「稲城、俺は病なのやもしれん」
 失踪から戻った皇子が帰還してしばし。
 玉津卿の刑死や帝の譲位などで混迷に陥った都も、秋の風が吹く頃には少しずつ落ち着きを取り戻し始めていた。皇祇皇子といえば、以前は稚気じみた癇癪に稲城も手をやかれたものであるが、戻ってきてからというもの、駄々はなりをひそめ、しおらしく部屋で書物を読んだり、思案にふけっている時間が長くなった。
『さすがの殿下も、こたびのことで懲りたか』
 しめしめと稲城が腹のうちでしたり顔をしていたさなかである。
「病かもしれん」
 夜中に人祓いをして呼ばわれ、いったい何事だろうと首を捻りながら参上した稲城に、皇祇当人が蒼白な顔をして告げた。「病と申されましても」と稲城は頬をかく。
「殿下は食欲も旺盛で、先日御典医からも健康そのものだと言われたばかりではありませんか」
「御典医の阿呆にはわからんのだ」
 皇祇はふるふると首を振った。
「どこかお具合が悪うございますか」
「それがの……。菓子が近頃とんとおいしいと思えぬのだ」
「いや、それは」
 今までのあなた様の食い気がおかしかったのだと進言しようとしたところで、「夜も眠れぬ」と皇祇は白銀の睫毛を伏せた。
「胸がくるしゅうて、ときどき心の臓がつつかれたような痛みがするのだ」
「むむっ、それはまずいですな」
 心の臓とは。さすがに稲城も血相を変えた。言われてみれば、皇祇はどことなく線が細くなり、睫毛を伏せるさまなどは生来の美貌とあいまってやたらに艶めかしい。御典医にも見通せなかった病か、胸の病か、とあわてふためいたところで、「それでだな」と皇祇はやけに改まった様子で、稲城に向き直った。
「先日、ほれ、竹橋が持ってきた餡蜜なのだが」
「は。あんみつにございますか」
「うむ。餡がぎっしり詰まって、黒蜜も濃く、寒天によく絡んで、うまくてなあ。……あやつ、餡蜜が好物であったであろ? 馬鹿者だから、あまいとしか言わんのだが、顔を見れば誰だってわかる。好物なのじゃ。たぶん、竹橋のところの餡蜜を食うたら、やっぱり、頬をりんご色に染めて、あまい、などと言い出すと思うのだ。まったく本当に馬鹿者よなあ。不調法で乱暴者で俺をちっとも羨まぬ。上、さっぱり笑わぬ。可愛くない。まったく、可愛くない」
「……皇祇様?」
 いったい何の話をされているのか。とんとついていけず、稲城が首を傾げると、「うっ」と皇祇がおもむろに胸を押さえた。
「胸を針で刺されたかのようじゃ……。一本どころか、四方八方内側から破られんばかりだ。稲城。稲城よ。俺は余命幾ばくもないであろうが、ひとつ頼みがある」
「そのようなことは皇祇様! このじいがさせませぬ!」
「うむ、うむ。おまえと見込んで頼む。桜にな、」
「は」
「餡蜜を届けよ……」
 と言い残し、皇祇はばったり稲城の胸のうちに倒れた。
 御典医曰く、知恵熱だという。
 姉の蝶姫などは、「それは恋じゃな!」とおおいに笑った。



「という餡蜜がこちらです」
 ことん、と目の前に置かれたあんこが特盛の、白玉がやわらかく輝き、大好きな杏子が三つ乗せられ、薄い透明の寒天たちにはたっぷりの黒蜜がかけられた餡蜜を見つめ、桜は皇子の使者と遥か都から餡蜜のためだけにやってきた竹橋屋のふくふくとした主人の顔とを見比べた。声は出さなかったが、緋色の眸が輝き、みるみる頬が上気する。そっとうかがうように見上げてきた少女に、「食べたら?」と呆れ果てながら雪瀬は促した。突如都から皇子の使者がやってきたと思えば、これである。
 匙を取り、おそるおそるといった風に黒蜜のかかった餡蜜を口元へ運ぶ。緋色の眸がとろんと甘やかに蕩け、花のような笑みが咲いた。
「あまい」
 竹橋屋のふくふくとした主人が年甲斐もなく頬を染めて、首をかく。それから雪瀬の視線に気付いて、さも暑くて頬を染めたのだ、というように手うちわを始めた。
「雪瀬も食べる?」
 屈託なく椀を差し出してきた少女に嘆息して、この娘は「ましょう」なんじゃないかと雪瀬は黒蜜のくっついた頬を拭うついでに引っ張った。

……「魔性」了




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(「皇祇の初恋」@『蒼穹、その果て』)



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