をいだく




 東の国果てにある葛ヶ原は都よりも少し春が遅い。
 亡きひとびとに花を手向けた帰り、頭上にて風にそよめく淡雪がごとき花を見かけ、この花をひとふり彼に見せてあげたいと思ってしまったのは、花ぐるいのようなものであったのか。さくら、というのはとかくひとの気持ちを狂わせる花である。
 それと同じ名を冠する少女は儚げな容姿にそぐわず、たくましい。じっと樹上を見上げると、手に提げた水桶を樹の根元に置いて、裾をたくし上げ幹のこぶへと下駄を脱いだ足をかける。木登りは得意だった。桜は、苔の薄く生えた古い幹のこぶをうまく使って、どんどん高くへ上っていく。視界が少し開けたところで、太い枝を跨いで、樹上から春の葛ヶ原を見渡した。はるらんまん。さんざめく光に囁きあう花の娘たちを見つめて、呟いてみる。はるらんまん。心がおどるような響きだ。はるらんまん。あのひとにも、はるらんまんをおすそわけしてあげたいな。そんなことを考えて、かたわらで誘うように揺れる薄紅の花群れに手を伸ばす。ひらり。触れた指先から花びらがひとひらこぼれ落ちた。それは風にたなびかれ、くるくると回りながら遠くへ流されて見えなくなる。花びらをひとひら失った花はどこか寂しげで、桜はほんのり悲しい気持ちになった。
 四方に張った花枝は、触れると陽光のぬくもりを帯びていて、折るのがとても恐れ多い気がしてしまう。ためらった末、手を下ろした。はるらんまん、おすそわけしたかったけれど、ほかのものにしよう。心に決めて、引き返そうと身体をひねる。そして改めて、自分の腰掛ける場所の高さに眩暈を起こしそうになった。根元に置いてきた水桶と下駄とがやけに小さく見える。どうやっておりよう。そもそも、ここまでどうやってのぼってきたのだっけ。
 急に心細くなって幹にしがみつけば、花たちが揺れてくすくすと微笑いあう。天を覆いつくす白い花。はな。はな。ひとたび手中に捕えると、もうかえさないよ、とわらう。この花には魔がやどっていると、桜は思った。

 引き返すことも、おりることもできないで幹にじっとしがみついていると、足元でかさりと草の根を踏みしだく乾いた音がした。おそるおそる目を開けば、馬の鼻面が花の下に現れ、その轡を引くひとは根元に添えられた下駄を拾っていた。少し視線をめぐらせたのち、こちらを仰いだ男が、迷い猫を見つけたみたいな顔で、いた、と言う。さくら。彼は苦笑交じりに、おりられなくなってしまったの? と首を傾けた。眉根を寄せて、こくりと首を振ると、彼は、おてんばむすめ、と呆れつついとしみつつ嘆息して、馬の轡を幹に結んだ。両腕を差し出される。しょうがないから、おいで。彼のまるい声音は、桜にとって魔の響きを持っている。身体の芯が甘く痺れるような。そのような。きゅうと目を閉じて男のひとのほうへ身を投じると、彼はまちがえることなく桜の身体を受け止めてくれた。彼の、春の陽のにおいのする肩口に顔をうずめ、はるらんまん、あげたかったのに、としょんぼりして息をつく。はるらんまん?と、彼はおかしそうに尋ねる。はるらんまん。胸がどきどきして、たのしくなるの。腰に回された腕の中で教えると、彼はそうなの、と微笑をひそませた声で言って、ふんわり桜を花絨毯の上におろしてくれた。おろすとき、少し乱れた桜の髪を長い指が丁寧に梳く。そういう仕草を彼はとてもいとおしげにする。いとおしくてたまらない風な顔でする。だから桜はほんの一時、それはもう、息が詰まるくらいの幸福に溺れたりする。目を瞑って、わすれないように、髪に、触れる肌に、よぎる花びらの影、こぼれ落ちる時の一粒すらも、刻みつけるようにしてあいして。桜は至福に溺れる。
 男は髪に絡まる花の咲き殻をすくいやり、やがて、ああ、と苦笑をこめた嘆息をした。春めいてんね。この上なく、やさしい声。そういうとき、桜は泣き出したくて、このままこの腕の中でねむってしまえたらどんなにかしあわせだろうと考える。考える、はるらんまんは、美しくて、すこし、かなしい。



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2011.4.2 再録