別に雨男というわけではないのだが、この屋敷の主人が帰ってくる日はたいてい雨が降る。激しい、車軸を流すがごとくの雷雨ではない。そうではなく、しとしとと夜のしじまに滲むような霧雨の降る晩に、男は雨のにおいをまとって帰ってくる。
 枕に頬を押し付け、貧相な体躯の老犬を抱え込むようにしてまどろんでいた少女は、濡れ縁の板敷きを擦る微かな足音に白い瞼を少し震わせた。きしり、きしり、という、男の足音である。とたん華奢な肩に弱い緊張を走らせた少女をよそに、老犬のほうは鼻をすぅすぅ鳴らしながら眠っている。すぅすぅ、にときどき、ぷぅぷぅ、という呑気ないびきが混じる。雨で少し湿った、獣っぽいにおいのする毛並みに顔を押し付け、少女は、何も聞こえなかったふりをしようかとさかしく考えてみたりする。正確な時刻は判然としないが、空気が冷たい。もう夜半過ぎだろう。そんな時間に文ひとつ寄越さず帰ってくる男が、そもそも悪いのだ。出迎える必要などない。つらつらとそんな風に考えてから、少女はほぅと息をひとつこぼして、けだるい身体を起こした。横に寝そべった老犬が一度お愛想のように尻尾を振るが、少女が首のあたりを撫ぜるとまたいびきをかいて眠ってしまう。寝乱れた襦袢を整え、肩に一枚薄着を羽織ると、少女は明かりを落としていた行灯から紙燭に火をもらって、内廊下から濡れ縁のあたりに出る。
 外は暗がりだったが、庭の紫陽花の葉にしとしとと雨粒が滑り落ちる気配がした。濃い水のにおい。少女は湿った夜気のにおいをぼんやり嗅いで、重い瞼をこすった。この屋敷の主人である男は、夏でも変わらぬ黒衣をまとって、幽鬼のように軒下に立っている。そばには、昼に伊南が持ってきた笹が立てかけてあった。色とりどりの短冊や折り紙は、みなで飾ったもの。男の、女君を思わせるたおやかな指先が、楽を奏ででもするように闇を彷徨い、やがて短冊の一枚を無為につまみあげた。少し離れた場所に立つ少女に、気配で気付いたのだろう。男は短冊の表面をなぞりながら、七夕か、と感慨のない声で言い、ねがいごとは何にした、と問う。それに対して、少女は、おかえりなさい、と言った。望みどおりの答えを得られなかった男は微かに柳眉をひそめて、少女を振り返った。作り物めいた美貌の男を仰いで、少女はもう一度、おかえりなさい、と言う。男と少女のささやかな攻防。男は呆れた風に口端に苦笑めいたものを載せたが、さりとて、ただいま、などと、そのような甘言は冗談だって吐かない。それを知っている少女は、少女らしい少し潔癖な表情で、たゆとう水のような透明さをもった緋色の眸で、しばらく男を眺めていたが、少しすると羽織をたぐり寄せて、雨で濡れた笹の葉を仰いだ。水ようかん、と少女は口にする。いる? ほとりと首を傾げた少女に、男は、いや、と首を振った。
 少女と男は、数月に一度しか顔を合わせず、顔を合わせても、食べ物の話しかしない。ごはんはいるか。いる、いらない。義務のようにそれだけの応酬を取り交わす。
 いらない、と言った男は幽鬼のような青白い顔を雨夜にさらして、笹の翳りになったところに白い折鶴と一緒に吊るされた短冊に触れた。裏返す。細く息をのんだだけで、少女は、声を上げなかった。男の伏せがちの眸が短冊に落ちて、白い喉がくつりと鳴る。少女のねがいを暴いて嗤う、男はそういう嗜虐的な嗜好がある。少女はそれをよく知っていたので、声は上げなかった、眸を大きく揺らがせたりもしなかった。ただそろそろと伸びた指先がまた短冊を裏返して、笹の翳りの下へ持っていった。――あなたは。少女は、男の挙行を咎めるように表情をほのかに硬くしながら、問うた。あなたは、何をねがうの。男は紫と黒の眸を細めて、甘い含み笑いをする。それから、ゆったり腕を組んで、葉の茂った笹を仰いだ。この、どこかにある。男は、言った。さがしてみよ。乞われて、少女は、笹のほうを見た。色とりどりの短冊を吊るした笹は大きく、その翳りのどこに男のねがいがひそんでいるのか、見つけるのは難しいことのように思えた。眉をしかめた少女を、男はわらう。織女の泣いている声がするな。つぶやいた情のない男からは雨のにおいがする。

 翌朝は、晴れた。すっかり濡れそぼってしまった笹の葉を少女は濡れ縁に倒してひとり片付ける。墨が溶けて黒くなった短冊を外して、まとめていると、不意にはらりと見覚えのない白い短冊が足元に落ちた。表にして、それから裏にするが、筆の墨が流れたあともない。まっしろな、短冊。男のねがい。少女はしばらく長い睫毛を伏せて短冊を見ていたが、それをまた、笹の翳りのあたりに吊るしなおすと、片付けを再開した。梅雨のあがりの遅い夏の、悪い七夕であった。


 

催涙雨

情のない、雨の降る。