薫衣は十五の終わりに五條の家督を継いだ。
 もともと、五條家には男児がいなかった。薫衣の父が病で急死したときには、よそから養子をとる案なども挙がったらしい。これを蹴散らし、反対する母と妹とを家から追い出して家督を継いだのが薫衣だ。このとき、齢十五。家主だけが座することの許される蘇芳の御座に、しゃっきりと、伸びたての若竹のごとく座り、薫衣は集めた家臣を見渡した。
「不服のものもいるだろう」
 生来低めな少女の声には、けれどまだほんのりと少女らしい可憐さがあった。切ったばかりの髪がかかる顔はよく日に焼けて、睫毛を伏せれば、あどけないといってよい年頃だ。しかし、瞬きもせず、前を見据えた目だけが違った。
「異議をあるなら言え。でなければ、刀を持ってこい。私が相手をする」
 燃えている。
 爛々と、燃えていた。淡い茶の眸は、燃え盛る炎を宿して、金に輝くかのようだ。薫衣は眸を眇め、誰も何も言わないことを見てとると、口端だけで少しわらった。ほんに息の根をとめられるかと思いました、とのちに薫衣のそばちかくにあった老爺は語る。

 *

「五條薫衣が参りました。八代殿はいらっしゃるか」
 尋ねると、やはり思ったとおり、否、の返事がかえった。
 薫衣は通された控えの間で息をつく。家督を継いでから数日後のことである。薫衣は五條紋を背に染め抜いた正装をして、橘宗家の門をくぐった。橘に仕える主だった家の者たちは、当主が交代した際には、通例として橘宗家、次に分家に挨拶に訪れる。葛ヶ原を治める橘宗家の現当主は八代であるが、表に姿を見せなくなって久しく、嫡男の颯音が大半について代役を務めていた。
 今日もまた八代はおらず、颯音のほうが呼ばわれた。
 案内された部屋は、客人などを相手に使われる、どちらかというと公寄りの場所であった。緑と金で縁を縫い取られた御座は空いている。しばらく待っていると、ひとの入る気配があり、伏せた面を澄んだ風が撫でた。一息のち、顔を上げる。橘颯音は口元に微かな苦笑を乗せ、そこに座っていた。
「五條の家は、養子の男児が継ぐと聞いていたけれど、ちがうの?」
「残念ながら、縁がなかったようで。養子に迎える予定だった男へは、私からわび状を入れておきました」
「母上と妹君は?」
「去りました。けれど、家臣たちならすべて残りました」
 薫衣は自慢するように微笑んだ。対する橘の若君は、脇息に頬杖をついたまま息を吐く。呆れたらしい、というのが仕草からありありと伝わった。これ以上の問答は必要ないと考えたのだろう。いくつか形式的な話をしたあと、颯音は五條家の家督の継承を認めた。かくして、五條薫衣は正式に橘宗家に仕える身と相成った。


 風が哭いていた。
 秋から冬にかけて、葛ヶ原の風は荒れる。海と山に囲まれた里は、雪が降りしきり、やんだと思えば、地を這う風が乾いた雪を舞い上げ、視界を煙らせる。夕刻、雪はひととき止んで、曇天からうっすら金の光が漏れていた。山の稜線もまた、金縁を描いている。濡れ縁に影が差したのに気付いて、薫衣はあぐらをかいた格好のまま、口端を上げた。
「ふふん、驚いたか。私は手際がよく、家督を奪っただろう」
「そんなことをわざわざ自慢しにきたの?」
 灰茶の袷に着替えた若君はくすっとわらう。
 先ほどは呆れるていだったが、今はどこか愉しむ風でもある。
「そうだよ。家臣どもだって、皆ひれ伏せた。二、三はまあ、取っ組み合いもしたが、私が勝った。ふふん。勝ったぞ、私が」
「薫衣さんはまったく血の気が多くって、俺はそちらのほうが心配だよ」
「安心しろ。若君様ほどじゃあない」
 濡れ縁には、丸い火鉢が置かれている。隣に座して赤々と燃える炭火に手をかざした颯音を、薫衣は眺めた。しばらく静かな横顔をうかがって、それから立てかけてあった木刀の切っ先をまったくおもむろに向けた。
「また、物騒なことをする」
 顔を上げた若君はしかし、ちらとも動じた風ではない。気配を感じたからか。それとも付き合いの長いこの男であるから、最初から薫衣のことなどお見通しなのか。薫衣は男の首筋にあてていた切っ先を外し、代わりにもう一本持ち込んでいた木刀を颯音の隣に置いた。ひょい、と身軽に庭に降りて、男を振り返る。
「お前とはいろんな遊びをしたな。覚えているか、若君様」
「幼い俺には、きみがいちばんの遊び相手だったもの。覚えているよ。木登り、魚釣り、虫取りに鎮守の森へ入ったこともあった」
「あなたは何でもできたけど、泳ぎは私のほうがうまかった」
「溺れたきみを助けたのは誰だったか、覚えている? 碁も俺のほうが強かった」
「あなたは何でもすぐに覚えてうまくなる。嫌味な奴だったよ」
「それは失礼。手を抜いてやったら、きみは怒るでしょう」
「まあね。――だから、最後にひとつ勝負をしないか。若君様」
 それから、「真剣でやるわけにもいかんから」と木刀に手を触れて言い添える。濡れ縁の上で、颯音は肩をすくめた。
「この期に及んで、まだ勝ったらどうだの、負けたらどうだのとやるつもり?」
「しないよ。私ももう、十の子どもじゃあない。あなたがとっくに子ども時代を終えてしまったみたいに。だからこれは単なる遊びだ。あなたと、あなたの遊び相手だった私の最後の」
「……そういえば、最後の碁の勝負はついてなかったね」
 一拍おいて返された言葉がどのような思いで紡がれたものかはわからない。しかれども、そう言うと颯音は濡れ縁から腰を上げ、木刀を握った。薫衣もまた、羽織を丸めて縁に放る。
 颯音は静かな眼差しで薫衣を見つめている。
 静かであるが、息をしたそばから、射殺されそうだった。
 よいな、と思う。
 薫衣はいっとう、この眼差しがすきだ。狙いを定めて、ひたと狩りを待つ、冷淡で獰猛なこの眼差しがすきだ。普段は、弓をする横顔をそっと見つめているときにしか叶わない。この先も、このように対峙することはない。なくなる。薫衣はこのひとをこそ、守らなくてはならないのだから。
 だから、この一瞬を、望む。
 この一瞬だけは、あなたはわたしのものだ。


「ふ、ふふ、あはははははっ!」
 結局、ほんの数度の打ち合いの末、薫衣は負けた。驚いた。剣術のほうは雪瀬のほうへ任せてもうさっぱりなまくらになっているだろうと思っていたのに。男女の力の差を抜いたって、颯音の太刀筋は速く、正確で、一点の迷いもなかった。地に膝をつくと、それまで張りつめていた糸が切れて、急におかしな気分になった。
「負けた! やっぱりおまえは強いなあ。ずるい。嫌味な奴め」
 薫衣は転がった木刀を引き寄せて、苦笑した。
 幼い頃は、この男がたいそう嫌いで、反発ばかりをしていた。
 届かない。
 手を伸ばしても、届かない。
 橘颯音は常に高みにいて、決して降りてはこない。それが幼い薫衣には無性に腹が立った。薫衣がどんなに速く走ったって、その先を颯音はいくんだろう。きっと、つかまらない。つかまえられない。そんな男を、追って、追いかけて、死ぬまで追いすがっていくのが、けれど、五條薫衣の人生なんだろう。そう心に決めたとき、薫衣にはもう己の道筋が見えていた。
「並の男には勝てる自信があったんだがな。だめだった」
「薫ちゃん」
「でも、油断してみろ。すぐに追い越すから」
 小さく口の端に笑みを乗せ、薫衣は颯音を見つめた。
「ぜったい、いつか、私が追い越すから」
 天から、金色の光が射してまぶしい。
 光にふちどられた指先が手をそっと取り上げた。唇が指に触れる。まるで契りのように触れて、「待たない」と颯音は言った。
「待たないよ」
 伏せられた睫毛の下に、うたかた、感情が浮かんだが。
 それもすぐに奥底へ沈んで消えた。



 *



 うたかたの記憶がある。
「薫衣、というんですよ。若君様」
 母に連れられた先で、籐で編まれた子守籠で眠る赤子に出会った。まだ乳飲み子で、颯音よりもふたつ年下なのだという。この頃はまだ暴れん坊の気質が強かった颯音であったが、眠る赤子が珍しく、しげしげと中をのぞきこんだ。
「くのえ」
「薫る衣と書くんです。女の子らしい名前でしょう」
 そうかなあ、と颯音は首を傾げる。眉も太いし、眦もきりりとしていて、とても女の子らしい顔に見えないけれど。試しに頬をつついてみると、大きな眸がぱっちり開いた。橘のものよりも少し淡い茶の眸は、奥から光が満ちるようで、とても。とてもきれいだった。颯音は機嫌をよくして、赤子の頬をくすぐる。
 五條は古くから橘に仕える家なのだという。
「じゃあ、『くのえ』はおれのだね」
 微笑み、颯音はするするとまた眠りだした赤子に口付けた。
「おれのもの」
 うれしくて、かなしくて、少しだけ泣いた。
 ――きみは知らない、うたかたの記憶である。

……「記憶」了




☆彡Special thanks to 実紅さん !!!
(「颯音と薫衣の初ちゅう」@『蒼穹、その果て』)



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