菊畑の花が綻んだので、女たちはみな白い綿をかぶせた菊花から朝いちばんの露をとっている。秋のうろこ雲が浮かんだ青空の下に広がる菊畑は一面金色で、重く垂れ下がった稲穂みたいに朝陽を弾いてきらきらしていた。少女は、教育係である男と手を繋いで物珍しげに菊畑を見て回る。顔を寄せると、菊の花のかぐわしいにおいが微かにくゆる。こんもりした金色の奥にひそんだ薫香が少女にはまるで宝物のように思えた。男にも教えてやろうと思い、自分よりはるかに上背のある男を仰ぐ。それで、男の目が幾分遠くにあることに気付いた。賢しげな顔をして男の視線を追った少女は、あ、と笑みを綻ばせる。ひとと馬とを連れたいちばん上の兄上だった。馬には荷物が積まれているから、どこかに出かけるのかもしれない。そういえば兄は、常よりも上質な、よそゆきの上着を羽織っているようだった。
 少女のいちばん上の兄上は、いっとう自慢の兄上である。つよくて、やさしくて、弓がうまくて、字がおじょうずで、少し歌がお下手で、それから碁や算盤や字の書き方や、花や鳥の名前、薬となる草の名前、毒を含んだ草の名前、いろんなことを少女に教えてくれる。だいすきな、兄上だった。おおにいさま、と少女は、待ち切れずに兄を呼ぶ。兄はこちらに気付くと目元をやんわり和ませて、馬の轡を近くに控えていた少年に預ける。転げるようにして飛びついたこちらを抱きとめ、頭をくしゃっと撫でてくれた。兄はいつも穏やかな風をまとうていて、顔を押し付けると緑陰のにおいがする。おでかけですか、おおにいさま。尋ねると、兄はうんと言い、こういうときはなんていうの? とやさしく尋ね返す。それがうれしくて、頭に置かれた手の下で微笑んで、いってらっしゃい、と言った。いってらっしゃい、おおにいさま。間違えず、ちゃんと言えたらしい。おおにいさまは、少女の小さな額にこつんと額を合わせて、はい、いってきます、と言ってくれた。少女の教育係である男にも、行き場所を告げて、ひらりと袴を返す。少女は小さな手を何度も振って、兄を見送った。
 ねえ、おおにいさまはどこにいくの? 兄が告げた「行き場所」がよく聞き取れなかった少女は、繋いだ手を振って、教育係である男に尋ねる。みやこにゆくのですよ。みやこに? あなたのちちうえさまのかわりにいくのですよ。そうなの? だいすきなおおにいさまがしばらくいなくなってしまう、それがさみしくて、少女はふぅんと頬を膨らませる。そういう顔をすると、男はいつも、どうしたんです、と苦笑して甘えたがりの少女を構ってくれるのだけど、このときはすぐにいつものやさしい問いかけが降ってこなかった。少女は甘えたがっているだけの仏頂面を解いて、男を仰いだ。男は、兄の背中を見つめている。さっきとおんなじ風に、どこか眩しがるような、それでいて薄暗いあおの眸をして。兄が通ると、そこには強い風が吹く。道端に飛び出ていたがゆえにわずかに茎を傾けた菊の花に、やがて男は目を落とし、丁寧にこんもりした花の一片も散らさぬようにもとの位置に戻した。おおにいさまがきらい? 不意に思うところがあって、少女は手を繋いだ男に尋ねる。男はあおい眸をほのかに瞠らせて少女を見た。菊の花と、少女と、遠のいていく兄の背中とを順繰りに見て行き、それからもういっぺん少女に目を戻して、繋いだ手の甲に唇を寄せる。いいえ。大好きですよ、あなたさまとおなじくらい。だいすきですよ。こんもりした花の奥にひそんだその。記憶。中秋。
 

きっか、ひらく