いつか再び、嵐のさなかにてまみえることを願う。

 *

「さおとにー」
 葛ヶ原の金茶の原は、枯れかけた穂だけを残し、一面白に染まっている。
 風吹きすさぶ里である。頬をなぶる凍て風に眸を眇めていた颯音は、繋いだ手を引かれて、下方へ視線を落とした。雪瀬は頬を林檎色に上気させながら、「きっちゃうの?」と少し不安そうに尋ねる。頭上では、固い蕾をつけた梅林が風にしなり、ぎっ、ぎっ、と時折音を鳴らして揺れていた。もうひと月もすれば、春が来ようはずだが、葛ヶ原の雪は深く、固く丸まっている蕾たちがほころぶ気配はない。
「一枝だけね」
 ひときわ大きな蕾をつけた梅を颯音は手折った。
 手折るときに少しだけ背伸びをしたせいだろう。うなじに頬をくっつけて眠っていた妹が身じろいだ。手折った梅の枝を雪瀬に渡して、負ぶい直す。雪瀬はしばらくもの言いたげに颯音を見上げていたが、繋いだ手を引いてやると、あとは静かについてきた。ふたつの足跡が寄り添う雪道に、梅の枝音が鳴る。

 幼い頃、颯音はどちらかというと、癇の強い子どもであったらしい。
 ――まるでちいさな、山犬。
 母はよくそう言ってからかった。
 常に何やら不機嫌そうで、気に食わないことがあるとそばの大人らに当たり散らす。側付きの暁は、よい標的だった。何度髪をむしられ、頬を引っ掻かれたかわからないという。それでいて、逃げ足ばかりは早く、捕まえようとするとするすると樹の上にのぼってしまう。のちに暁に嘆息された幼少時代を颯音自身はあまり覚えてはいないが、確かに、古い記憶に残っている自分の手足には常に生傷があって、あとはひとりだった。棘の生えた橘の樹に背を預け、燃える日輪をひたとひとりで睨めつけているような、颯音はそういう子どもであった。
 対する弟の雪瀬は、野蛮な気性はすべて兄が持って行ったのだとばかり、ぼんやりとした子どもだった。子守籠から床に転げ落ちると、そのまま床の上で、誰を呼ぶわけでもない弱々しい声で泣いている。生まれてしばらくは乳の吸いも悪くて、母はこの日増しに血色の悪くなる赤子に少々難儀したそうだ。
 おまけに雪瀬は、術師の才能を持って生まれなかった。宗家に生まれついたにもかかわらず、また、分家のふたりの子どもたちがどちらも優秀な才を示していたにもかかわらずだ。父は力を持たない次男を毛嫌いした。
「小さいでしょう」
 褥から半身を起こし、抱いた赤子をあやしながら母が言った。
 その頃はまだ、颯音は我儘盛りの暴君を続けており、はじめて弟を見せられたときも、子分がひとり増えたくらいにしか思わなかった。あとは、ほんとうに小さいのだな、と思ったくらい。他の赤子がどんなものなのか、颯音はよくは知らなかったが、母の腕の中の『おとうと』は嘘のように小さく、たわいのない存在のように思えた。それに、とても弱そうだ。試しに頬を引っ張ると、ふぃぃん、と覇気のない声で泣いた。
「いじめられそう、こいつ。まさごとかに」
 颯音は頬を歪めて呟いた。母が苦笑する。
「なら、おまえが守ってやりなさい、『おにいさん』」
「おれが? どうして?」
「兄とはそういうものだからです」
「めんどうくさいんだ、あにって」
 げんなりとして、「もうおとうとはいらない」と母の胎のあたりを叩くと、「『弟』はもう作らないわよ、『おにいさん』」と母はしたり顔で口端を上げた。ちなみにこの二年後、母は「妹」を作る。
「ねえ、あかつき、どこ?」
 話が済んだ気になって離れようとすると、まだ泣き止んでなかった弟がふぃぃん、と弱々しくぐずって、何故か母ではなくこちらのほうへ手を伸ばしてきた。振り切って行ってしまおうか、一時悩む。しかれども、また泣き出したら母が怒りそうだし、それに。漠々とした宙に不安げに伸ばされた手のひらが空をかいているのはすこしかわいそうだったから、手を握ってやった。そうすると、小さな手のひらから予想もしなかった熱さが伝わってきて、颯音はびっくりしてしまった。
「ね?」
 何が、「ね?」なのだろう。母は愉快げな顔をして、弟の小さい手を握ったまま離せなくなってしまった颯音の頭をくしゃくしゃとかき回した。
 当人ですらたぶんもう忘れてしまっているだろうけれど、幼い雪瀬は夜泣きがとてもひどかった。そしてその、弱々しくて誰にも気付かれない泣き声は、颯音が手を握ってやると、ぴったりとおさまったのだ。母も死んでしまったから、もう颯音しか知らない。


 その母の墓前に、梅の枝を供えている。
 母が亡くなって、二度目の冬である。先年はそれなりの規模をもって催された霊祭は、今年は身内だけでひっそりと済まされた。父は姿を見せなかった。代わりに颯音が当主の席に座し、橘の枝を捧げた。
 ――父さんは出ないの?
 呼びかけた手を払われ、父に背を向けられたとき、颯音は珍しくその場に立ち尽くした。途方に暮れていたのかもしれない。中途半端に開いた障子の奥からはおもったるい酒のにおいとむせ返るような女の濃いにおいがした。
 傷ついた顔をしたのは、きっと一瞬に過ぎなかっただろう。
 ひたと中のものを睨めつけてから、颯音は障子を閉めた。
(俺は、ああはならない)
 背を向けて歩き出す。
(ならない)
 確かな足取りを心掛けているのに、床下から噴き出した底無しの泥濘に足をとられて、くずおれてしまいそうだった。けれど、それでもかろうじて己を支えているのは、
(決して、ならない)
 憎悪にも似た冷ややかな決意と、
『兄とは、そういうものだからです』
 母の言葉だった。

「さおとにー」
 隣に座ってしばらく雪をいじっていた雪瀬が、不意に颯音の腕を揺すった。我に返る心地がして振り返ると、「ゆずがくしゅんってしてる」と背中を指して言う。外は思いほか寒かったようだ。風邪をひかせないように自分の上着を重ねると、「帰ろうか」と言って颯音は手を差し出した。長く外にいたからか、どちらの指も凍えてかじかんでいる。雪の道を行きの足跡をたどりながら戻った。落日の刻限が近いのだろう。墓地を囲うように生えた雑木の枝葉のあいまから、金色の日輪が見えた。
「雪瀬は寒くない?」
「……さむくない」
 何故か深く考え込むような顔つきをして、雪瀬はうなずいた。
 手を繋いでいるのと反対側の手に息を吹きかける。ちっとも温まらないのか、何度か同じ仕草を繰り返した。剣術を習っている弟の手は生傷が絶えず、硬い肉刺ができていて、子どもらしい柔らかさには程遠い。
「さおとにー」
 繋いだ手を振って、弟が呟いた。
「俺、つよくなって、さおとにーのこと、まもるね」
 光の加減か、弟の金に見える眸もまた、日輪のほうを見つめている。
 凍て風が木々を揺らして、後方へ流れ去った。雪瀬は目を眇めた。
「俺が、まもるから」
「……楽しみだね」
 息を吐き出すのと一緒にすこし笑う。そうすると、相好を崩して、雪瀬は繋いだ手に甘えてきた。


 ・
 ・
 ・


「――っ待て!」
 息を潰すような必死さで投げかけられた声に、颯音は足を止めた。
「待って、くれ」
 息を喘がせながら、ひとりの青年が現れる。月のない暗がりであったが、門のそばに焚かれた松明が残っていたため、颯音のほうからはその前にたたずむ青年の姿がよく見えた。懐かしさと同時に、不思議な既視感にとらわれる。改めて見つめたとき、弟は自分にとても似ていた。正しくは四年前の、十九歳の頃の自分に。こちらの視線を感じたのか、雪瀬は刀を抜いた。白々とした刃は、炎によく映えた。
「あかつきが、おまえの名か」
 光の加減か、金にも見える眸が自分を見つめている。
 颯音は眸を細める。すこし、わらいたくなった。
「こたえ、――っ!?」
 中途で声が途切れ、青年の身体が傾ぐ。
 颯音は目を瞑った。


 *


 以前、その場に居合わせたさる者が教えてくれた。
 橘雪瀬は家督継承の際、通例である橘の代わりに桜の花を捧げたのだという。取り立てて言及するところのない凡庸な面構え、大罪人の弟でありながら、勅使をはじめ集まった者らが呆気にとられるのをよそにふてぶてしく座しているあたりがおかしくてたまらなかったと、その者は涙を滲ませて笑った。
「“だけど、そういう俺を今日まであなたは育て生かしてくれたから”」
 南海の天は青く澄み渡っている。夏の潮まじりの風が、南海育ちの大木の日陰となった縁にも吹いていた。
 朗々と、朗々と。
 青空に男の声はよく通った。
「“歩いてゆける。きっと、歩ききる。だから、心配しないで颯音兄”――だとさ。なあ、泣かせるじゃあねぇか。あのおとなしくて誰にも顧みられなかった餓鬼が。なあ、おい、聞いているのか颯音様」
 屋根の甍から顔を出した隠密に肩をすくめ、颯音は縁のそばまで伸びてきている大木の枝葉を仰ぐ。伸ばした指先が何かをいとおしむように緑の葉に触れ、離れる。ゆっくりとまだ緩やかな風が海のほうから押し寄せた。



……「嵐の前」了




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(「兄がへたれてるか、泣いているところ」@『蒼穹、その果て』)



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