さくら、という花が好きだ。理由は特にない。
 従兄が雪に落ちた真っ赤な椿を好んだ風に、兄が水辺で揺れる菖蒲を好んだ風に、雪瀬がいっとう愛したのは桜だった。春の霞かかった蒼空に白い花びらがはらはらと舞っているのを見ると、切ないような、くるおしいような、あるいはいとおしいような、不思議な感慨に襲われる。それは、ひとを愛する感情に割合似ている。
 幼い頃、美しいその一枝を持ち帰って、病床の幼馴染に見せてやろうと樹にのぼったことがあった。腕を回しても抱えきれないくらい大きな、表面にうっすら苔の生えた幹を、幼い雪瀬はこぶに足をかけながらするするとのぼってゆけた。そうして高いところまでたどりついて、さてどの枝を持ち帰ろうとあたりを見回す。夕暮れの淡い群青色に染まった空に桜は群れさざめいており、その中にひときわ甘く綻んだ花を見つけて、雪瀬は笑みをこぼした。幼馴染が、この花を見たときのことを考える。よろこんで、くれるだろうか。こんなに暖かくなったのにどこにもゆけない彼は。春だね、と言ってくれるだろうか。もう葛ヶ原のどこにも雪はない。目を伏せて、雪瀬は、そぅっと指で白い花びらのか細い柄に触れる。そのとき、はずみに触れた花びらが一枚、はらりと散った。あ、と思って手を伸ばすのだけど、花は音もなく雪瀬の指をすり抜けて、青暗い翳りのほうにまるで呼ばれたみたいに吸い込まれていく。残った一枚花びらが欠けた桜はどこか寂しげで、吹きすさぶ風に傷ついて震えているように見えた。雪瀬は惑うて意味もなく太くて固い幹のほうを撫ぜてから、結局手を下ろした。ふと目を上げれば、群青の空は白い花にみっしりと埋め尽くされており、雪瀬は、この花は少し死のにおいがする、と思って、目を閉じた。

 そのあと、幼い自分がどういう風に桜の樹から下りて、幼馴染のもとに向かったのか、雪瀬は覚えていない。たぶん花はとらなかったのだろうと思う。あの花の柔らかな感触が雪瀬の手のひらには残っていない。きっと雪瀬は、花をとれなかったのだ。――そんな幼い日のことを戯れに思い出し、雪瀬は今、あの頃よりもずんと大きくなった枝に子供のようにしがみついている女を見つめる。彼女がそこにのぼった理由も、その手のひらが空っぽの訳も、雪瀬は知っている。知っているので苦笑して、女のほうへ惜しげもなく両腕を差し伸ばす。蒼空の下、花びらをたくさんまとわせた、春の気配のする女の身体が、あたたかに腕の中に飛び込んできた。ああ春めいているな、とひっそり目を細める。


うすべに色した、いとしいひと。