を摘む



「弓さん。俺とときどき遊んでくれますか?」
 そうのたまい、わたしを御側付に召し上げたのが葛ヶ原領主橘雪瀬様である。
 わたしの父は百川漱といい、三年前、国を乱した大事件ののち、わたしと母とを連れて葛ヶ原に移った。雪瀬様は齢十六の若年にて立った葛ヶ原の領主様であり、我が父に勧められ側付の娘を探していたところ目に留まったのが当時齢三つのわたしであった。ご冗談を、と父はおおいに反対したようだけれども、わたしは覚えたての碁の遊び相手が欲しくてたまらず、差し出された手のひらに破顔して手を載せた。きゅっと握り返すと、ひんやりした温度が伝わる。手のひらがつめたいひとなのだ。わたしが最初に雪瀬様について思いついた感想がそれはそれだった。

「雪瀬様。よろしいですか」
 わたしの朝は雪瀬様に目覚めの茶を一杯運ぶことから始まる。雪瀬様にはほかに竹という名前の小姓がひとりいたけれど、竹は気の利かぬよくない小姓であるので、点てた茶をお運びする役割はわたしが取り上げた。
 声をかけてお待ちすること、しばらく。返事が返らぬことを不審に思い、断りを入れてから襖を引くと、案の定中はもぬけの殻であった。
 ああ、またもや! 
 憤慨し、わたしは畳の上に突っ伏す。雪瀬様がわたしの運んだ目覚めの茶を待たず、どこぞやへ出かけてしまうことはままあった。むしろ、茶をお召し上がりになられることのほうが珍しい。いいのに弓、そんな早起きしなくて。などと雪瀬様はのたまうが、側付としては朝いちばんに点てた少し渋めの茶を本日の気分に合わせた茶碗とともに雪瀬様のもとにお運びし、お召し上がりいただくことこそ本望だと思うのである。そのように申し上げたところ、雪瀬様は沈思したのち、わたしの父上におまえは娘に何を教え込んでいるのだと尋ねた。何をと言われても、当然のことを申し上げたまででございます。
 結局出せずじまいになった茶を盆に載せて厨に向かうと、ちょうど千鳥ねえさんがごはんをいっぱいに盛ったお茶碗とお味噌汁とで朝餉をしているところだった。戻られていたのですか、とわたしが問えば、「今朝方に」とまだ紐のほどかれていない荷を示して千鳥ねえさんが言う。わたしは千鳥ねえさんのかたわらに座り、「少し冷めたお茶ですが」と雪瀬様に出すはずだった茶を置いた。
「今回はどこへゆかれていたのです?」
「都だよ。霧井湊で弓の父様と落ち合って、都の橘屋敷までお運びしたの」
「ちちうえは無事ですか」
「うん」
 千鳥ねえさんは雪瀬様のお世話係を自称しており、肩書上はわたしと似ているのだが、普段はあちらこちらへ旅をして留守にしていることが多い。何をなさっているのです、と以前聞いたところ、雪瀬様の目や耳になっているんだよ、と千鳥ねえさんはふふっとわらって教えてくれた。
 千鳥ねえさんに都のおみやげの索餅をいただいたあと、わたしはようやく使用人部屋に戻って、よく屋敷に寄りついている猫とともに濡れ縁に横たわった。外は初夏の雨がさあさあと降っている。雨音に耳を澄ませながら、このようにうたた寝をするのも、わたしの日々の日課である。

 雪瀬様がお戻りになられると、ぱたぱたとあちこちでかしましい足音がするのですぐに気付くことができる。わたしはまだぼんやりとした目をこすり、身を起こした。おなかには誰ぞやがかけてくれた羽織がある。やさしい乳香が微かにくゆったので、柚葉様だ、とわたしは思った。柚葉様は雪瀬様の妹君で、とてもすてきなおねえさまである。繰り返すが、とてもすてきなおねえさまなのである。
 畳んだ羽織を抱えて、わたしは廊下を少し小走り気味に駆けた。思ったとおり、雪瀬様はお戻りになられていた。領主様というのが誰でもそうなのかはわからないが、雪瀬様は歩くのがたいそう早い。のろまの竹などは置いてきぼりにする勢いで歩いて行ってしまう。本日もあれこれと報告している家人に何かを言いつけながら廊下を突っ切り、ぱん!と襖を開く。心得ているわたしはきちんと先回りをかまして雪瀬様の私室に座り、「おかえりなさいませ!」と本日はじめてお会いする領主様をお迎えした。
「ああ、弓。ただいま?」
「道中おあつうございましたか。お茶は冷やしたものか、熱いものかどちらがよろしいでしょう?」
「うーん、今はいいや」
 と、つれない返事を返すのもすでに日課のうち。わたしはめげることなく、すでに袴のほうに回っている雪瀬様の手から、むん、と結び紐を奪い去った。側付であるわたしには雪瀬様のお着替えを手伝うという重大なお勤めがあるのだが、油断をしていると、雪瀬様は自分で袴を解いて替えの単に袖を通してしまうのだった。いくら雪瀬様とてこればっかりは譲れない。
 今日こそは! お着替えを! お手伝いするのです! 
 わたしが闘志に燃えた目でしゅたっと構えると、雪瀬様は急に何やら愉快がるような顔してしゅたっと構え返した。暫時にらみ合い。ええい、と飛びかかったわたしをたやすくかわしやがりなすった雪瀬様は、わたしの身体をひょいと脇に腕を通して抱き上げてしまう。なんたる不覚!
「いやです、離してくださりませ!」
「ふふ。どうぞご自分で抜けてごらんなさいませ?」
「意地悪なのです! 横暴なのです! いたいけなむすめをこのように!」
 わたしと話すとき、雪瀬様は何やら妙なかんじの丁寧語を使う。面白がって使っているのがわかって余計に腹が立ち、わたしはおなかに回された腕をぺしぺしと叩いた。その手を取り上げて、小包を握らされる。わたしは目を瞬かせ、手の中のものを見つめた。
「弓さんにおみやげあげる。こんぺーとー」
「金平糖、ですか」
「そう。こんぺーとー」
 普段はそのようなことがないのに、何故か金平糖の発音だけがうまくできないらしく舌足らずな言い方をする。息をついて、わたしは包みを開いた。中には色とりどりの星のかたちをした飴が詰まっている。わたしとて未だ齢六つのむすめごで、愛らしいものにはたいへん心動かされる。自然と顔が綻んでしまい、ありがとうございます、とわたしは声が浮き立たないよう気を付けて御礼を言った。
「でも、こんぺーとーじゃないですよ雪瀬様。金平糖っていうんですよ」

 外ではいまだ止むことなく、初夏の雨がさあさあ降っている。
 宵初めの頃、わたしは父上に連れられお屋敷を出るので、日課である辞去の挨拶に雪瀬様のもとへとおうかがいした。
「雪瀬様。よろしいですか」
 声をかければ、ほどなくしてどうぞ、と返る。襖を引くと、雪瀬様は珍しく文机ではなく濡れ縁のほうにいた。碁盤を出して、ひとりで碁石を繰っている。雨宵の淡いあお色に指先を染め、盤面に落とした視線は遠い。しばらくあぐらをかいた足に頬杖をついて碁盤を見つめたあと、ふいに興味がそがれたような顔をして碁石のひとつを弾く。わたしには時折その背中が。朝に昼に夜にとせわしなく走り続けるその背中が、息の根をとめるやわい間隙を知っていて。
「雪瀬様、雪瀬様。こんぺーとー、あげます」
 これはきっとさみしい、というのだろうと賢しく弁えていたから、もらった包みを紐解き、花色の金平糖をひとつ摘まんで渡した。



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2012.10.1 再録