一章、夜明け
五、
庭、にしてはひどく大きい。毬街の家々にも庭はあったが、それとは比べようもないくらいだ。あれらが丸ごと入ってもまだ足りないのではないか。
いったいどこまで続くのかわからず、それでも歩き続けていると、眼前に竹で編まれた垣根が現れた。そこについていた枝折り戸を引き、外に出ようとすれば、今度はまた別の館(やかた)が視界に立ちはだかる。一瞬にして淡い期待は打ち砕かれ、桜は戸の取っ手をつかんだまま、ぽかんとしてしまった。
まるで迷路のよう。戻ったほうがいいだろうか、先ほどよりは少し冷静さを取り戻してきた頭で考え、桜は後ろを振り返る。目の前に広がる景色を見たとたんすっと血の気が引いていくのを感じた。
景色に覚えがない。桜はいったいどこをどう歩いてここまで来たのだろう。――早くも道に迷ってしまっていたのだった。
仕方なく戸を閉め、桜は前を向く。こうなれば出口を探して歩き出す他なかった。
闇夜は静まり返っていたが、時折、風音に混じってぱちぱちと篝火のはぜるような音が聞こえてくる。他に頼るものなどなかったので、それを道しるべにして歩いた。たぶん、たぶんだけども、火が焚かれているということはそこにひとがいるということで、ひとがいるということは出口も近いのではないだろうか。――ただ同時にあの刀を持ったひとたちに出くわす確率も上がるわけで、先ほどよりも注意深くあたりに気を配りながら、桜は足音を忍ばせて歩いた。
「――おい、見つかったか?」
と、野太い男の声がすぐそばで上がり、桜は心臓を跳ね上がらせる。茂みを背にしてしゃがみこむ。男の持つ松明が彼らの影を桜の足元に描き出していた。
「こっちか?」
「いや、いない」
「あちらかもしれない。探そう」
慣れた風にいくつか言葉を交し合い、彼らはまたばらばらと散っていく。桜は茂みの奥で息をひそめたまま、膝を抱き寄せた。やり取りのかんじからして彼らは誰か、ひとを探しているらしいことはわかった。
――もしかして自分、だろうか。
考えると、とてもそんな気がしてきた。何かのはずみに自分がここにいるのがばれて。あるいは、誰かに告げ口を、されて?
桜はふるふる首を振る。ない。そんなことはないと、しんじたい。
もう一度ふるっと首を振ると、桜は完全に気配が途切れたのを見取ってそろそろと茂みから顔を出した。左右を見回す。どうやらひとはいないようだった。ほっと安堵の息をつき、桜はさっきの篝火のほうを目指してまた歩き出す。だが、そのときの桜は後ろから忍び寄る影には気付いてなかったのである。
「……?」
かさ、と微か葉擦れの音がしたような気がして桜は顔を上げる。瞬間、背後から太い腕に捕らえられ、茂みの奥に引きずり込まれた。
「……ひゃ、」
悲鳴を上げようとするも、機先を制するように口を塞がれてしまう。手足をばたつかせれば、「静かにしろ」という短い叱責が飛び、下腹部にこぶしが埋め込まれた。まだ閉じきっていない傷口に激痛が走る。視界が真赤に染まり、一瞬気を失いかけた。桜はぐったりと男の腕に身を預ける。
こちらがおとなしくなったのを見取って、男が口を塞ぐ手を少しだけずらした。半ば酸欠状態であったので、桜は息を喘がせながら新鮮な空気を必死に吸い込む。一緒にむっとした血の臭気が鼻についた。もしかして、と桜は思う。このひとも怪我をしているのだろうか。
「声、出すなよ。声を出したらその首をへし折るからな」
「……たちばなの、ひと?」
「出すなって言ってるだろうが」
男は桜の首に回した腕の力を強くしながら、「違ぇよ。あいつらに、追われてるんだ」と囁き返した。
「おわれている?」
「俺、都から逃げてきたから。見つけたら、処罰する気なんだろう」
都から逃げてきたのならわたしも一緒だ、と桜は思った。奇妙な親近感のようなものが沸く。とりあえず、黒い羽織のひととは違うらしい。橘のひとでもないらしい。
「お前はなんだ? この家の使用人か何かか?」
しようにん、というのは聞いたことのない言葉だったので、桜はふるふると首を振った。
「じゃあなんだよ」
なんだろう。ただひとまずこの首に回った腕をどうにかして欲しくて、桜ははなして、というように男の腕を叩いた。そのとき先ほどの男たちらしき声がして足音がまた近づく。別に声を上げる気はなかったのだが、男は注意深く桜の口を手で覆った。彼らはやはりこちらには気づかず、茂みの前を通り過ぎていった。
それを見取って身を起こそうとし、男はふと動きを止めて顔をしかめる。どうしたのだろうかと不思議に思って男の顔を覗き込むと、彼は苦笑しながら己の左足へ一瞥をやった。
「途中で足をやられてな、相棒も俺を見捨てて逃げた。橘ならたすけてくれるかと思ったのに……。所詮、朝廷の狗か」
男は桜を引っ張って茂みのさらに奥へと進もうとする。と、かくんと視界がぶれた。男が木の根か何かに負傷しているほうの足を引っ掛けたらしい。にわか、首に回された腕の力が弱くなる。その隙をつき、桜は男の腕から逃れ出た。
「っ、おま、」
声を上げてこちらへ手を差し伸ばしてきた男からひらりと身をかわし、桜は茂みの外へ走り出ようとする。だが急激な動作をしたせいか、立ちくらみに襲われ、一瞬視界が白い光に埋め尽くされた。思わず足が止まってしまう、そのわずかな間で追いついた男が桜の腕を捕らえる。はなして、と弱々しい声をあげ、身をよじろうとするも、髪を力任せに引っ張られた。
くんと身体を引き寄せられ、また男の腕に収まりそうになる。刹那、だった。微かな羽音が耳を撫ぜ、男の背後から黒い影が飛び出た。驚いた男の顔面を飛び出た何がしかが嘴でつつく。やめろやめろと男ががむしゃらに振った手を俊敏によけると、その影は桜のかたわらに舞い降りた。
月明かりにしなやかな肢体が浮かび上がる。――扇だ。
「おい、そこの。こいつに手出ししたらただじゃおかねぇぞ」
どすをきかせた声で脅すと、白鷺は再度男へと飛びかかった。男はくそっと舌打ちし、腕に飛びついてきた白鷺を力任せに振り払う。それをうまい具合に身をそらしてよけるも、何度も白鷺にしてやられる男ではない。何せ脱走したとはいえ、彼は武人なのだ。向かってきた扇の腹に肘で一撃を食らわせ、さらにその身体を腕で薙ぎ払う。ひゅ、と矢が失墜するように力を失った小さな身体が地へ落ちる。
「あおぎ!」
桜は無我夢中で起き上がり、白鷺の身体を受け止めようとする。けれど、届かない。だめだ、と思ったとき、ひょいと現れた影が落ちてきた白鷺をつかんだ。
「――あっぶな。何扇やられてるの」
責めるというよりはその声はどこかからかう風でもある。扇はまさか、ちょっと体勢を崩しただけだ、と悪態をついて声のぬしの肩に飛び乗った。木陰から浮かび上がった影に気付いて男がはたと動きを止める。
「まさか。たちばなの……」
「察しの通り。お前をお探しの橘一族だよ」
答える声は軽い。雪瀬は薄く笑んだようだった。
「なら、わかるよね?」
「何を――」
「もう手詰まりだってこと」
男の眸が驚愕に見開く。雪瀬は腰に佩いた刀をすらりと抜いて、その首めがけて薙いだ。男の喉から悲鳴がほとばしる。次の瞬間起こるであろう惨事を予感し、桜は思わず目を瞑った。
「――……?」
だが待てども首の飛ぶ音や血が吹き上がる音がしない。不審に思ってそろりと目を開けば、研ぎ澄まされた刃は男の首筋ぎりぎりでぴたりと止められていた。それで気絶してしまったらしい。白目をむいた男がその場に倒れこむ。肩をすくめ、雪瀬は刀を鞘へとおさめた。ちん、と軽い鍔鳴りが響く。
「扇。暁に連絡入れて。脱走兵をひとり捕まえたって」
「おう」
命令にすばやく応じて白鷺は身を翻した。月の架かった空へと吸い込まれていく白い肢体を見送って、雪瀬はこちらを振り返る。翳りを帯びた琥珀とも、漆黒とも見て取れる、深色の眸が眇められた。知らず桜は息をひそめる。
「俺は部屋を出ちゃだめって言ったよね」
こくん、と桜は首を振った。
「じゃあどうしてここにいるの」
「……、」
すばやい切り返しにたじろぎ、桜は少年を仰いだ。月を背にしてしまっているせいでその表情は見えない。ただいつもとは異なる気配を嗅ぎ取って、背筋に緊張が走った。怒って、いるのだろうか。桜が勝手なことをしたから、怒らせてしまっただろうか。眸を伏せ、桜は自分の右肩をきつく抱きしめる。謝り方を桜は知らない。悪いことをしたときは、――たとえばもらった小鳥を逃がしてしまったようなときは――てひどい罰を与えられたものだった。そうか、と思って桜は肩から、自分を守るようにしていた手をそろそろ下ろした。無防備に、何をされてもいいようになる。そういう風にしか桜は、ごめんなさいを、伝えられなかった。
目の前にあった影がふとかがむ。手を差し伸ばされた。桜はぎゅっと目を瞑る。ひやりとした感触が頬を触れた。
「しんぱい、した……」
はぁーと深々と息をつかれる。桜は驚いて眸を開いた。殴るか叩くかするかと思った手のひらは頬にそっとあてがわれていた。少しかさついた手のひらはひんやりと冷たい。指で二三度優しく頬を撫ぜるようにしてから、雪瀬は手を桜の眼前へ持ってくる。その仕草が何を求めているのか、なんとなくわかった。桜はおずおずと少年の手のひらに自分のそれを重ねる。きゅっと握り締められ、引き立たせられた。
あとは何も言わずに歩き出したそのひとを追って桜もとたとたと少し危うげな足取りで歩き始める。そぅと手を繋いでくれるひとの横顔を仰いだ。それから、桜はためらいがちに、けれどとてもとても大切なもののようにその手を握り返した。
2008/1/18 (修正)
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