一章、夜明け



 二、


 さわさわとどこからともなく風が吹いていた。一緒に、ほの甘いよい香りを運んでくる。何の香、かな、と桜は考えた。わからない。でもどこか懐かしい香りだ。おぼつかない意識でうとうとと記憶をたどっていると、早く目をあけなさいよとでもいうように優しく、遊ぶように、風は桜の髪を揺らしてうなじをくすぐる。その風の心地よさに桜はうっすらと目を開けた。
 
「……?」

 ぱらぱらと枕元に置いてあった草紙が風にさらわれてあっという間にめくれていく。右方の障子戸が細く開いていたので、あそこから風が流れてきているのだと桜は気付いた。
 しかしその少し瑕のついた障子戸も、差し込む陽光にいよいよ青々と色を深める畳も、天井も、襖も、ぜんぶ桜には見覚えがない。いったいどこなのだろう、と考え、桜はゆったりと視線を手元へ戻す。
 そのときかたわらでうずくまっている『何か』に気付き、ひとつ眸を瞬かせる。『何か』は眠っているらしい。その肩は規則正しく上下を繰り返し、そのたび柔らかそうな濃茶の髪がうなじについたり離れたりしている。小動物が敵を警戒するような慎重さで少年のひとつひとつを視線でたどっていった桜はそのひとの手が当たり前のように頬にあてがわれていることに気付いて、思わず身を引いた。小さな悲鳴を漏らして布団から飛び出る。それからよろよろと部屋を逃げ惑い、挙句の果てに少年から数歩離れたところで力尽きてしゃがみこむ。

「――、」
 
 枕を盾のように構え、桜はじぃっと布団に半分覆いかぶさるような格好で眠っている少年を見つめた。――動かない。
 死んでいるのだろうか、とふと桜は思った。普通の人間ならばまずそんなことは考えないであろうが、桜にとってここは森や河原と大差ない場所であり、動かない生き物は死んでいる、と考えるのがごく当然なのだった。そういう生き物は死んでいると見せかけて近づくと牙を剥くことも多々あったので、桜はびくつきながらそろそろと横たわる身体に向けて手を伸ばす。ためらい、ためらった末、ちょん、と肩の端を指でつついてみた。――動かない。ちょん、ちょん、と二三度つついてみる。

「んー……」

 そのとき『何か』が動いた。もぞりと身を起こすそれが牙を剥く前に桜は逃げ出した。





 ちょんちょんと誰かにつつかれたような気がして目を覚ますと、何故か目の前の布団がもぬけの殻になっており、寝ていたはずの少女も消えていた。

「……あれ。あれ!?」

 ぼんやり目をこすっているうち頭に血が回ってきて、雪瀬はようやく事態を把握する。いない。彼女がいなくなっている。
 さっき意識が危うくなってしまう前はそばで寝ていたのに、これはいったいどうしたことか。寝癖のついた髪をかきやりながら、雪瀬はあたりへ視線をめぐらす。障子や襖は開いていない。屋敷の門を出たら門衛が騒ぎ出すはずだからそれは無いとして――、かた、と視界端で物音がした気がして雪瀬は思考を止めた。奥の押入れの襖が少しだけ、本当に指一本通るか通らないかくらいに空いている。雪瀬の視線に気付いたのか、かた、と襖が閉じる。そのあとかた、とかがたん、とか中から慌しい音がした。へーぇ、と雪瀬は思った。そこですか。

 場にぴりりと緊張が走る。
 ――瞬間、ほぼ同時に雪瀬と中の少女は一方は外側から他方は内側から一方は戸を引きあけようと、他方はそれをさせまいと戸を押さえた。がん、と大きな音を立てて襖が揺れる。だが寸秒拮抗した勢力はまもなく外側――雪瀬のほうへと傾き始める。それはそうだ。必死になって塞ごうとしているとはいえ、所詮あっちは非力な少女、しかも病人。こちらが本気になれば敵わないわけがない。ぎしりと押入れがたわみ、襖が徐々に横に動き出す。中で抑える手が微かに見えた。あと少し。雪瀬は取っ手から離した片手を襖のふちにかけようとする。しかし次の瞬間である。こちらの隙をついて襖がすごい勢いで閉められた。雪瀬は慌てて手を引っ込める。みしりと音を立てて襖の枠と壁とがぶつかった。……これに手を挟んでいたら痛いでは済まない。
 ぱちぱちと目を瞬かせ、雪瀬は沈黙する押入れを見やる。

「あのさ」
「……」
「開けてよ」

 何も力などに頼らずとも人間には話し合いというすばらしい手段があるではないか。考え、雪瀬は素直に開けてと頼むことにした。だが、あちらは言語を勝ち得た人類のすばらしい発明のひとつである『沈黙』の切り札を行使している。

「……開けてくれないかなぁ」

 仕方なく少し謙虚な姿勢で出てみた。無駄だった。
 これにはさすがの雪瀬もため息をつく。若干苛立つ……のを越えて早々に面倒になってきた自分を理性で押しとどめ、雪瀬はこんこんと押入れを叩いた。

「あのね。びっくりしている心中はお察ししますけど。覚えてる? 俺がそこのあなたを拾ったの」
「……」
「……聞こえてます?」

 こく、と微かだがうなずく気配がした。

「じゃあ開けて」

 ふるふる、と今度は首を振る気配。何をそんなに意固地になっているのだか。雪瀬ははぁと息を吐き、白旗を掲げて押入れから離れた。枕元に置き去りにされていた草紙を拾って栞を挟んでいた箇所を探す。ついに面倒になり、待っていればそのうち出てくるだろうという楽観的な考えになったのだった。彼女だって分別のない幼子じゃあるまいし、そのうち状況を理解して出てくるだろう。
 ――しかしながら、当ては外れた。日が傾き、夕方を告げる鐘が六つ鳴り、あたりが暮れ、灯台に火を灯す時間になっても襖はかたりとも動かない。油皿に浸された灯心が隙間風に頼りなく揺れ、手元の草紙にいびつな影を落とす。外は風が吹き荒れているらしい。遠くで春雷の音が聞こえた。終わりの一行を読みきってしまい、雪瀬はようやく顔を上げた。
 閉じた押入れのほうへ肩越しに視線をやる。やっぱり物音ひとつなく、中の気配もなんとなく希薄だった。もしかして眠ってしまったのだろうか。よもや死んでは……いないよな。不安になってきて雪瀬はそろそろと音を立てないように細心の注意を払いつつ押入れに近づいた。襖へ手を差し伸ばす。
 そのとき、微かに、本当に微かにだが、すんと鼻を鳴らすような音がした。耳を澄ませば、…っく、と途切れ途切れにしゃくり上げる声が聞こえてくる。こちらに悟られないようにと必死に声を殺しているらしく、それはどこかこもりがちで、本当に注意してなければ聞こえてくることはなかったけれど。
 そんなにか、と思った。
 淡い苦笑に似たものが滲む。雪瀬は衣擦れの音をさせて立ち上がり、こん、と押入れを叩いた。

「さっきの続き。じゃあこうしよう」
「……?」

 問うような気配が襖の内側から返る。雪瀬は口を開いた。

「俺は今からそこのあなたの名前を当てる。当てられたらあなたは押入れから出てくる。どう? ――俺に名前、教えてないよな?」

 答えは返ってこなかったが、少女がうなずいたらしいことは察せた。

「じゃああなたの名前を俺が知ってるのはありえない。でも、当てる。絶対。だからもし俺の言った名前が当たってたらそこから出てきてね、」

 すっと間をため、雪瀬は言った。

「――“さくら”さん」

 小さく息をのむ気配がした。
 
「あたり?」

 及んだ効果をうかがいながら問いかけてみる。彼女は答えなかったが、この場合は沈黙こそが是、と物語っていた。

「字は花の桜? それとも地名で佐倉?」
「――……」
「いいや、じゃあたぶん花。花の“桜”で桜だ」

 賭けだったが、外れではなかったらしい。負けた、とでもいうようにそろそろと襖が開かれた。ちょこんと中にうずくまった少女は枕を抱きしめながら怯えた、それでいてこちらを必死に威嚇するような小動物独特の目をしてこちらを見つめている。とん、と雪瀬は押入れの、少女の座る板の上に腕を乗せた。視線と視線がぴたりとあう。

「俺は橘雪瀬」
「……、た、ち?」
「たちばな、きよせ」

 たちばなきよせ、と彼女は一音一音飲み込むようにして呟く。幼さを残した声は甘く澄んでもいた。

「そう。呼び方はどうぞご自由に」
「ごじゆう」
「何でもよいよ、ってこと」

 薄く笑むと、桜はたちばなきよせ、ともう一度、小さな声で繰り返した。覚えてくれる気になったのか、先ほどのようにただ繰り返しただけなのかはわからないが、鋭くとがっていた空気はいつの間にやら丸く和らいでいる。はじめまして、すごく今さらだけど、と苦笑しつつ、雪瀬はようやく目と目を合わせてそう言った。