し酒のにおいがした。
『仕事をしていたわけじゃないよ。キミとおんなじ息抜きと眠気覚まし』
『ひとり部屋に籠って“息抜き”か。サイ将軍も堅物になったもんだ』
『片想いの女の子がいるからね。いちおう今は一途なんだ』
 リユンは咥えていた煙草を灰皿に押し付けた。無骨な鉛の皿には、吸い殻が溢れている。また新たな煙草に火をつけたリユンを見て、レーンは肩をすくめた。
『おまえは煙草の量ですぐわかるよ。バルテローの件か』
 頬を歪めて、暗に肯定する。
 どうせお見通しなのはわかっていた。むしろ、その話の相談に来たのだろうとも。リユンは灰皿を横に押しやると、広げていた地図をレーヴェにも見えるよう動かした。ポイントはすでにつけてある。諜報部がかき集めた情報から推測するエディルフォーレ軍の陣形と、それに対するこちらの布陣である。後方の補給路や兵站の候補地なども上がっている。
『エディルフォーレの侵攻時期はいつもおなじ。夏だよ。おそらく来夏に来る』
『バルテローで食い止められるか』
『どうにかする。王命とあらば』
 こたえるリユンの声は、珍しく苦い。
 そうか、と呟き、レーヴェは戯れにチェスの駒を動かした。すでに敗色の濃い盤である。
『眠気を覚ますんだろ。せっかくだから、賭け金を積むか』
『キミの横暴さに泣きたくなるよ。これだけ負けがこんでる盤で賭けをするの』
『そうかな? むしろ餞別だろう。何しろ、リユン=サイ将軍は負けがこんでいる局面がいちばん強い』
『悪運が強いんだ』
『なら俺は、いつもおまえの悪運に救われてるってことになる』
 レーヴェはことのほか強いとされる北方の酒をふたつのコップになみなみ注いだ。駒を持ち上げて、にやりと笑う。
『俺に勝てるかな? リユン』
 学友時代のままの声色だった。


 いったい何度、主であり親友でもあるこの男に背を押されただろう。
 そしていったい何度、エディルフォーレの雪女王に対峙しただろう。血を吐くような死線も、腹の底を探り合うような駆け引きも、勝利も、敗北も。息の潰れる絶望、そして胸を震わす歓喜すら。リユン=サイの将軍としての半生は、雪女王ルチエ=エディルフォーレとともにあった。十三歳のリユンはよもや、その後の半生をかけて雪女王ルチエ=エディルフォーレと対峙することになろうとは思わなかったにちがいない。
 女王は老いた。
 十年ほど前から、女王の打つ手に明確な翳りが見え始めたことにリユンは気付いていた。以前ならまずなかった悪手を打ち、焦って、さらに悪手を重ねる。リユンには女王の動揺や恐れが、手に取るように感じられた。無論、これを見過ごすリユンではない。生じた綻びを徹底して突き、逃れようともがく軍勢を追いつめていく。奇妙なもので、そうしながらもリユンには微かに女王に対する憐憫めいた情が芽生えてもいた。女王の怨嗟の声が聞こえるようだった。女王の悲鳴もまた、聞こえた。それらに耳を傾け、心の底から同情しつつも、リユンはとどめをさした。それを為さなければならないただそれだけの理由で。
 エディルフォーレの大敗である。
 今こうして、休戦協定のためにエディルフォーレに訪れながら、リユンは何故か、古い知己に再会するような気持ちに駆られていた。絶大なる権力は今は昔。それでもなお玉座に座し続ける老女王は、果たしていかなる顔でリユンを迎えるのか。考えながら窓の外を見ると、やはり季節外れの雪が降っていた。暖炉の前では寒がりのゼノンが暖をとっている。
「モラン大将は?」
「まだいらしてません。朝にはいらっしゃるという話でしたけど」
 時計を見ると、十一時を回っている。遅れて朝食の席についたリユンは、エディルフォーレ風のミルクをたっぷりに入れた紅茶に顔をしかめ、甘すぎるそれを塩パンで流し込もうと試みた。バルニカが憔悴した顔で駆け込んできたのはそのときだった。
「リユン=サイ将軍! 失礼いたします、よろしいですか?」
 せわしなくノックされ、近くにいたゼノンがドアを開く。駆け込んできたバルニカの顔は蒼白で、目は虚ろだった。
「大変なことが……」
「どうされました、閣下。気付けのワインでも持ってこさせましょうか」
「女王陛下が崩御なされました」
 息も絶え絶えに吐き出された言葉に、リユンも一時声を失した。しかしすぐに取り直し、「どういうことです?」と語気を鋭くする。
「シージア様です、ご子息であらせられる……。陛下は近頃、臥せりがちだったのですが、数日前シージア様がわずかな手勢を率いて寝室に忍び込み、家臣たちと眠る女王を槍でついたと……。なんたること。なんたることだ……」
 頭を抱えその場に座り込んだバルニカの肩にガウンをかけ、リユンは奴隷を呼んだ。本当に気付けのワインを持ってくる必要がありそうだった。
「なんたること……。なんたることだ……」
 肩にかけられたガウンを引き寄せもせずに、バルニカは繰り返した。


 ルチエ=エディルフォーレの最期は見るも無残なものであったとされている。
 その遺骸に首はなく、痩せ衰えた身体には無数の瑕痕があった。シージア=エディルフォーレはルチエが略奪した国の王族に孕ませた子どものひとりで、ルチエに長年恨みを抱いていたらしい。エスペリアに敗北した罪状を掲げてルチエを死に至らしめたシージアは、ルチエの首を王城に晒し、首のなくなった遺骸はカランコエ山の裾野に打ち捨てた。
 一連の事件をリユンは宝石伯の館で見届けた。エスペリアに引き返すという手もあったが、リユンは本国からの打診に対し、しばらくエディルフォーレにて様子を見守るという旨を返した。宝石伯を介したリユンの求めに対して、シージアがひと月の延期を求めた上で会議への出席に承諾したためだ。
「また、手紙を書かれておられるのですね」
 紅茶を啜りながらペンを動かしていると、部屋に入ってきたバルニカが声をかけた。女王に父の代から仕えていたバルニカはこの政変に際して立場が危うくなり、今は宝石伯の邸宅で身をひそめるようにして過ごしている。先日ぽつりと語ったことには、事態が収束したのちは修道院の門を叩き、祈り暮らしたいとのことだった。
「妻と子ども宛なんですよ」
 リユンはわらい、最後のサインを済ませてペンを置いた。
「上の子は、近頃さっぱり僕と喋ってくれない。手紙だとすこし、素直になるんですけれどね」
「女の子ですか?」
「ええ。僕があんまり帰れないから、文通をしてるんです。いよいよ戦況が切羽詰まって紙がなくなるまで、書いていましたよ。どこへ行っても」
「手紙では、どんなおはなしを?」
「今日はここの紅茶の甘さがどうにも受け付けないことや、だけども塩パンは香ばしくてとてもおいしかったことなどを書きました。あとは、白い花が咲いている」
「たわいもないことだ」
「そうですね。たわいもないことだ」
 微笑み、リユンは本の間に挟んでいた白い花を封筒の内へ入れた。
「将軍。そろそろ、準備を」
 ゼノンに促され、椅子を引く。奴隷の少女に駄賃つきで封をした手紙を渡すと、上着の上から黒い外套を羽織って外に出た。曇天に傘をかざす。ルチエ=エディルフォーレが死んでからというもの、このエディルフォーレで日輪が姿を見せる日はない。
 迎えの馬車には、エディルフォーレ王家の紋章が刻まれていた。
 新王シージア=エディルフォーレからの正式な遣いであることを馬車から降り立った若者が告げる。リユンは自分がリユン=サイ将軍であること、エスペリアの大使であることを示す書状を見せ、馬車に乗り込んだ。隣にゼノンと対面に宝石辺境伯が腰掛ける。車窓から雪のちらつく灰色の天を見上げながら、リユンはチェスの盤面に駒を置く気分になる。
 ――王手。
 あなたの息子が適度に馬鹿で、だけど適度に賢いといいのだけれど。
 どうだろうか、雪女王。エディルフォーレの支配者よ。
 僕の見立ては間違っているかい?
 対面に座する女は、沈黙を守っている。
 
 
 講和のための席に、借りてきた猫のように背を丸めて座るシージア=エディルフォーレを見たとき、リユンは己の見立てが正しかったことを悟った。シージア=エディルフォーレは表向き、リユンたち使節団を歓待した。しかし、その眸には常に不安と猜疑がよぎり、視点もひとところに定まらない。
 リユンは挨拶を交わすや、エディルフォーレの大敗を端緒に、休戦協定を畳み掛け、また南部フェビラ地区の権利をエスペリアが回復する文書にサインをさせた。とにかく再び戦を交えることを恐れたシージアはなされるがまま、ペンを握るしかなかった。
 目をきょろきょろと動かしながら、ペンを握るシージアの横顔を眺め、リユンは人知れず息を吐く。ルチエ=エディルフォーレの面影をどこかで探そうとしている自分がいたが、まったくの無意味であると悟ったのだった。この国での自分の仕事は終わった。実感がこみ上げるのと同時に、無性に妻の作ったクリームシチューが食べたくなった。ここのものと味付けは近いが、もっと濃厚で、バターのにおいが甘く蕩ける。彼女のシチューが食べたい。


 その晩、泊まることとなったシュリア=ラス駅に近い宿の一室で奇妙な夢を見た。
 夢の中でリユンは十三歳の少年に戻っており、やはり負傷した左足を抱えて凱歌の響く北の空を見上げているのだった。

 エディルフォーレ万歳!
 女王陛下、万歳! 万歳!!!

 はっとなって目を覚ます。
 夜明けにはまだ遠い時間であるらしい。あたりに人気はなく、窓の外では吹雪がごうごうと大地を駆けていた。不意にひとの気配を感じて、ランプのつまみを回す。リユンの寝台のそばには、小さな円卓がある。その椅子に誰かが座った気がした。
「……誰だ?」
 声は返らない。けれど何故か不意に思い当たることがあって、リユンは口端に小さく笑みを引っ掛けた。
 対面の椅子を引くと、荷物の中から携帯用のチェス盤を取り出す。木目盤がランプの明かりでてらてらと光った。
「夢の中で子どもの頃にした約束を思い出していた。……たぶん、あなたと」
 語りかけながら、リユンは駒のひとつを手に取る。
 凱歌。
 凱歌が、響いていた。
 大地を轟かせ、天を突き、吼えるように、叫ぶように、怨嗟のように、呪詛のように。この三十年ただの一度も忘れられることなく、夢の淵まで追いかけ逃げ惑うちっぽけな少年を戦場へと引きずり出してきた凱歌が。
 ルチエ。
「『僕はあなたに決して跪かない』」
 ただの虚空に向けて駒を掲げ、そしてリユンはエスペリアで最上の礼をする。
「感謝します。ただ、それだけが僕をここまで導いた。この、悪夢のような泥濘から」
 対面には、誰もいない。
 けれど深い闇の中で、何者かが小さくわらった気配がした。
 それは盤上で多くを奪い合った男と女の、一度きりの邂逅であったのかもしれない。憎悪と怨嗟、殺意と呪詛のその果てに。たどりついた一瞬ばかりの交叉であったのかもしれない。だがしかし、ルチエ=エディルフォーレはすでにシージア=エディルフォーレによって殺害されており、リユンはやはり、結局一度として雪女王とあいまみえることはなかった、ということなのだろう。


 *


 エディルフォーレは近いうちに滅びる。
 シージア王と拝謁し、国をあとにしたリユンの直感だった。何年かのち、エディルフォーレは内側から瓦解する。それはエディルフォーレとの長い戦いの終焉を意味したが、安寧にはまだほど遠い。大国の瓦解は、周辺国にとっては災いに等しい。エスペリアを守らなければならなかった。
 けれど、そのような暗澹たる予感に反して、エスペリアのセント・トワレ駅に降りるリユンの足取りは軽かった。プラットフォームに見慣れない――ある意味では見慣れ過ぎた人影を見つけたからである。
「エアル!」
 十四になる娘は、車椅子の女性に寄り添うようにして立っていた。王都の学生服に身を包んだエアルはリユンを見つけるや、「わたしは、ニナさんの付き添いで……っ」と頬を赤らめ、尋ねる前から言い訳をした。すぐにぷいと横を向いてしまうあたりが扱いづらく、それでいて可愛らしい。リユンはにこにこと頬を緩ませて、娘をのぞきこんだ。
「でも、僕も迎えにきてくれたんでしょう?」
「ち、ちがうよ。リートが熱を出しておかあさんが行けないから、かわいそうに思っただけ!」
「そう。エアルはやさしくていい子だね」
「どうしてそうなるの……!」
 帰る、と言って、エアルはゼノンを迎えているニナにだけ挨拶をすると、くるりときびすを返した。黒髪で編んだおさげが背中で揺れている。不意に、つむじ風が吹き抜けた。


(エディルフォーレ、)
(エディルフォーレ、)
(わたしの国)
(うしなわれてしまう、わたしの国)


「……おとうさん?」
 ついてこないのを不審に思ったらしい。エアルがリユンを振り返る。その眸はきれいな若葉色をしていた。エアルの眸の色はエスペリア人であるリユンの色彩ではない。エディルフォーレで生まれた妻のものである。
「いいや」
 肩をすくめると、リユンは娘の背を押して歩き出した。
 たとえば、この先、エディルフォーレと呼ばれた国が滅びても。
 圧倒的な力をもって君臨した女王が忘れ去られたとしても。それでも、決して。
「エアル。僕がおかあさんと出会った国のはなしをしようか」



 *



 そうして、今はなき古き国。
 昏き夜、永久凍土の大地と、雪を抱いた国をひとは語るのだ。
 エディルフォーレ、あなたは雪女王の支配する国――と。

……「星」了




☆彡Special thanks to 福寿さん&ぽてちさん !!!
(「雪女王の最盛期、お題:冬の終わり」@『BLANCA』)



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