「どうしてそんなに嫌なの?」
 桜は問うた。
 毬街湊へ向かう船上である。
 甲板に出て夜風に髪をなびかせていた桜は、船のへりにぐったりともたせかかっている男を不思議そうに見上げた。昼、風を受けてぐいぐいと進んでいた船は、今は進んでいるかいないかもわからないくらい静かだ。その静けさの中で、先刻から雪瀬はぐったりとへりに腕を乗せてもたせかかっている。
 まったく、何かの呪いなのではないかとひとびとにからかわれるほど。
 雪瀬は乗り物全般と相性が合わない。
 駕籠に乗れば振動に酔い、見知って間もない馬に乗れば危うく落とされかけ、船についてもしかり。あらかじめ朧に薬を処方してもらったにもかかわらず、昼の揺れがひどい間はずっと血の気が引いた顔をして物も言わず、何も口にせず、かといって眠ることすらできないといった様子でうずくまっていた。扇が言うには、行きの船はもっとひどい状況で、とても俺の嘴からは言えない、と常備されている桶を指しながら言った。幸い桜は、船酔い等はしないたちだったらしく、けろりとした顔で船内を歩き回ることができた。
『つらい? おみず持ってくる?』
 言葉を返さなくなってしまった雪瀬の隣にかがんで、濃茶の髪にさわさわと触れる。雪瀬がおとなしく撫でられているなんてめったにないことなので、桜はすこしだけ悦に入ってしまったが、やっぱり具合が悪そうにしているのはかわいそうで、早く湊に入るか、船の揺れが少しでもおさまらないものかと祈ったものだった。
 雪瀬がようやく人並みの反応を返すようになったのは、凪に入った夜である。外の空気を吸いに甲板に出たはいいが、昼の間何も口に入れなかったせいか、あまり元気そうでもない。
「……どうしてって?」
 しばらく間を置いたのち、雪瀬が桜の問いに応じた。
「船。あとは、駕籠とか、馬とか。昔嫌なことがあった?」
「なにも。むしろ、どうして他の奴がぴんぴんしているのか、不思議なくらい」
「揺られていると、私は楽しいけど」
「どこが。どんな風に。……はやく陸路が整備されないもんかな」
 心底嫌そうに肩をすくめて、息を吐く。陸路だってどうせ馬を使わないとだめだろうに、と桜は思うのだけれども、雪瀬からすると、問答無用で海の上に閉じ込められる水路よりは幾分、陸路のほうがましらしい。酔い止めならいっそ気絶薬をくれればいいのに、とぼやく。桜は声を立ててわらった。雪瀬は桜よりぜんぜん大人だけれど、ときどき子どもみたいなことを言っているのがおかしい。
 隣に立って、満天の星空を仰ぐ。
 水平線の端から端まで、遮るものは何もない。自分の存在がちっぽけに感じてしまうような大空。そのうち、星のひとつがぽろんと滑って落ちたので、桜は目を丸くして固まった。
「おちた!」
「なにが?」
「星」
 天上を指すそばから、また別の星がぽろんと滑る。あとで教えてもらったそれは、りゅうせいぐん、と呼ばれるものであったそうだけど、そのときは初めての光景にただ目を奪われるばかりだった。
「きれい」
 だけど、すこしかなしくもある。
 きれいなものや、幸福な気持ちは、何故かいつもかなしいとか切ないとかいう気持ちに繋がっている。それが桜には不思議だった。しあわせなときはどうしてか、同じくらい胸が苦しいのだ。
 少しだけ背伸びをして、雪瀬を見上げた。
「葛ヶ原に帰ったら、柚にあえるね」
「そうだね」
「“さくら”も見れるかな」
「たぶんね」
「一緒に見ようね、“さくら”」
 約束を口にするのは、いつも小さな勇気がいる。頬をほんのり紅潮させて緊張しつつうかがうと、雪瀬は瞬きをしたのち、「……咲いたらね」と言った。おざなりでもうなずいてもらえたのがうれしくて、桜は頬を緩める。声に出さずににこにことしていると、なんだか呆れた風な息をつかれて、額にかかった前髪に雪瀬の指先が触れた。こわれものにするようにやさしく梳いて、それからふと何かに気付いた様子で目を細めた。
「あれ」
 雪瀬が示す方向には、微かな光が見える。
 毬街の湊を示す常夜塔だった。まだとても遠いけれど、目を凝らすと、星の瞬きのような光がかえってくる。まるで天の星がひとつぽろんと滑って灯ったみたいだと思った。あの海岸線をたどっていくと、先には葛ヶ原もあるのだろう。船上からはまだ見通せなかったけれど、やわらかな風が波の上をゆったり吹き抜けたのがわかった。
「おかえり、桜」
 風に髪を揺らしながら雪瀬が言った。
 桜はやさしい指先に頬を委ねて、笑みを綻ばせる。
「ただいま」

……「星天」了、そして四譚へ続く



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(「桜と雪瀬で流れ星を見ているところ」@『蒼穹、その果て』)



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