一章、夜明け



 一、


「終わったぞ、雪瀬(きよせ)」

 男の呼び声を聞きつけ、障子戸に背を預けて草紙をめくっていた少年は顔を上げた。
 歳の頃はまだ十五ほどであろうか。
 陽光を浴びて柔らかな色を帯びる茶の髪はうなじあたりでくくられており、そろえられていない毛先が少年のわずかな挙措にともなって、肩につくかつかないかのところで揺れる。白い小袖に深藍の袴と出で立ちは簡素なものであったが、肩にかけている羽織はその色合いから見て、いくぶん上質なものであるようだった。このあたりの寺子屋に通う少年にしては家柄のよさというか、どこか育ちのよさのようなものを感じさせる。けれど、富裕の者によくある華美にすぎる雰囲気や挙措はてんで見当たず、むしろこざっぱりした仕草でぱたんと草紙を閉じると彼は蘇芳の十徳を羽織る老翁のそばへと膝を進めた。

「ふぅん? で、どうだった?」

 その目線の先には、褥(しとね)に横たわる少女の姿がある。ほんのり頬を紅潮させた少女は固く眸を閉じ入り、微かな寝息を立てている。先日、拾ってきた娘だ。

「まず脇腹に深い傷があったな。一度手当てされているが、素人がやったのか、膿んでしまっている。あとはそこかしこに裂傷が数多。それによる発熱だな。これでよく生きていたもんだ」

 老翁は水の張られたたらい桶で血に汚れた手を洗うと、てぬぐいでそれを拭くようにしながら、最後は感心した様子で呟く。五十がらみのその男は名を瀬々木(せぜぎ)といった。独学で医学を修め、今は毬街で診療所を開いている、一応は医者である。そう、とうなずき、「どこの子かな」と雪瀬は思案げに腕を組む。

「さぁなぁ。フツウの子は、こんな怪我をして道端には転がっていないと思うがな」
「フツウの子でないって?」
「だって拾い場所が拾い場所だろう? あーっとどこだったか」
「貧民窟に近い、毬街の路地裏。家に帰ろうとしたら、見つけたんだ」

 ほう、と相槌を打って、老翁はさらさらと紙に何がしかを書きつけた。代金、と抜け目なく言ってにやりと口角を上げる。そこに連ねてあった決して安いとはいえない額を見て、雪瀬は顔をしかめた。高い、とは思ったがそう言ったところでこの医者はひょうと笑って『たっぷりと銭を落としていってくれ、お金持ちさま』とでも言うのだろう。雪瀬は紙を受け取り、畳んで衿に入れた。
 
「そういえばこの子だけどな、肩に妙な痣があったぞ」
「あざ?」
「あぁ。ほら」

 そう言って、瀬々木は少女の衿元を少しくつろげるようにする。むき出しにされた肩には古い火傷の痕のような痣が肌から浮かび上がるようにしてあった。よく見れば、文字をなしているように見える。焼印?、と雪瀬は首を傾げた。――焼印とはひとの肌に焼き鏝をあてて、文字を押したもののことをいう。たとえば、罪人のような者が額や腕などにこれを押されるのだけども、肩というのはまた珍しい。

「“六”……、かな?」
「いや、かなり古そうだからな。下が消えかけているだけで“夜”かもしれん。何か、もう一字、続いているような痕もあるしな」
「なんだろ、名前、とか?」
「あるいは、“持ち主の”名前かもしれないが」

 持ち主、との言葉に、雪瀬はつぅと眉をひそめた。瀬々木は皮肉げな笑みを口元に浮かべ、頬をかく。それで老人の言いたいことを暗に理解し、そういうこと、と言った。近頃都のほうでは少年少女を集めて愛でる貴族も多いと聞く。鑑賞用から、管絃などの芸を仕込ませて楽しむ者、夜のお相手など用途はさまざまである。雪瀬は少女のほうへ目を向けた。泥だらけに傷だらけの状態で拾ったときには気付かなかったが、透き通るような白い肌といい、濡羽色の長い髪といい、それから緋色の、珍しい色の眸とあいまって、精緻なつくりの人形のような少女である。その容貌をウツクシイと思うひともまぁそれなりにいるのかもしれない。あいにくと雪瀬は美醜の観念がおおいに、――周りにいわせると嘆かわしいほど――欠落していたので、そういうもんかな、くらいにしか思わなかったが。
 しかしそんな貴族の邸宅から逃げ出したものを拾ってしまったのだとしたら、まずいなぁと思う。すごく厄介な事態になりかねない。先が思いやられて人知れずため息を漏らしていると、こちらの思考を読み取った風に老翁に一笑された。

「蝉の抜け殻に始まって花に迷い猫に昔からいろいろ持ってくる奴だったが、ついに人間まできたか。お前もたいがい物好きだな」
「物好きじゃない。今、ものすごく後悔してるとこ」
「あのな、放り出すなら目を覚ます前、今のうちだぞ」

 真顔に返って言われ、雪瀬はふと眸を上げる。

「俺が預かろうか?」

 こちらの事情を鑑みて瀬々木が尋ねてくる。雪瀬は首を振った。

「……いや。瀬々木忙しいでしょ。置くだけなら、たぶん平気」
「ならいいが」
「いちおうさ、毬街で探されてる子いないかだけ確認しておいてくれない?」
「わかった。診療のとき聞いて回ってみよう」
 
 うなずき、瀬々木は腰を上げた。
 男を部屋の外まで見送り、「――さて、」と雪瀬は部屋に大量に残された薬の山と水の張ったたらい桶と眠る少女を眺めて袖まくりをした。もらった薬草をすって調合しなくてはならない。まずはそれからやってしまおうとすり鉢とすりこ木を出してそこになんとかの実とかなんとかの草とかそういうものをすべて投げ込む。褪せた抹茶のような色をしたそれは明らかに苦そうだった。くん、と香ってきた強烈な薬草の異臭を嗅いで、雪瀬はこれを飲む少女の健闘を祈った。

「ん……」

 と、注意してなければ聞き落としてしまいそうなくらいに小さな、それでも確かに苦しそうに喘ぐ声が褥のほうからした。視線を上げると、少女はきつく眉根を寄せ、うなされるようにかぶりを振っている。その額にはうっすら汗が浮かんでいた。薬が切れてしまったのだろうか。雪瀬は考え、一度すりこ木を置いて褥のかたわらに膝をつく。

「……、」

 血の気のない唇が動いて何か、名のようなものを漏らす。誰かを呼んでいるのだろうか。声にならない、ただそれでも切実そうな呼び声に引かれて雪瀬はそっと少女の汗ばんだ額に手を置いた。と、それまでいやいやするように首を振っていた動きが止まる。あれ、と思う。おとなしくなった。
 その隙に額に張り付いた前髪を軽くのけて、濡らした手ぬぐいの位置を整える。ひんやりとした手ぬぐいが気持ちよかったのか、彼女はほっとした風に手に頬を預けてきた。薄く緋色の眸が開く。熱に浮かされて茫洋としたそれは一度瞬きしたあと、そばにあった手を見つけてまたふっと閉ざされる。そうしてまたすやすやと寝息を立てるそのさまが心ならずもあまりにもいとけなかったので。結局、寄せられた頬から手を離せなくなってしまった。