その男はほんのつかの間、彼の鳥籠の中にとどまった。

 *

「エン。ねえねえ、エン」
 父や幼馴染の護衛騎士、周囲の者たちが「クロエ」と呼ぶその男をシュロだけは「エン」と呼ぶ。彼が「エン」でも「クロエ」でもよいと言ってくれたのもあるし、はじめて見たときから、この男の名前は「クロエ」でも何でもなくて、「エン」というのがいちばんふさわしい気がした。それに自分だけの呼び名というのはなんだか特別なことのようで、呼ぶたびにシュロの小さな胸には自慢げな気持ちがまあるく広がる。
「エーン。ねえ、いいかげん、起きてくださいよ」
 右手でゆさゆさと男の肩を揺さぶる。
 さっきから何度も揺さぶっているのに、大きな楡の樹に身を持たせたまま、エンはちっとも目を覚ます気配がない。この国では珍しい黒髪の頭をお日様をいっぱいに浴びてぬくもりを宿した木肌にもたせかけ、心地よさげな寝息を立てている。
 エンという男が聖女の継承にあわせて王立教会に現れ、ひと月ほどが経つ。彼がいったいどういった存在なのかは、シュロにもわからなかったが、教会の七大老をはじめとした主だった者たちは皆、はるか年下に見えるエンにこうべを垂れて、まるで大事な客人を迎えるかのように、歓待した。エンのほうもそれをごく当然のことといった風に受け入れている。この国ではまず見られない黒髪に金目、色素がまるで抜け落ちた膚。異形の姿であるが、常に人懐っこそうな光を湛えている眸のせいで、恐怖は与えない。近い年頃の友人といったら、北騎士の息子であるツァリ=ヨーシュくらいしかいなかったシュロが、この少し年上の男にくっついて回るようになったのはごく自然のことだった。
「もう、いいですもん。いいですもん……」
 揺すっても叩いても一向に目を覚まさないエンに痺れを切らして、シュロは草むらに座り込んだ。王都ユグドラシルは今日も雲ひとつない快晴だ。晩夏から秋に移ろいゆく空は、透明なブルーで、豊穣の金の粒が光り舞うかのようだ。教会の一角には養蜂所があり、僧侶手製の木箱があちこちに置かれている。木箱で唸る蜂の羽音に耳を傾けながら、シュロはあくびをして、ことんとエンの膝の上に頭を乗せた。黒ローブはほどよく熱をこもらせて温かい。微笑むと、シュロは緩んだ頬を黒ローブに擦る。そうして、自分もうとうとと眠ってしまった。

「くしゅん!」
 という自分のくしゃみでシュロは目を覚ました。
「うー……ん?」
 断続的な揺れに小首を傾げ、目をこする。あたりはいつの間にかすっかり暗くなっていた。ぼんやりと見回していると、「よく眠っていたねえ」とからかいまじりの声が下のほうからした。エンにおぶわれているらしい。
「俺の足、キミがずっとその大きな頭を乗せていたせいで、ちょっと立てないくらいに痺れてたよ」
「わたしはエンのこと、おこしましたよ」
「そうなの? それは失礼。夢を見てた」
「よい夢でした?」
 少し身を乗り出しながら、尋ねる。
 金の眸がこちらを見た。目が合うと、ふふっと秘密めいた笑い方をする。
「イイ夢だった、……たぶん。いとしい女に会ったよ。いったい何年ぶりだろう」
「そうですか」
 いまいち、そのあたりの機微がわからないシュロは首を傾げて、またあくびをした。エンの首筋からはほんのり煙草のにおいがする。苦みを帯びたそのにおいは薔薇色の空の下、夕どきの風とまじって、不思議と眠気を誘った。このまま眠りに落ちれば、シュロも「イイ夢」が見れるかもしれない。もしかしたら、エンの言う「いとしい女」に会えるかもしれなかった。
「ねえ、エン」
「なんですか、ちっちゃな聖女様」
「わたしも夢を見るので、ついたら起こしてくださいね」
「どうかなあ。俺は薄情モンだから、きっと起こさない」
「ふふ。エンはやさしいひとですよ」
 微笑んで、重くなってきた瞼を閉じる。瞼裏に広がったのは、薔薇色の天で、いとしい女は見当たらなかったけれど、とてもよい夢のように思えた。
「ねえ、シュロ。キミがもし……」
 だからきっと、耳元で聞こえた気がするエンの声も、シュロの見た夢に過ぎなかったのだろう。


 *


 いつもの寝台の上で目を覚ましたとき、エン、またの名をクロエと呼ばれた男はすでに王都を発ったあとであった。冬になる前に北方のシャルロットへ向かうのだという。「もともと長くとどまる方ではありませんから……」と呟く大老の声をシュロはちっとも頭に入ってこない聖書をめくりながら聞いた。幼いなりに深く傷ついたその出来事をシュロはしばらく誰にも話さなかった。
 この場所はさながら鳥籠、牢獄であると、幼馴染の北騎士は言った。
 ――確かに、此処は時から置き去りにされた囚人たちの住まう場所であった。
 十年の時は緩慢に、されど瞬く間に過ぎ去った。
 うまく歩くことを知らなかった彼の小さな足はそのままに、背も手足もすらりと伸びて、今では目を瞑ってもすらすらと聖句を諳んじることができる。塔のバルコニーに立ち、ヘイズルの髪を夕風になびかせながら、彼は薔薇色に染まる王都ユグドラシルを眺めた。夕どきを知らせる教会の鐘が鳴っている。白亜の石畳を輝かせるこの街もやがては夜の帳が落ち、今宵もまた、聖音鳥が嘆きの歌を響かせるのだろう。
『ねえシュロ。キミがもし……』
 もし、悪い夢を見たら。終わらない、悪夢を見ているのだったら。
 迎えにいくよ。キミがちいさな手で俺を起こしてくれたみたいに。
 ねえ。まだちいさな俺の――。
「――もうずっと、悪夢のようなモンですよ」
 ふふん、と十五の少年はうすぐらく微笑い、白い衣をさばいて、暮れなずむ美しき薔薇色の天へ背を向けた。風が歌う。花が祝う。うるわしき翠と水の都、ユグドラシル。その祝福に背を向けた少年が、少女の足音を聞く数か月前のこと。

……「約束」了



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(「神学生がシュロを連れ出した頃の一幕(できれば膝だっこ)」@『ユグドラシル』)



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