「――欲しいの」
 ためらいがちに伸ばされた指先が、衿を引き寄せる。少女の細い肩からさらりとまっすぐな黒髪が音を立てて滑るのを雪瀬は見上げた。時折、時がつぶさに音を立てて落ちていく瞬間がある。このときもそうだった。向けられた今にもこわれそうな、薄氷のような果敢ない微笑も、指先から伝わる震えも、微かな吐息も、細められた緋色の眸も。彼女をかたどるひとつひとつが、雪瀬にはつぶさに見えた。それは同時に恐ろしい予感でもあった。
 この娘が、手に入る。
「あなたが、欲しいの」
 手に入る。
 それはとても、雪瀬にとってはとても恐ろしい。恐ろしい、ことだった。
 できることなら、引き返したい。けれど、もう逃げることはできないのだともどこかでわかっている。何より雪瀬は桜が欲しかった。認めがたく、胸の奥深くに頑なに閉じ込めた望みとして。本当は最後まで閉じ込めておきたかったのに、他でもない彼女によって引きずり出されてしまった。歓喜と落胆、幸福と絶望が一緒くたに襲って来て、もはや抗いようもなく雪瀬は腕の中に落ちてきた少女に目を瞑った。


 ***


「わたしを追ってきたのだと思うんですよね」
 透垣を隔てた母屋で足を洗っている少女を遠目にのぞき、竹が神妙そうな顔でそう言った。離れの一間で上がってきた報告に目を通していた雪瀬は一拍間をおき、なんのはなしだ、とかたわらに茶を置く小姓の少年をうかがう。主人の前だというのに竹少年の視線はそぞろで、母屋のほうで水を湛えた盥に素足をつけている少女を見つめている。離れから若い男どもに見られているなど考えてもいないであろう少女は、少し腫れた、ましろの足首を惜しげもなくさらし、通りかかった飯炊き娘と何かを話している。そのうち冷やし過ぎたのかくしゃみをした。
「可愛いなあ……」
 呟くと、竹少年はしおらしく目を伏せて、ため息をついてみせたりなどする。それから、さっぱり反応を返さない雪瀬に焦れた様子で、「ねえ雪瀬さま、見てました!?」と詰め寄った。
「なにを」
「だから、桜さんがくしゅんってやったところですよ。くしゅんですって。かわいいなあ。そりゃあ雪瀬さまは、きれいな許嫁がいらっしゃるし、ぼんやりしておられているから気付いてないのかもしれませんけど、数日前からいるんですよ、あの子。ほら、足を怪我しているでしょ。なんでも好いた殿方を追って都から来たらしいんですよう……!!」
 いやあ照れるなあ、どうしようかなあ、と竹少年は難しそうな顔で腕を組み、頬を染めてまたため息をつく。それでようやく冒頭の「わたしを追ってきたのだと思う」という言葉にたどりつき、雪瀬は危うくむせかけた。
「竹さんが好きですって言われたら、私、どうしたらいいと思います?」
「……ないんじゃない。たぶん」
 雪瀬は呟いたが、すかさず「どうして言い切れるんですか!」と竹少年が口を尖らせる。
「そりゃあ……」
 言いかけたところで面倒くさくなって、せっつく竹少年に追い払うと、報告書をめくった。
 外では嵐の間中息をひそめていた蝉が再び盛り鳴き、濡れ縁に、夏のじりじりとした日射しがあたっている。実に数日ぶりの快晴である。都から霧井周辺を荒らした夏の嵐は、長らく湊にとどまり、静まることがなかった。陸路の封鎖はさることながら、船の運航も止まってしまったため、雪瀬たちも湊から動くことができず、帰路の旅程は大幅に遅れた。また、この嵐の間に船のいくつかは破損し、堤に至っても一部に損壊が生じた。霧井湊の普請には、数年前葛ヶ原が携わっていた。堤の設計や職工の手配も葛ヶ原でやったため、補修は追って言いつけられることになるだろう。見越して、雪瀬は嵐が過ぎたあとも数日、霧井にとどまることを決めた。補修の前に石垣がどの程度壊れているのか調べる必要があったし、できれば、船頭たちの話も聞いておきたい。一行にひとり土木に詳しい、スズシロという男がいたため、おおかたをつかめれば、必要な人間を呼んで、修復に入ることができるだろう。
 そのための報告書である。
 雪瀬は紙の束を文机に置いた。
「あれ、雪瀬様、お出かけですか?」
「紙だけだと、わからないや。スズシロは今日も湊のほうにいってるんだっけ」
「えーと、どうだったでしょう……」
「たぶん行ってる。千鳥を呼んできて」
 護衛の少女の名を上げると、「了解です!」と竹少年は意気込んだ。この無駄に、といえるくらいのやる気は、この少年の唯一の美点といってよいだろう。外着に着替えつつ、ふと別のことを思いついて、雪瀬はすでに駆け出している竹少年の背中に言った。
「桜のこと、知ってたっけ?」
「だって、私を無名さんのところに遣わしたの、雪瀬様じゃあないですか。あんなに可愛い子に気付かなかったら、目が節穴ですよ。ね、見ててくださいね。わたしにも春がきちゃいますからね」
 半ば跳ねる勢いで駆けて行った竹少年を雪瀬は嘆息まじりに見送った。春ねえ、とごちて、帯を結ぶ。春なんて、きたのかな俺に。
 決して手に入らないと諦めていたものが手の内にあるのに、正直なところ、充足感とはまるで無縁だった。どころか、今からでも遅くないのではないかとすら、ふとしたはずみに、思う。離してやらなくてよいのか。
 机を片付け外に出ると、母屋のほうではやはり桜がちょこんと縁に座って、その前にどこから持ってきたのか、両手いっぱいに芙蓉の花を抱いた竹少年が息を切らして飛び出した。頬を赤らめて、何かを早口で言った竹少年が勢いよく花を突き出す。腕からはみ出した花がはずみに落ちて、彼女の頭や膝に降った。目を瞬かせたのち、ちいさくわらう。落ちそうになった花たちを両腕を差し出して受け取ると、竹少年がますます赤くなった。
「すっかり勘違いしているみたいですよ、竹ったら」
 いつの間にか、隣に侍っていた少女が言った。雪瀬も気配には聡いほうであるが、隠密を父に持つこの少女の気配の断ち方は並ではない。雪瀬の荷物を受け取った千鳥は、「本当、お馬鹿なのだもの。あの子は」と小声でごちた。
「無名のところで会っていたんだって?」
「ええ、確か。あのときは確か朧さんが竹を連れて行ったんです」
「ああ」
 端々の人選までは雪瀬も把握しきれていない。そんなこともあったのか、と思いながら、下駄をつっかけ、縁から降りた。外に出ると、やはり日射しがあるぶん、蒸し暑さを感じる。
「早く言ってあげてくださいね。竹が不憫です」
「うーん……」
 生返事になってしまいつつ、雪瀬は別のことを聞いた。
「スズシロはやっぱり湊だって?」
「はい。いちばん損壊のひどかった一の地区にいるみたいです。向かわれますか」
「そうする」
 スズシロはたまたま荷運びに連れてきた、土木の知識を持つ職工だった。齢は四十ほどの働きざかりで、むっつりとした無骨な男であるが、外見には似つかぬ丁寧な仕事ぶりをする。雪瀬は夏らしさを取り戻した日射しに目を細めた。そばで芙蓉がいくつも背を伸ばして群れ咲いているのを見つけ、ああここから摘んできたのか、となんとはなしに考え、目を外す。竹少年ののん気な笑い声がしてきた。
(言うって何を?)
 あの娘は俺の女だから手を出すなとでも言えというのか。
 なんだかさっぱり実感の沸かない想像で、雪瀬は顔をしかめた。


 *


 最初の出会いからしてそうだったが、結局のところ、雪瀬は最後の最後で桜を切り捨てられないさだめにあるらしかった。
 霧井湊まで追いかけてこられたときもそうだった。泥だまりから抱き上げた彼女の身体は冷え切っていて、頬も指先も青白くなってしまっていた。なのに、呼吸だけがびっくりするほど熱い。朧を呼びつけて診せると、腫れた足を指して、雨の中をずいぶん歩いて来たんでしょうと言われた。あのとき、本当はまだ、葛ヶ原行きの船は出ていた。けれど、雪瀬は引き返してしまった。理由はあとからいろいろとつけたが、要は、褥の上に力なく臥せってうなされている彼女を放っていなくなることができなかったのだ。
 雪瀬はいつもそうだった。
 手を伸ばされると、握り返してしまう。
 泣かれると、考えるより前に手を差し伸べてしまう。
 彼女が眠っているのをいいことに小さな手をくるみこんで、目を覚ましたら、いったいどうする気なんだ、と思った。連れて帰る気もないくせに。彼女が眠る今のうちに置いて帰ったほうがいいに決まっているのに。手を握っている間は、彼女は泣かないから。ほっとしたように眠り込んでいるから。だからあと少しだけ眠らせておいてあげたいのだとそう思ってしまうこと自体が、たいそうな偽善だった。雪瀬はたぶん、これまでだって桜をたくさん泣かせたし、彼女を置いて帰れば、また一度は泣かせるにちがいないのだから。
(――それでも、今はそばに置くと決めた)
 湊に向かう間、いやがおうにも雑念は頭をもたげた。
 吹き付けるぬるい潮風に髪を乱されながら、雪瀬は遠方に広がりつつあるみどりの海を臨む。何故だろう。雪瀬はもう、桜を選び取ったはずだった。一時は逃げ出して、みっともなく弱音すら吐いて、それでも最後には彼女を選んだはずだった。ひとりではなく、彼女と歩く今を。それなのに、何故。
(まだ迷うんだ)


 暮れかけた日がみどりの波間に揺らめいている。
 雪瀬が寝所としている二階の一間からは、霧井の湊が見渡せ、波音もよく聞こえた。葛ヶ原にも海はあるが、橘の屋敷からは離れており、このように朝も夕も絶え間なく波音がしているというのは不思議なかんじだった。
 波音に混じって蜩の鳴く部屋で、雪瀬は墨をする。私がすりますよ、と竹などは言うが、雪瀬は自分がすった墨に筆を浸して書くほうがなんとはなしに気が入る。墨のにおいを好んでいるというのもあったし、愛刀を手入れするのと心持は近いのだろう。すりたての墨に使い慣れた筆を浸し、スズシロや船頭から聞いた話を書き起こしていると、襖の外で、とん、ととん、と若干不規則な足音がした。それが何なのか察しのつかない雪瀬ではなかったので、硯に筆を置いて立ち上がると、内廊へ出る。桜は階段のちょうど中頃で一息ついているところで、階上のこちらを仰ぐと、あれ、という顔をした。
「……いいのに」
 そんな足で上がってこなくたって。
 中途半端に呟いて、彼女のほうへ腕を差し出す。膝に腕を通して抱き上げると、こわれもののように華奢な身体が腕の中へおさまった。彼女は他の娘たちに比べても、小さくて、華奢で、昔からおそるおそるといった触れ方になってしまう。
「じぶんであるけるよ」
「そう?」
「……下に行く途中だった?」
 一度は反論らしきものを試みてから下ろされることがないらしいのを悟ると、桜は別のことを訊いてきた。いや、と曖昧な返事をかえし、畳の上に下ろして、積んであった座布団をふたつみっつ置く。
「ありがとう」
 受け取った座布団を桜は下に敷いた。肩甲骨にかかるくらいの髪は今、耳下で緩く結ばれて、肩に流されていた。乱れてしまった髪房を耳にかけなおして、桜は持っていた芙蓉を、ほかの花を浮かべた水盆へ挿す。浸した指でゆるくかき回す。男に見られているのも気付かずに足を洗っていたかと思えば、時折急に大人びた仕草をする。子犬のように自分のあとにくっついていた彼女ばかりを見慣れている雪瀬には妙なかんじがしてしまい、頬杖をついて視線をよそへやった。そういったやましさを知ってか知らずか、彼女はしばらく指先を水盆につけて遊ばせていた。それから、何か思いつくことがあったように、すこしわらう。
「墨のにおいがする」
「さっきまですってた」
「ふみ?」
「いや、自分用の覚書。そういえば、扇から報せが来てた。無名がもうじき追いつくって」
「よかった。馬は無事かな」
 桜を途中まで乗せてきた馬は霧井の関所の手前で足を怪我してしまったらしい。傷ついた馬を街道にある貸し馬屋に連れていっていた無名も、少し遅れてこちらに追いつこうとしていた。同時にここにはいない相手に想いを馳せたからかもしれない。不意に落ちた沈黙をついて、止まっていた蜩の声がまたささめき出す。桜は下に敷いた座布団からわずかに腰を浮かせて、こちらを、じ、と見つめた。まったくあけすけに見上げてくるので、胡乱な顔になって「なに?」と言う。
「何を考えているのかなあと思ったの」
「見ると、わかるの?」
「わかるときもあるし、わからないときもある。この間はわかった気がしたのだけれど、今日はむずかしい」
 真剣な顔つきをしてそう言う。吐息がかかりそうなくらいそばちかく、窓縁から射し込んだ光が彼女の長い睫毛を滑る。本来色素の薄い頬は、暑気のせいで今はほんのりと上気していた。――なら、わかっていないのだろう、と雪瀬は思った。彼女はまったく何もわかっていないのだろう。
 折った指がついと顎を引き上げ、唇のふちをなぞった。真摯に見上げていた緋色の眸がふわりと瞬く。みるみる眦を朱に染めて俯いた彼女へ、頬杖を外して、口付けた。ほんとうに、かるく。今さら、まるで子どもみたいな触れ方をするのが自分でもおかしい。
「――……花が、欲しい?」
 水盆で揺れる芙蓉へ横目をやって、そのように尋ねる。尋ねながらも、俺は花なんて、やらないのだろうな、と胸中ではこたえている。初恋を覚えたばかりのあの無垢な少年みたいに腕いっぱいの花を摘むことはないし、それを彼女に捧げることもないように思う。普通の娘が望むような言葉も、たぶん、言わない。
 桜はしばらく考えこむようなそぶりをしてから、やがて首を振った。
 代わりに、指先がそっと雪瀬の袖端を引く。
「もういちど、」
 ねだる声はか細く、中途で消えた。意を決した風に、彼女は眸を瞑りこむ。
 張りつめたその横顔を見て、ああ、だけども一輪。せめて、一輪でいい、こんな身勝手さとは無縁の花を差し出すことができたならと。まるで祈るように思ったりなどする。雪瀬はなよやかに肩にかかる黒髪ごと彼女を引き寄せた。夕どきの、薄闇に沈む畳の目に窓辺から射したまばゆい残照が落ちる。されど、重なった影はしばらく息をひそめて動かぬまま。


 *


「とんだふしだらな男です、あなた様は!」
 翌日、身支度をして帯を締めていると、襖を開くなり、竹少年が指を突き付けて言った。一晩にして、桜が何者であるかはこの少年の知るところとなったらしい。隠していても仕方がないので、雪瀬が言ってしまった。紫陽花が待ちわびていたかのようにやってきて、平手打ちを食らわせた。それで、銀の簪を叩きつけて、許嫁芝居は仕舞。筋書通りにいかなかったのは、平手打ちを三回食らったのと、銀簪を何故か気に入ったらしい紫陽花が持ち帰ってしまったことだ。「よい思い出になろう?」と、頬を冷やしている雪瀬に女は愉快げにわらった。本当に愉快そうなのが少々腹立たしい。
「あなたという方は許嫁というものがありながら、ほかの女の子まで! 浮気者! 紫陽花様がおかわいそう! 私、慰めてきますからっ」
 早口でまくしたてると、竹少年はきびすを返した。脱兎のごとく去っていく背中を見やって、雪瀬は嘆息する。確かにうやむやのまま、数日放っておいた雪瀬が悪い。湊を見に行くついでに、竹少年の好物の落雁でも買って帰るかと思案をしつつ、揃えてあった下駄をつっかけた。
 枝折り戸のそばの井戸に腰かけて千鳥を待つ間、塀から背高く伸びている芙蓉の花を気付き、見上げた。ましろの花弁をひらいた大輪は、風を受けて優美に揺れている。天穹に向けてまっすぐたたずむさまがすがすがしかった。
 手折るにはすこし惜しい。
 代わりに、風に揺れる花弁に触れてみたくなって、塀の内側へ回ると雪瀬は背の高い茎を真似て、背伸びをする。ああ、似合わないことしているなあ。知らずこぼれた苦笑を引っ掛け、夏の陽射しのほうへ手をかざした。
 花茎は存外高く、触れるとすべらかなみずみずしさを指先に残した。

……「芙蓉」了




☆彡Special thanks to あんころもちさん&リクくださった方 !!!
(「桜と雪瀬、雪瀬らしい嫉妬話(時間軸未来)」「雪瀬のやきもち」「三譚六章6の雪瀬の心情(雪瀬視点で)」@『蒼穹、その果て』)



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