男は、女の愛が己から離れてはゆかないかと心配でならない。
 生まれてから死ぬまで自信家の男であった。それなりの時間を生き抜いてきたが、不安、というものを感じたことがない。うしなうかもしれない、と怯えたことがない。そういう男を、さみしくて、みにくい男、と美貌の女官は嘲笑ったが、男はついぞ己をさみしい男だとは思えなかった。男に、感傷はない、不安や、恐れ、怯えもない。ただいつも、腹の底からせり上がるような強烈な飢えだけがある。飢え。飢えている、男は。物心つかぬ孤児であった時分から、商家の子がまとう温かそうなべべ、よその家の粥の温かなにおい、雨に濡れないですむ家、どれもが欲しかった。欲しい。欲しい。あれが欲しい。それが欲しい。これも欲しい。男にとって、飢餓とは、男の腐れた友、断ち切ることのできぬ愛人、男のすべて。長じて、宮中に出入りする人形師となり、金を得たのちは、美食にふけった。ふけった結果、男の腹が醜く膨れても、なんとも思わなかった。女も抱いた。男の妻が、家でひとり枕を濡らしていてもどうとも思わなかった。よその女はたいていすぐに飽きて、気まぐれに家に戻り、何食わぬ顔で妻に飯の用意をせがむ。風呂をせがむ。からだをせがむ。妻は、決して愚かで従順なだけの女ではなかったが、いつもあおい眸に透明な色を湛えて男を見つめるだけで、次の瞬間には元通り、男の妻である女を演じた。完璧なまでに。女のそれは、おそらく矜持であった。男は老いて、肥え太り、醜くなっていったが、女はいつまでも、出会ったときのままの、そして男の腕のうちで儚くなったときのままの、可憐な、痩せた、女であった。女が己のように老いて醜く肥え太れば、男はためらいなく女を捨てていたと思う。美しい、年をとらぬ人形。男の最高傑作。女を所有していると、男は腹の深いほうから満たされる。飢えがほんの少し、和らぐ気もぞする。
 だけども男は今、泣いている。涙など喪われてしまった醜い身体を丸めて泣いている。ちっぽけな、女のこぶしにも満たない、ちっぽけな、自分。男は初めての不安に慄いている。もし、女が自分を捨てたら。女が自分をこれは夫ではないといったら。あいして、くれなかったら。男は、空っぽだ。もう、女を抱けない。ものも食えない。飢えるばかりで満たされることもない。男は、不安で、不安で、不安で、みっともなく泣き続けた。やがて女がやってきて、ちっぽけな己の背をぞんざいにつまみあげ、何故うなっておいでなのですか、ととんちんかんなことを言う。うなっているのではない、泣いているのだ。男は、顔を俯ける。女の白い指先が男の藁で編んだ硬い頬に触れた。あおい眸が弓なりに細められる。それじゃあ、どうしたのです。どこか、痛いのですか。やさしい妻の顔を認めると、どうしようもなく、飢えた。ああ、と息を吐く。すてないでくれよう。男はみっともなく喚く。すてないでくれよう、俺は。おれは。おれは。おまえがいなくなったら。……生きてけねえよう。切れ切れに訴えた男に、女は目を微かに瞠り、やがて苦笑を滲ませる。子どもの駄々に手を焼く母親のような、あるいは長年連れ添った妻のような顔をして、女は男の硬い藁のどこにもない唇に口付けた。ほんとうに、馬鹿なひと。雫が一粒落ちて、藁で編まれた空っぽの身体に染み渡っていく。ああ、おまえはいつでもうつくしい。俺の最愛の。初秋。

 

くさのつゆ、しろし