「いてっ」 はなが顔をしかめてかがむと、前を歩いていた東雲が「どうした、はな」といつものぼんやりした調子で振り返った。はなはしゃがみこんだまま、「うー……」と右足を押さえて唸る。ちょうどふくらはぎのあたりに鋭い茨の棘が刺さっていた。すぐに自分で抜いたが、思ったより深くまで刺さっていたらしく傷口からみるみる血が溢れ出す。 「これはいかん。おい、はな。一度手を離せ。血止めをするから」 「いやだ。じぶんで、する!」 「馬鹿め。殴られたいか」 「しののめのげんこつなんか、いたくないもの。じぶんでどうにかするもの」 「そうかそうか。わかったから、手を一度離せ」 東雲はそう言って、固く傷口を抑えるはなの小さな手を握って離した。痛くてびっくりしたからだろう。はなの指先は蒼白く固くなり、東雲に握ってもらってやっと少し動くようになる。強張ったはなの手をさすってやって、東雲は着古した衣の裾を切り裂いた。衣を裂く鋭い音に、はなは目をまんまるにする。着古したといっても、東雲のそれは街の子どもたちが纏っているぼろ切れとは違っていたし、何より生来、親を持たず、唯一の居場所といってよい乳母屋敷の女衆にすら煙たがれていたはなは、東雲が頓着なく己の衣を切り裂いてはなに与えてくれたことに驚いたのだった。 「よいの……?」 おそるおそる尋ねると、東雲は「よいわけがあるか」とはなの右足を指して言い、裂いた布で手際よく足を縛りながら、「はやく、ばばのところへ帰ろう」とはなの手を引いた。 東雲という少年は、いつも気まぐれにふらりとはなの住まう西都の乳母屋敷へとやってくる。乳母曰く、はなを花の下で拾ってきて、「はな」と名付けたのも東雲らしい。東雲は西方帝の御子――これも乳母曰く「とても尊い方」であるのだという。そのくせ東雲はやってくるたび、たいした護衛もつけず、はなを誘ってあちらへこちらへ遊びに行く。今日はふたりで万葉山の上のほうにある衣川の上流で魚釣りをした帰りだった。あいにくと東雲は釣りが下手で、はなもはなで釣竿の番をしているのが退屈でたまらず、途中からは川遊びをして終わった。からん、ころん、と東雲がからっぽの魚入れを鳴らして、夕暮れの道を歩く。その影踏みをして遊んでいたら、はぐれ茨で足をひっかいてしまったのだった。 「しののめはへんな奴だなあ」 東雲のあまり頼りがいのない背におぶさりながら、はなはけたけたと笑う。 「へんな奴とはなんだ。だいたいおまえはなあ……」 「だって、釣りは下手くそだし、おまけに川では滑ってびしょぬれになるし。こうしておれのこと、おんぶしてくれるし。尊い方っていうのはみな、そういうものなんか」 「さぁ……あいにく父上には聞いたことがないな」 小首を傾げた東雲の頬に夏の夕焼けが射す。橙色に染まった頬に頬ずりをして、はなは慰めるように言ってやった。 「でも、おれはしののめ、すきだぞ。高いから、たのしい!」 東雲の背におぶわれると、いつもよりぐんと視界が広がる。それが気に入ったのだ。地は遠く、夕焼け雲を浮かべた空は手が届きそうなくらい近く感じる。夕星が瞬いていた。木々や夏草を駆ける風は力強く、はなのおでこにかかる前髪を巻き上げる。 「しののめとあそぶのは、たのしい!」 腹の底から湧き上がる衝動のままにはなが吼えると、「そうか楽しいか」と東雲もまた何か吹っ切れたようにはなの膝を引き寄せ、顔を上げた。 「ようし、走るぞはな! 乳母屋敷までひとっ飛びだ。つかまっておれ!」 駆けだした東雲に、幼いはなはきゃあきゃあと子どもらしい歓声を上げる。 地平の向こうにでっかい夕陽が見える。そちらに向かって走るふたりの影は畦道に仲良く重なって伸びていた。 *** 「――などということが、昔あったな!」 「そのあと、盛大にすっころんだ東雲とおまえを屋敷まで運ばされたアレか」 澱みなく返ってきた応酬に、華雨は、「そうだったか?」と邪気のない顔をして首を捻る。白雨は眉根を寄せて、「おまえらの無茶にどれだけ周りが振り回されたと思っているんだ」と息をついた。 「昔っから苦労性だなあ白雨。おまえのそれは根っからだね」 「俺だけじゃない。とめもゆいもだ」 「そりゃあ……わたしだって少しは悪かったと思っているよ」 ゆいは今、しばらくぶりに舞い戻った乳母屋敷で世話になっていることもあり、名前を持ち出されると華雨も強くは出られない。ゆいのことを言うのはずるいぞ、と口をとがらせて、男の白い背の上に乗っかる。獣の性なのか、華雨はひとの背に乗っかって、遊んでいるのが好きだった。ほどよくしなやかな筋肉のついた背中の、浮き出た肩甲骨のあたりにわざと頬杖をつき、鼻歌をうたいながら銀色の髪を緩くかきまわす。そうすると、「ひとの背に乗るな」と不機嫌そうな声が下から返った。そのような制止くらいで華雨が従うわけがない。口端を上げて、「嫌なら、力づくでやってみろよ」と挑発をし、男の髪を引っ張ってやる。 この晩の華雨はとても、機嫌がよかった。本当に獣だったら、ごろごろと喉を鳴らしていたにちがいない。 華雨は何も纏っていない。されど不思議なもので、外は雪が降っているというのに、褥の中はひとの熱がこもってあたたかく、汗の引いた膚をくっつけているのがまた気持ちいい。隠微な熱は雪が流したのか、今はまどろみにも似たぬくもりだけが残っている。 「なあ、白雨。おまえの故郷ってどんなだ」 「なんだ、唐突に」 「前から気になっていたのさ。おまえは母だの弟だのとぐだぐだやっていたろう。わたしには故郷も家族もないから、ようわからんが」 「……糸鈴の里は――」 華雨は好きにしておくことにしたらしい。 褥に頬杖をついて、白雨は雪明りで白む障子を見つめる。普段は感情のうかがいづらい黒の眸に優しく綻んだように、見えた。 「糸鈴の里は、寒い」 「なんだそりゃ」 生真面目な顔をして嘯くので、華雨は呆れた息をついた。「糸鈴の寒さを甘く見るんじゃない」とのたまう白雨もまた、心なしか機嫌がよさそうだった。普段はしかめられていることが多い整った横顔には、長く付き合っている華雨だからわかる程度の微笑が載っている。 「こことは違って、一度雪に閉ざされれば、それきり溶けることはない。春は、遅い。糸鈴の民は厚い家のうちでずっと春を待つ。ゆえに、里の一番桜が咲いたときは皆で祝うんだ。夜通し、酒をふるって」 「そりゃあ愉快そうだ」 酒をふるうということは、女もめかしこみ、食事だって精一杯豪勢なものをこしらえるのだろう。花の下で酌む酒はきっとうまい。考えていると、とろりとした熱燗を一息に飲み干したくなって、華雨は頬を緩ませた。 「おまえのような男も、そのらんちき騒ぎに参加するんか」 「……さあ、どうだろうな。おまえなら、愉快にやるだろう」 そっと続けられた言葉に、ふふん、とわらい、華雨はかがんで、男の白い背に口付けた。汗の乾いた膚を食んで、吸い上げる。そうすると、雪国の男らしい透け入るような膚にうすべにの花が浮かび上がった。ああ、と華雨は陶然と目を細める。 「糸鈴の、一番桜だな。白雨」 ついぞ見ることの叶わなかった、その群れ咲くうすべには。 されど、華雨の瞼色にいつまでも血の通った色として息づき、輝いている。 ……「桜」了 ☆彡Special thanks to 月蝕さん&桜屋さん !!! (「はなと東雲が無邪気にじゃれ合っていられた頃」「白雨さんが穏やかにわらっているところ」@『花と獣』) ☆彡TOP |