都の友人が長い文を添えて送ってくれた枇杷の葉茶が届いたので、外の真新しい雪を集め、火鉢の五徳で湯を沸かして、茶を淹れた。湯気を立たせる茶から甘い葉の香がくゆる。桜はそれを盆に載せ、男の居室を叩いた。しん、とした沈黙。声が返らぬのを不審に思い、断って襖を少し引き開ければ、わずかに生まれた隙間を縫って男の部屋の古書と墨の混じった濃いにおいがした。書物がうず高く積まれ、散乱した男の居室に男の影はない。判じてから、ふと縁のふちにひとの足を見つけて、桜は視線を奥に投げた。
 冬の赤い残照を背に受けながら寝転がっている影。男だった。
 足の踏み場のない部屋からかろうじて文机を見つけ出して盆を置き、桜は板敷きのふちにかがみこむ。気配に鋭い男であったが、深く寝入ってしまっているのか目を覚ます様子はない。
 冬の終わりの春に近い時分である。さりとて、あたりはすでに吐く息が白く染まれるほどの外気の低さだ。このまま男に風邪などひかせてはならぬと思い、桜は男の名を呼んで、頼りなく羽織のかかった肩に触れようとした。刹那、ふうわりあえかな風がそよぐ。初夏の緑陰にも似た、雨上がりの静けさをも思わせる、風。風の恩寵を授からなかったはずの男からはときどき、気まぐれのように見知らぬ風の気配を感じることがある。里を吹きすさぶ荒々しい風たちとかたちを異にするその風は、戯れのごとく桜の頬を撫ぜて儚く消えた。しばらく風の去っていったほうの空を見つめていた桜はやがて目を落とし、幼子のようにいとけなく眦を緩めた男を見つけた。きっと、よい夢を見ているのだろう。思うと不思議に穏やかな気持ちになって、羽織をかけ直すのと一緒に男の閉じられた瞼の上にそっと口付けを落とす。真白く積もった雪面を跳ねて、清廉な光が瞼裏に射した。






Memento mori





 春である。春爛漫、花の盛りである。
 恒嘉十三年、葛ヶ原の春はとりわけ長かった。早くに山を下って吹いた風が里の桜を綻ばせ、それから外気をぐんと下げたので、開いた花々はすぐには散り去らず、十日以上ももったのだ。冬の間厚い雪に閉ざされる葛ヶ原の民びとは、春の訪れを知らせる桜花をことのほか愛する。花見に酒宴、賑わいは絶えることなく、どことなく里そのものが浮き立っているように見えたのだけども。その日の橘雪瀬については可愛がっていた雌猫が勝手に孕んだとかで、たいそう不機嫌だった。なんでも美丈夫な雄猫を連れてきて交尾させるつもりだったらしい。雪瀬は腹を膨らませた猫を抱いて縁側でぶすっと日向ぼっこをしている。

「別にいいじゃない」

 褥の上に痩せた半身を起こし、凪は草紙をめくりながらむくれ面の幼馴染をなだめすかす。

「次、美丈夫な雄猫を連れてきてあげれば。猫は人間とちがって生涯の伴侶なんて決めないんだからさ。そこんとこ、自由だよ」
「俺の花あやめは都生まれの高貴な姫なの」

 どこの御伽草紙の文句だろう。
 猫の重たげなお腹をさすりながら、雪瀬は大真面目に言った。

「だからほいほい旦那を変えたりしない。ひとりの猫と心を決めたら、そいつと生涯寄り添う。なのに、それが真砂が餌やってる荒くれ者で野良の猫なんて最悪だよ。きっと勝手に寝取ったんだ」
「どうかな。案外、あの野蛮さに惹かれたのかもしれないよ」
「うそだぁ」
「わかってないなぁ雪瀬は。深窓の姫君というのは得てして、野蛮の風に弱いんだ。御伽噺でも姫君をさらうのはたいてい下野の男でしょ」

 凪はさも知った風な口を利き、草紙をめくる。凪は間違っても深窓の姫君の気持ちなどわからないし、深窓の姫君と懇意にしたこともないので、これらはすべて根拠のない想像である。やっぱり説得力がなかったのか、雪瀬はふぅんと気のない返事をして、おまえ野蛮がいいの、あいつでいいの、とあとは猫と話していた。風が吹き、柔らかな濃茶の髪に花と若葉の影が落ちる。凪は目を細めて、幼馴染の連れてきた春のやさしい匂いを嗅ぐ。枕元には、道中摘んできたおみやげ。黄金の蒲公英。大陸風に読み解くなら、まごころの愛を謳う花。ああ、とても雪瀬らしいな、と苦笑する。

 橘雪瀬というのは、凪の幼馴染であり、父同士が兄弟の従弟にあたる。年は一緒。雪瀬が生まれるちょうどふた月くらい前に凪は生まれた。自分では覚えてないけれど、よく凪の母親と、雪瀬の母親がそのようなことを話していたので、きっと本当なのだろう。凪は厳寒の、梅が固い蕾をつける頃に生まれた。雪瀬はもっと温かくなって、山の麓を雪解け水が流れ、それをぐんぐん吸った花々が蕾を膨らませる頃に生まれた。そして自分たちに限っていえば、そのたったふた月の差がその後の関係を決めてしまったといってよい。凪は雪瀬の兄だった。雪瀬は他にもちゃんと血の繋がった、立派な兄を持っていたけれど、そのひとは兄というよりは育ての親のようだったので、雪瀬の兄はきっと凪だった。雪瀬と手習いの出来を比べあうのも、猫一匹を連れて夜中に家出してきた雪瀬をかくまってやるのも、やがて彼がいっとう別嬪な女の子に恋をしたのを見守るのもぜんぶ凪の役目だった。本当は凪も、その綺麗な顔立ちをした幼馴染にひそやかに恋心を抱いていたのだけど、目の前の雪瀬があんまりあからさまに彼女のあとを追っかけまわしていたので、苦笑と一緒に自分の気持ちを沈めなくちゃいけなかった。どうせどうこうしたい気持ちでもないのだから、と凪はそのとき自分に言った。幼少から虚弱。成人するまで生きられぬと言われている自分である。凪が誰かをあいすることも、誰かが凪をあいすることも、あまりに不毛だ。

「……凪、きいてる?」

 花の季節は凪の身体も熱っぽい。最初は半身を起こしていたが、そのうち疲れて身体を倒し、つらつら物思いにふけっていると、たいていはそのまままどろんでしまう。凪は雪瀬の声で重い瞼を上げた。枕元に肘をついてじっと自分を見つめている濃茶の眸に気付いて、なに、と微笑む。けだるくて、本当は眠ってしまいたかったけれど、そういう目をして見つめる幼馴染を置いて眠るのはかわいそうな気がした。凪が返事をしたので、雪瀬はほっとしたらしい。うん、とうなずいて、手に持っていた紙を差し出した。ずっと握り締めて持ってきたらしい痕跡のうかがえるよれた安紙には、毒々しい彩色で変な動物みたいなものが描かれている。

「毬街にね、おうむが来たんだって。海の向こうの国から船に乗ってやって来たんだって。凪、知ってる? おうむ」
「羽根がついてるね。きれいだなあ。鳥の仲間?」
「うん、そう。颯音兄が言ってたけど、ひとの言葉を喋るらしい。見に行こうよ凪。おうむ、見に行こう?」

 幼馴染は屈託のない声で、そんな風にせがんでくる。
 確かに凪だって、ひとの言葉を喋る鳥には少し興味がある。鸚鵡の羽根は極彩色をしていて、顔もひょうきんで、なんだか面白い。ひと目見られたら楽しいんだろうな、と夢想する。それでも凪は「いいよ」と首を振らなくてはいけなかった。

「この季節はだめ。具合があんまりよくないからさ。藍と見に行っておいでよ」

 紙を丁寧に折って返すと、雪瀬はぱちぱちと瞬きをした。濃茶の眸にふっと淡い色がさざめく。近頃ときどき幼馴染の眸に射すその色は不思議な静けさがあって、見ている凪のほうを落ち着かなくさせる。雪瀬は目を伏せると、そっかぁ、と返された紙に目を落とした。

「でもやっぱり俺、おうむは凪と見たいから凪がよくなるまでまってる」

 ね、花あやめ、とすり寄ってきた雌猫を抱え上げて、雪瀬は言う。凪はきょとんとして、それからどんな顔をしたらよいのか困ってしまって、雪瀬のほうから目をそらす。ほっと温かいものが満ちるような、それでいて、心苦しいような。分かちがたいふたつの気持ちを飲み込んで、どうにもならない罪悪感ばかりが胸を塞ぐ。罪悪感。そういうとき凪は目を閉じて眠ったふりをする。雪瀬は、いつも枕元に座って、凪が本当に眠ってしまうまでそこにいる。彼が眠る凪を待たずにどこかへ行ってしまったことは一度もない。雪瀬の眸に時折射す不思議な色合いは、きっと凪が眠るまでの間、ひとりで猫を抱いているときに深まっているのだろうと、凪は知っている。ずっと凪の弟分だった幼馴染は、近頃はっとするほど大人びた顔をする。


***



「たんぽぽ?」

 氷水に手拭をさらしていたもうひとりの幼馴染は、枕元に置かれた一輪挿しに気付いて、ほとりと愛らしく小首を傾げた。春らしい小花と色とりどりの蝶を散らした着物に身を包んだ少女は春の木漏れ日を背にして、ますます愛らしい。凪は目を閉じて、「雪瀬が持ってきたんだ」と事の次第をつまびらかにする。

「ふぅん。きーちゃんらしいね」

 ほのかに微笑む気配がして、ひやりとした手拭を額に置かれる。氷水にさらした手拭の冷たさにびくっとなると、藍はしらうおのような手で凪の前髪を梳いて、手拭の位置を直してくれた。その手が帯に挿していたらしい、少ししおれたはるじょおんを取って、花瓶に挿す。黄金と白の花ふたつが同じ花瓶の中で仲良く絡み合った。「藍も?」と驚いて尋ねれば、少女ははにかみがちに頬を染めて微笑う。

「うん、おみまい。きーちゃんとおんなじでごめんね」
「……うれしいよ」

 ありがとう、と息を吐くのと一緒に口にすると、藍はくしゃりと相好を崩した。普段は大人びたこの幼馴染が、本当は臆病で、繊細で、心やさしいのを凪はよく知っている。額に置かれた手のひらからは、道中ずっと握り締めてきたらしい草の汁のにおいがした。藍はしばらくの間そうしていたが、やがて枕元の一輪挿しの隣に無造作に置かれていた紙に気付いて、「鸚鵡?」と問うた。

「ああ、雪瀬がね、置いていったんだ。今毬街に来てるんだって」
「人語を喋るんでしょ。見たことある」

 黒衣の男と長く旅をしている少女は、紙に描かれた鳥の姿をひと目見てぴんときたようだ。それで思いついて、凪は「行ってあげてよ、藍」と言う。

「雪瀬が鸚鵡、見たいんだって。藍連れていってあげてよ」
「いいけど、でも凪ちゃんは?」

 藍は黒眸を揺らして、凪のほうを見る。凪はだから苦笑した。

「俺はこんなんだから。毬街までゆけないよ」

 褥の中で肩をすくめる。雪瀬は凪を待っていてくれると言っていたけれど、鸚鵡が遠い海の向こうの国へ帰ってしまう日は近づいている。凪の虚弱な身体は季節の変わり目に耐えられず、発熱を繰り返し、到底葛ヶ原から毬街までの道のりを歩けそうにはなかった。こちらの顔をしばらくうかがうようにしてから、藍は「凪ちゃん」と長い睫毛を伏せた。

「そんなかなしいこと言わないで」

 思いも寄らない言葉に、凪は声を失う。
 藍は寂しそうに微笑い、草の汁のにおいのする手のひらを凪の額にあてがった。何かを願って熱をはかったのかもしれない。やがて藍は「おみやげは何がいい?」と別のことを訊いた。

 いつからか、いちばん欲しいものを欲しがらない癖がついてしまっている。欲しいものをそうと言えない臆病癖がついてしまっている。
 幼い頃、自分というものの分がわかっていないくらいに無知であった頃には、凪だってそれなりに駄々をこねたりわがままを言って親や家人を困らせていたりしていた気がするのだけども。最初に思い知らされたのは、やっぱり雪瀬だった。
 幼い頃の雪瀬というのは、おとなしくて、何かの病じゃないかというくらいひと見知りで、繊細で、警戒心の強い子どもだった。宗家の奥方さまが手を引いて分家にやってきたときも、談笑する母親の背に隠れてじぃっと小動物が敵を威嚇するみたいにこちらをうかがっているような、そういう子どもだった。それを面白がった真砂が竹で作った水鉄砲で攻撃すると、びしょぬれになって突っ立ったまま、ぐすぐすと泣き出してしまう。あらあらと苦笑する母親の裾を握り締め、濃茶の眸いっぱいに涙をためて震えている雪瀬の姿がなんだかかわいそうだったので、凪はだいじょうぶ?と訊いて、しゃくりあげる従弟の顔を袖で拭った。それでも泣き止まない彼に途方に暮れて、大切に取って置いていた甘露飴の包みを開けて半分を分けてやる。甘露飴の甘さが舌に広がるにつれ、彼のそれまでまとっていた頑ななまでの緊張がふわっと解けるのがわかった。たぶんその日に凪は雪瀬とともだちになった。
 ある日幼馴染が、ひとふりの竹刀を引きずってやってきた。
 小さな彼の身体にはそぐわぬ、無骨な竹刀である。かあさんにもらったんだ、と雪瀬は言った。どうやら泣き虫の弟を見かねた奥方様が刀を習わせることにしたらしい。繊細で心のやさしい幼馴染に、ひとを斬り伏せる刀はあわないのではないかと幼心に凪は思ったのだけど、雪瀬は案外夢中になって竹刀を振り回していた。身体にいっぱい痣を作ってやってきて、疲れたようにそのまま寝てしまう。竹刀を抱き締める手のひらには、潰れたまめがたくさんあった。確かに、都の商家に生まれていたら雪瀬は刀を習う必要がなかったのかもしれない。けれど、凪も雪瀬もそうではない家に生まれついてしまったし、風術の才のない雪瀬は別の手段で生き抜く術を得なくてはならなかった。雪瀬はきっと無意識のうちにでもそれを諒解していたのだ。まめを作った幼馴染の手に握られた竹刀を見つめながら、凪はふと、俺も竹刀を握ってみたいな、と思った。強く、しなやかな自分。そういう自分になれたら、胸に巣食った恐れや漠々とした不安は消える気がした。触れてみると、竹刀は硬くてしなやかな感触がある。凪には未知の感触だった。竹刀を振ってみたい。雪瀬とおんなじ風に。そんな気持ちが急に湧き上がってきて、凪は眠る幼馴染の手から竹刀を取って、えい、と振ってみた。大人のものよりも丈が短く軽いはずの竹刀はけれど、少し振り回しただけでずしんと腕に重みがかかる。構わず、幾度か振り回す。ふと息が上がっていることに気付いた。整えようと大きく吸うと、胸がずきずきと痛んでくる。心の臓を絞るみたいな痛みだった。のちに兄の真砂は笑い飛ばしたけれど、竹刀を数回振っただけで凪は死にかけてしまったのだった。
 あの日、褥の中で気付かされたことがある。凪は雪瀬とおなじことができないんだってこと。雪瀬とおんなじ風には生きられないんだってこと。歯がゆかった。悔しかった。布団の中で枕に顔を押し付け、ひとりで息を殺して泣いた。以来、凪は竹刀には触れていない。

 かたん、と風の迷いか濡れ縁の板敷きが軋む音がした。障子を少し引き開けると、『花あやめ』がちょこんと縁のふちから顔をのぞかせている。重たげなお腹を見て、お産は近いのだろうかと考える。だとすれば、大事の前に雪瀬に会いに来たのかもしれない。餌くらいはやってもいいかという気分になって、凪は猫の鼻のあたりに手を差し伸ばす。花あやめはにおいを嗅ぐように凪の手のひらに鼻面を押し付けたが、少しするとふいっと顔を背けて尻尾を翻してしまった。雪瀬に対するのとはまるで異なるつれなさに、思わず苦笑をこぼす。花あやめは凪にあまり懐かない。勘の鋭い花あやめは、きっと凪の胸中に横たわるやましさをおのずと見抜くのだ。
 だって、今もずっと外を気にしていた。雪瀬と藍が連れ立って向かった毬街の方向。物分りのよいことを言いながら、凪は鸚鵡を見てみたかったのだ。橙色に染まり始めた障子を眺め、それから枕元の一輪挿しに目を落とす。萎れた蒲公英とはるじょおんがもたれあうように身を寄せ合っていた。


***



 その晩。「ばっかじゃねーの!」という荒々しい罵声が茫洋としていた凪の意識を呼び覚ました。薄く目を開けると、母屋のほうが何やら騒がしい。兄だな、と直感した。屋敷の隅にひっそり溶け込むように息をしている凪と違い、凪の兄であるひとは執拗なまでに自分の存在を誇示するきらいがある。いつもはふらふらと外を出歩いている兄がひとたび戻ると、良くも悪くも屋敷の平穏は破られ、騒然とした。まだ頭のあたりは重いが、熱のほうはさほど高くもないようだ。凪は枕元に丸めてあった羽織を肩にかけ、声のしているほうへ向かった。
 父の居室には、夜更けにもかかわらず、母と兄と家人が勢ぞろいしていた。何やら深刻そうな顔で額を突き合わせている三人をよそに、真砂ひとりが「俺は絶っ対嫌だね」と忌々しげに頬を歪めて腕を組んでいる。凪が襖から顔を出したのに気付いて、母親が「あら」と声を上げる。どうしたの?、とほんのり首を傾げれば、真砂がすかさず「お前のせいだぞ、馬鹿」と指をさしてきた。

「俺のせいって?」
「雪瀬の馬鹿ちんが鸚鵡を盗もうとしたんだってさ。興行の合間を見計らって、鸚鵡抱えて逃げようとしたところを鸚鵡がキョエエエエエエエヒトゴロシー!!って叫んで見つかって今毬街の木戸番小屋の中」

 キョエエエエエエのところだけ迫真の演技をして真砂が言った。奇声に驚いた使用人が幾人か駆けつけたが、父親が苦笑混じりに首を振ると、嫡男殿のいつもの奇行かとうなずいて、また持ち場へと戻っていく。そんな背後のやり取りにはちっとも構わず、真砂は「ほーらお前のせいだ」と凪の額を指で突いた。まるで凪が焚きつけたみたいな口ぶりで言われて、「なんで俺」と凪は憮然となる。

「俺、雪瀬には鸚鵡を見てきてとしか言ってないよ。なんで盗みなんか」
「……わからない?」

 ふと真砂の濃茶の眸が細まる。胸中を透かし見るような言い方に、凪はむっとした表情のまま「わからない」と言った。なんだって鸚鵡を見に行くのが鸚鵡を盗むのにすり代わっているのか。いくら珍しいからって、ひとのものを勝手に持ってくるほど雪瀬は子供だったろうか。一緒に行った藍はそれを許したのだろうか。考えていると、藍がおみやげの菓子を選んでいる隙に鸚鵡を盗もうとしたらしいと母に教えられた。今藍は、長老の寄り合いに出ている颯音を呼びに行っている。

「なんにせよ、宗家の当主殿はもちろん、今晩は若君のほうも出かけておられる。俺が行って掛け合ってこよう。薄情者の息子は行かぬ、なんぞとほざいておるからな」

 真砂の頭にひとつ拳骨を落として、父親は母に手伝ってもらいながらよそ行きの羽織に袖を通す。どうやらさっきの真砂の罵声は、この話の中で出てきたらしい。真砂のほうをちらりと見やると、あちらは指を突きつけ「お前、行って来いよ」と尊大に言った。凪は口を閉ざした。毬街は、遠い。さっきまで床に臥せっていた自分が迎えにゆけるわけがないではないか。わかっていて、なんでそれを言うのだろう。目をそらすと、「弱虫」と真砂が舌打ちした。

「俺様にはできねぇことなんて何ひとつないけど、俺の弟君はどうやら違うらしい。できないことばかりで不幸ですなぁ、凪。カワイソウ」

 ひひひっと小馬鹿にしたように嗤ったところで母親から「お前という子は!」と二発目の拳骨が落ちる。父親は一瞬うかがうようにこちらを見たが、凪が何も言えないでいると、仕方ないものな、と苦笑して、家人に供をするように言い、屋敷を出て行った。




 しかれども、父が出て行ったあとの凪の時間は遅々として進まなかった。雪瀬はどうしたのだろう。大丈夫だったのだろうか。考えると眠ることなど到底できず、灯火をひとつ灯して草紙を開いてみるのだけど、文字の羅列を目で追うだけで中身はちっとも頭に入ってこない。関所を閉ざす鐘が山間に響く頃になっても、父と雪瀬は帰ってこなかった。空虚な鐘の余韻に呼応するかのように、わからない?という真砂の言葉が蘇る。わからないよ、と凪は思った。わからない。望めばどこへだってゆける雪瀬が、毎日凪のもとへ通う理由。雪瀬は、風のにおいを嗅ぐのが好き。陽のあたる草むらに寝転がっているのが好き。猫と遊んでいるのが好き。でも、雪瀬はそのぜんぶを置いて、凪のもとへ通ってくれる。凪が眠ってしまったあとも、ずっとひとりぼっちで凪の家の書庫にある草紙を読んでいたりする。花を摘んでくる。枯らさないように水をかえる。ときどき凪はひどい熱を出して死のふちを彷徨う。瀬々木がやってくる。部屋に入ることのできない雪瀬はいつも隣の部屋で丸まっている。目を覚ますと、最初に笑顔をくれる。泣きそうな笑顔。そういう雪瀬のぜんぶが、凪はとても厭わしい。本当は厭わしくて、厭わしくて厭わしくて、たまらない。あいされていることを思い知らされるから。わかってるの雪瀬。おまえはいつか俺を失うんだ。眸いっぱいに涙をためて震えていたって、もう声をかけてあげることも、飴を半分分け与えてやることもできなくなるんだよ。雪瀬。
 凪は草紙を閉じた。障子を開けると、まだ少し冷たい春の夜気がふんわり流れ込んでくる。厚い綿入りの羽織をはおって、縁側に転がっていた下駄を突っかけた。泣きたい気持ちになって、息を吐く。門衛が寝ずの番をしている表門から出てゆかなくても、雪瀬の使う抜け道を知っている凪は簡単に屋敷を抜け出れた。板塀から張り出した葉桜が月に照らされて、颯とさざめている。春の終わりの儚い香りがした。大きく息を吐いて、歩き出す。

 歩く。歩いて、歩いた。慣れてない足は次第に突っ張ってきて、鼓動がうるさいくらいに心臓を叩く。膝に手をついて、顎から伝った汗を衿で拭っていると、ぼやけた視界に父親の大きな影と、ちっぽけな幼馴染の影を見つけた。とぼとぼと大柄な父親の後ろを歩いていた雪瀬は、道の真ん中に立っているこちらに気付くと、濃茶の眸をきょとんとさせた。驚いたというよりは呆けた顔をしている幼馴染に近づいていって、「馬鹿っ」と叱り飛ばす。雪瀬はびっくりした様子で目を瞠らせてから、ごめん、としょんぼり肩をすくめる。盗もうとしたところを捕まえられたと聞いたから心配したのだけど、雪瀬に目立った怪我はないようだった。安堵して、詰まっていた息を吐き出す。雪瀬はしばらく凪のほうを見ていたが、やがて父親に促され、あげる、と言って、こちらに極彩色の大きな羽根を差し出した。――『羽根がついてるね。きれいだなあ』。自分の言葉を思い出して、苦笑する。それから、ふにゃりと相好を崩す幼馴染の肩に自分の羽織をかけた。知ってる、雪瀬がいつも凪に同じものを見せようとしてくれていること。道端の花。蛍。蝉の抜け殻。色づいた葉っぱ。雪。凪が『現』からはぐれてしまわないように。雪瀬はいつだって精一杯手を差し伸べてくれるのだ。


***


 春の夜を羽織一枚で歩き続けた代償で、翌朝凪は熱を出した。ほらやっぱりだめだったじゃないか、といない真砂に向けて八つ当たりする。凪の身体は凪を裏切り続け、それだけは諦観しようにも、歯がゆくてならない。
 雪瀬は道端に咲いていた蒲公英の綿毛を持ってやってきた。濡れ縁の板敷きに座り、褥に寝そべる凪の前でふぅっと吹いてみせる。小さな光が舞ったみたいに、綿毛を風がさらっていった。来年、この庭には黄金の花がたくさん咲くのだろうか。考える。花あやめの子どもたちが遊びにやってくるかもしれない。白い綿毛みたいな尻尾を振って、黄金の花と戯れるのかもしれない。綿毛の流れてゆく方向を追っていた雪瀬はふと褥からはみ出て冷たくなった凪の手のひらを握ってきた。ひんやりしたところどころ皮膚の固くなった手のひらが、凪の手のひらを包む。冷たくなると思った手のひらは触れ合うぬくもりでみるみる温まっていった。笑みがこぼれてしまって、握り返す。そうすると、濃茶の眸が細まって、春の終わりの優しい空気にゆるんだ笑みが溶ける。ひかり。光がこぼれる瞬間を、見た。だいすきだよ、雪瀬。ずっと一緒にいたい。泣きたいくらい強く願う。


 恒嘉十三年、最期の春の出来事である。



***



 懐かしい風の気配に瞼を撫ぜられた気がして、雪瀬は目を覚ました。
 身じろぎをすると、板敷きの固い感触が背中から伝わってくる。ひとの気配を感じてそちらに茫洋と視線をやれば、少女の小さな手のひらが綿入りの羽織を自分の身体にかけているさなかだった。こちらの視線には気付かない様子で、丁寧に身体がはみ出すところのないように羽織をかけて、端をよいしょと引き上げている。色の失われた真っ白い頬に気付いて失笑し、雪瀬はおもむろに少女の腰に手を回して、ひょいと自分のほうへ抱き上げた。小さな声が上がる。片腕で事足りるくらいの華奢な身体を自分の上に載せて、おはよう、と言うと、「おきてたの?」と眉をひそめて少女が尋ねた。今起きたばっかりだよ、と答え、少女の冷たそうな白い頬に手のひらをあてがった。まどろんでいた男の温かい手のひらに冷たい肌がびっくりしたのか、彼女はふるっと動物がそうするみたいに少し震える。

「普通は寒いと赤くなるんだけど、桜はその前に白くなるね」
「そう?」
「そう。見てるこっちが凍えそうになる」
「……もしかして、わたしが起こした?」

 尋ねた少女に、ううん、ちがう、と首を振って無意識のうちに風の吹いた方角を探そうとする。雪の深く積もった庭に沙羅の樹が青い影を落としているのが見えた。昼下がりに濡れ縁を包んでいたうららかな陽光はすでに跡形もなく、板敷きはほの暗い翳りを帯びている。冬の葛ヶ原の日はとても短いのだ。少女の冷たい頬をしばらくさするようにくるんでから、白い肌にほんのり血の気が差してきたのを見て取ると、雪瀬は桜を下ろして、自分も半身を起こした。変な風に張った肩を鳴らして伸びをする。

「よい夢だった?」

 少女の長い黒髪は後ろで結われて、銀の花をあしらった簪が挿してある。ほとりと愛らしく幼子みたいに首を傾げると、銀の花が雪花みたいに煌いた。どうしてそう思うの、と訊けば、わらってた、と簡素な返事が返ってくる。けれど、あいにくとついさっきまで見ていたはずの夢の内容は覚えていなかった。言われてみれば、心が不思議と凪ぐような、それでいて寂しいような、そんな心地がするのだけども、それらは曖昧としていて判じがたく、おぼろげな余韻を胸のうちに残すだけである。わすれちゃったよ、と素直に白状して少女を膝の上に乗せ、かけてくれた羽織で小さな身体ごと一緒にくるむようにする。ふと彼女が手のひらを握ってきた。かじかんだ指先が触れ合って、少しの間そうしていると互いの体温で先のほうから温まっていく。ふんわり微笑がこぼれ落ちたのが弛緩した背中の気配でわかった。目を細めて、銀色の花びらに唇を触れさせる。ひかり。透き通った光がこぼれる瞬間を、見た。
 泣きたくなるような懐かしさが、蘇った。






ずっと、わすれないよ



2010/9/12 Thank you for reading !
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