それからしばらく霧井湊に滞在する間、桜を抱えて歩くのは雪瀬の役目になった。
 別に雪瀬が酔狂を起こしたわけじゃない。都から霧井までの道程で、もとより痛めていた桜の足は酷使に耐えかね、湊にたどり着いた翌朝、目を覚ますと、足首がそれと見てわかるくらいに腫れ上がっていた。朧という医者は何種かの薬草で薬を作りながら、数日歩くのは控えるようにと桜に言った。
「そんなに長い間、歩いちゃいけないの?」
「しばらくは僕らも湊から動けません。ちょうどよいじゃありませんか」
 雪瀬にまた置いて行かれてしまうのでは、と危惧した桜に、朧は苦笑気味に肩をすくめた。
「堤の一部が壊れたんです。数年前、普請を請け負ったのが葛ヶ原ですから、都から修復も命じられるんじゃないかっていうお見立てです。滞在ついでに調査をかけて、必要なものは地場の商人に買付を頼んでおいたほうが早い」
「しばらく、ここにいるということ?」
「ええ。だから、あなたもゆっくり休んでおきなさい。何しろ、僕の制止を振り切って階段を駆け下り、うちの領主様に体当たりをかました方ですから」
 さすがの桜でも、言葉裏にひそめられた棘には気付いた。口をつぐむと、しかし朧はあっけらかんと笑った。
「せっかくだから、いっぱい甘えられたらいいじゃないですか。滞在中はあの方もすることがなくて、お暇ですよ。責任の一端はあの方にだってあるのだから、せいぜい、お世話をさせておけばいいんです」
「……でも、足をくじいたのは私だから、雪瀬のせいじゃないよ」
「そうかなあ。僕にはあの方の意地張りが原因のひとつに思えてならないけれど。第一、僕がつきっきりであなたのお世話をしていたら、やっぱり不機嫌になるんですよ、あの方は」
 ごちると、朧はさっさと雪瀬のもとに行って、桜の足の具合を伝えてしまった。何と言ったのかはわからないが、ひとの手が必要だという話もしたらしい。ともに夕餉の膳を終えると、雪瀬が別段なんというわけでもなく、手を差し出してきた。
「あ、あるけるよ、わたし」
 いっそ米俵を担ぐようにか、もしくは負ぶわれてしまったら開き直れるのかもしれないが、膝裏に腕を通して腰を支えられているのが妙に気恥ずかしい。耐えかねて、小さな声で訴え出てみるも、「そう?」と雪瀬はうなずいただけで、下ろす気配はない。それ以上言い募ることもできず、桜は雪瀬の衿のあたりを握り締めた。ことさら安定を欠くのは桜が肘を突っ張った中途半端な体勢を取っているからで、潔く雪瀬の首に腕を回してしまえばよいのだろうけど、それもまた桜にはとても難しいことなのだった。こっそり息を吐いて、桜は痛くなってきた胸のあたりをさすった。
「……どのくらいここにいるの?」
「六日。嵐がおさまったらすぐに出るつもりだったけど、堤が壊れてしまったから」
 朧が言っていた普請の話だろう。桜としても、本調子でないまま船旅に入らなければならないのはつらかったから、六日の休息はありがたかった。そう、と顎を引く。それきり、会話は途絶えた。
 もとより雪瀬はよく喋るたちではなく、桜に至っては言うまでもない。これまでさほど気に留めたことはなかったが、今日に限ってはどうにも落ち着かず、自然、意識は衿のあたりを握り締めている指先にいった。まだ盛夏を過ぎた時分の宵であるため、雪瀬も薄い単を着ている。触れた布地越しにほんのりと人肌の熱を感じた。ふいにそこに顔をうずめて、頬を擦り寄せたいような、むず痒い衝動に駆られた。きっと、もっと強い熱と、水を含んだ草木のにおいと、微かな汗を感じるに違いなかった。触れたいな、と思う。もっと触れられたらいいのに、と思う。けれど、どんな風に切り出せばそんなことができるのか、桜には見当もつかない。
 勢いで追いかけて、ぶつかっていったときはよかった。切羽詰まっていたし、必死だったから何だってできた。けれど、いざ日常に戻ってしまうと、触れること、指を絡めることにすら理由がいる気がして、うまく事を運ぶすべもわからぬまま、桜は雪瀬の衿を握る自分の手の甲に、半分うなだれる心地で額をくっつけた。
「ああ、月」
 頭上から声がして、足が止まる。
 顔を上げると、ちょうど軒下のあたりから、東のほうに輝く月が見えた。上ったばかりの月は、色付いたばかりの蕾に似た薄紅をしていた。いつもよりも目線が高いからか、ずっと近くにあるように感じる。
「届きそう」
 戯れにかざした手のひらでこぶしを作って、雪瀬のほうを振り返った。はずみにふわりと体勢が崩れ、おちる、と思う。目を瞑ってしまったが、実際は背に回されていた腕がきちんと桜を引き寄せて、傾ぎかけた身体を支えてくれた。
「……どうしてそう、無謀な動き方をする…」
 一気に疲れたらしく、縁に座り込みながら雪瀬が言った。
「びっくり、した」
「俺のほうがびっくりした」
「落ちるかと思った」
「落とさないよ」
 何気なく返された言葉に目を瞬かせ、雪瀬を見上げる。疑われたと思ったらしい。「落とさないよ、さすがに」ともう一度、若干不服そうに雪瀬は言った。
「うん……」
 中途半端にうなずき、桜は目を落とした。
 暗闇でよかったと思った。何故か急に涙がこみ上げそうになったのだった。落とさない。なんてたわいがなく、幸福な約束なのだろう。きっと数日前の自分に今の話をしても、とても信じられないにちがいない。本当に?、と桜は声に出さずに呟いた。案の定、雪瀬が不思議そうな顔をしたので、すこしわらって、縁に何気なく投げ出されている手の甲にそっと指先を触れさせた。雪瀬の手は想像したよりも少し大きく、夏であるのにひんやりとしている。
「さわっていい?」
 尋ねると、自分を見つめる眸がつかの間揺らいだ。よいとも悪いとも雪瀬は言わなかった。代わりに差しのべられた反対の手のひらが桜の髪に触れる。少しずつ、大事に梳くようなそぶりを雪瀬はした。別に取り立てて表情を浮かべているわけではないのに、反して、指先はやさしかった。その大事に、大事に触れてくる指先から、おぼろげに相手の気持ちがうかがえた。同時に背筋がふるえるほどのいとおしさが溢れてきて、恐ろしく思う。
 もっと、触れてほしい。もっと。
 底無しの欲が湧いてくるようで、桜にはそんな自分が手に負えない、恐ろしいもののように感じられるのだ。
 しばらく丁寧に髪を梳いていた指先が残ったひと房を耳にかける。ひんやりとした指先が耳朶に触れたので、自然肩がいすくまって、手のぬしを仰いだ。月の光に照らされた手のひらはほの白い。節くれだった指や、未だに引き攣れた痕の残る手のひらや、潰れた肉刺が固くなった痕などが、ふちのほうを淡く光に染め、しろじろとした陰影を作っている。
「きれいだね」
 ため息まじりに呟くと、相手は瞬きをしたのち、天のほうを見上げて「満月だからね」と言った。きっと月のことだと思ったのだろう。ちいさくわらって、桜はためらいまじりに手の甲に触れさせていた指先をそっと相手の指へ絡めた。ひんやりとしていたのは最初だけで、絡めていると内側のほうからゆっくり熱が伝わってくる。あたたかい、と呟くと、雪瀬はそう、と視線を月のほうへ戻しながら言って、指を深く絡めてきた。

……「月下」了




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