二章、花信風に呼ばれて



 一、


 ――“わたし”は決まって、夜に目を覚ます。
 ふ、と目の前を深い闇がおおった。
 ここはどこだろう。思い出せない。わたしはなにをしていたのだろう。
 少女のいまだおぼつかない意識を呼び覚ますように、錠の落ちる生々しい音が響いた。掲げられた蜜蝋の光に眩しそうに目を細めた少女を女官が座敷牢の中から引き出す。彼女に手を引かれ、少女はまず簡素な造りの小部屋に通された。そこで身体を清められ、紅い襦袢を着せられる。髪を櫛で梳かれ、緩く結い上げられたあと鼈甲の簪をいくつか挿された。薄く化粧をほどこされ、唇には紅を。重ねられる衣には香が焚き染められていた。甘い花の匂いにも似た香である。この女官は香を調合する腕に優れていた。

 そうして一通り身を整えさせられると、少女はまた女官に手を引かれ、ぺたぺたと磨きぬかれた鏡床を歩く。廊下を歩き、やがて奥間へたどりつくと、女官が何がしかを御簾内に告げ、自分は几帳を隔てた場所に身を落ち着かせた。部屋には他に僧がひとりと年老いた女官がいて、女官の隣に能面のような顔をして座っている。ぽつんと部屋の中央に残された少女はゆるゆると伏せがちだった顔を上げた。
 目の前には畳が一枚敷かれており、天井から白い帳が下りている。ひらりひらり風に帳の裾が揺れた。灯台の光がうっすら漏れ出で、床に陰影を落とす。帳の中から静かに、音もなく、しわがれた手が伸びた。差し伸ばされた手が、おいで、と招く。おいで。おいで。わたしの可愛い――。
 そうして褥で眠るそのひとの伽をするのが、“わたし”のシゴトだった。






「ソト?」

 今しがた聞いた言葉を繰り返し、桜はほとりと小首を傾げた。膝の上にはとろみのついた餡をかけた菜飯がある。ひと匙すくい、それを息を吹きかけて冷ましながら口に入れていると、対面で薬草をすっていた少年がうんとうなずいた。

「歩く練習したほうがいいでしょ。そろそろ」

 桜が雪瀬に拾われてもうひと月ほどが経とうとしていた。
 半分開かれた障子戸の先に広がる庭からはすでに雪が消え、若葉を茂らせた緑樹が見える。風が頬をないだ。草木と花の香がくんと香る。きらきらと陽光を通して光っている若葉を見つめ、ソト、と桜は呟いた。それから、こくんとうなずく。

「しかし難しくないか? 屋敷には門衛がいるだろう」

 枕元にうずくまっていた白鷺がくいと顔を上げ、桜の膝元に飛び乗ってくる。もんえい、とはなんだかよくわからないが、言葉尻から察するに門番みたいなものだろうか。勝手にお椀に嘴を突っ込み、あんかけを飲み下しながら「桜のこと、まだ八代にも言ってないんだろう?」と扇は続けた。

「まぁね。言う機会がないというか……」

 雪瀬は言葉を濁らせ、頬をかいた。

「会う機会がないというか」
「あいつ、まだ帰ってきてないのか」

 ふたりの交わす会話にいまいちついていけない。桜は匙を置いて、かたわらの雪瀬の袖端をくいくいと引いた。

「やしろさま、何?」
「ああー……」

 一瞬居をつかれた風に目を瞬かせ、雪瀬は肩をすくめる。あとに言葉は続かない。どうやら今のが返事だったようだ。何なのだろうと眉根を寄せた桜に白湯と薬を渡しながら、「おいしかった?」と雪瀬は別のことを問う。

「……ん。あま、い?」
「そりゃあね。あんかけだから。――しょっぱいほうが好き?」
「ううん」
 
 そこはしっかり首を振っておく。
 スキ、甘いの、と無表情に、ぽつぽつと言葉を紡ぐと、柔らかい笑みが返って来たので、桜は呆けた顔になって相手を見つめてしまう。

「……何?」
 
 笑みを収めて雪瀬が尋ねる。ふるふると桜は慌てて首を振った。
 ――めずらしい、と思ったのだ。そういう風に、自分に当たり前みたいに笑いかけてくれるひと。めずらしいなぁと思っているうちに胸がほこほこと温まってきたので、桜はうう?といぶかしげな顔になってそのあたりを手でさすった。またこいつが変な挙動をしているぞ、と膝で一服しながら扇が笑った。






 ことん、と置かれた白磁器からほんのり湯気があがる。
 白湯の中をゆらりと開くのは桜の花弁。桜湯と呼ばれる一品だ。窓から道先に咲き誇る桜花を眺めながら、青年は白磁器に口をつける。外には二頭の黒毛の馬が繋がれており、鼻面にひらりと舞い落ちた花弁がくすぐったかったのか、ぶるりと身体を震わせた。

「どう? 近頃店の入りは」

 青年が奥に向けて尋ねれば、濡れた手を上着でふきながら店主が出てきた。

「まぁぼちぼちな。都が荒れてるわりには豪商やら豪族やらは金を落としてくれるからよ」
「相変わらずやぁな商売だよね」
「はっ、別に。俺は楽しい」

 店主は黄色い歯を見せて下卑た笑いを浮かべる。対面にいた少女は軽蔑するような視線を男にやり、ふんとなって甘酒をあおった。そんな少女の様子に苦笑し、青年――橘颯音(たちばな さおと)は桜湯を置く。

「しかし都には何用で? 新年の儀にはちと遅くねぇか」
「今回はね。父の代わりに春の円議に参加しに来たの」

 円議、というのは年に一度朝廷で催される政議のことである。普段は自分の治める領地に散っている一族のかしらが集い、その年の国政を話し合う。

「親父さん……八代はどうした?」
「行方不明中」
「穏やかじゃねぇな」
「いいんだよ。どうせ毬街の芸子とよろしくやってる。母親が死んでからちょっとおかしいんだ、あのひと」

 小声でごちて颯音は桜湯をすすった。それから机に頬杖をついて、窓から外を眺める。桜が美しく花を咲かせる都近くの街はしかし、目を疑うほどに荒廃していた。眼前には人一人見当たらず、かつてはにぎわっていたであろう通りの店々は今はすべて暖簾を下ろされていた。さびた通りにはただ花びらをまとうた乾いた風だけが吹いている。郊外で門番を数十人は雇っているような豪奢な貴族の邸宅をいくつも見てきた颯音からすれば、この落差には瞠目する他ない。

「ここはずっとこんなものなの?」
「まぁな。夜になりゃあ物盗りやら娼婦やらでそれなりに賑わうんだが、昼はさびついたもんよ。いい身なりの者がうろつくとすかさず襲われるから、貴族や富裕の商人は邸宅にこもって外に出てこねぇ。俺んとこに来るときもわざわざ牛車を使ったりしやがる」

 ふぅん、とうなずいていると、ちょうど車輪の音がいずこよりかしてきた。何事かとばかりに馬がいななきをあげる。あまりの激しさに小さく舌打ちし、少女が窓の桟に手をついてひらりと外へ出た。先とは一転、親愛のこもった表情でどーどーと馬をなだめる。撫ぜられていると、馬は次第おとなしくなった。五條薫衣(ごじょうくのえ)は馬を扱う術にたけているのである。
 颯音はそれをのんびりと眺めながら、頬杖をついて店の前にたちどまった牛車へ視線をよこす。質素にあつらえられたそれから降りてきたのは、しかし車とはそぐわぬ豪奢な着物に身を包んだ男であった。なるほど、外見(そとみ)をやつして貧民の襲撃を避けているというわけか。

「いらっしゃいまし」

 店主、空蝉(うつせみ)は愛想のよい笑みと、気味の悪い猫撫で声に切り替えて、男を出迎える。いつものでございますか、と尋ねれば、男が顎を引く。空蝉は墨染めの衣を翻し、男を奥へと招いた。店主の横で控えていた少女が男の上質な羽織を受け取り、衣桁へとかける。空蝉に案内され、男は店奥へと導かれていく。颯音は桜湯を味わいながら、それを見送った。
 一見、ただの茶屋風であるこの店はしかし裏でとある商売を営んでいる。店のさらに中へともうけられた、墨で染められた布地に白い花を染め抜かれた暖簾、その奥にあるのが客が求める品々だ。颯音は椅子から上半身を伸ばして、中をのぞきみた。
 黒暖簾が翻る。その先にもうけられた小部屋、そこに並べられる檻の中にいたのは、ひとりの少女であった。ふんわりとした琥珀色の髪の、綺麗な顔立ちの少女である。薬でも嗅がされているのか、ひどく茫洋とした表情で客である男を見上げている。その隣の檻にもまた別の少女。檻はざっと五つくらいあり、さながら美しい蝶を捕らえて並べるがごとく、そのすべてに少女が入れられていた。ひとつの檻には売却済みという札が立てられている。――人身売買か。否。

「本当に精緻な作りをしているな」

 ほぅと息をのみ、男が檻の中へ手を差し入れた。少女の頬に手をあてがい、さらりとその髪を撫ぜる。

「体温もある。まこと、ひとのようだ」
「ええそれはそうでしょうとも」

 空蝉はにやりと笑って胸を張った。

「この人形師・空蝉をあなどらんでください。俺の作品はね、お客さま。体温もあるし、刺せば血だって出る。ものも食うし、涙も流す。そちらのほうが飼いがいがあるってもんでしょう?」

 何せ本物のひとの屍をもとにしてますからね、と言って、空蝉は少女の琥珀色の髪をいとおしげに梳いた。

「けれど、唯一ひとと異なる点を上げますれば、この美貌は永遠不変だということ。老いて醜くなることはなく、死すれば、ただ白き灰に還るだけ。望めば、一生あなたさまの『人形』となりましょう」

 謳い文句に男がほぅと息をのむ。欲を宿した眸が少女たちひとりひとりを見て回る。品定めを楽しむ風に男はうっすらと笑みを浮かべた。

 結局、男は琥珀色の髪の少女を所望したらしい。
 檻に売却済みの札がまた置かれる。遠のく牛車を見送って、「儲かってるというのは本当だったらしいね」と颯音は苦笑した。おうよ、と空蝉はうなずき、「今月でもう三体めだ」とにやりと笑って返す。

「一体なんてよ、あの老帝さまがご所望なんだから」
「“しらら視狩りの空蝉”がねぇ」
「人形師・空蝉と呼んでくれ。本業はこっちだ」

 颯音の湯飲みを片付けながら、「そういや」と空蝉は剃髪した頭をかいた。

「知ってるか? その老帝寵愛の人形がひとつ消えたって話」
「消えた?」
「正確に言えば、逃げ出した、だったかな。これ珍しいんだぜー? 人形が曲がりなりにも自我を持つなんてよぅ」

 紫の片目を細めて、男はいたく愉快そうに笑う。自分の作品が起こした予想外の反応を純粋に面白がっているらしい。薫衣がいらついた様子で机の足を蹴った。肩をすくめ、颯音は「じゃあ、そろそろ行こうか」と腰を上げる。羽織の袖に手を通していると、その間にも薫衣はさっさと店を出て行ってしまう。よほどこの店主が気に食わなかったのか。
 少女の背を追って、颯音も暖簾をくぐろうとすれば、「おつとめご苦労さん」と嘲笑混じりの声が背中に投げかけられる。

「お慰みにおひとついかがだ? まけとくぜ」

 店主の言葉に、ほんの少し考えるような間をあけてから「必要ないからねぇ」と颯音は一笑に伏した。

「言葉も知らない。表情も変えない。いくら美しくともそれがひとであるものか」



 ――だが、この国の帝がその“言葉も知らない、表情も変えない生き物”に心を奪われているのは確かなようだった。
 わたしの――……が見つからぬ、わたしの――……がのうなった、と独語を繰り返す御簾内の帝へちらりと目をやり、颯音は嘆息する。集まった他の貴族は歌を言い合うのに夢中で、帝の様子には気付いていないらしい。
 颯音は東の果て葛ヶ原を統べる橘一門、その宗家本流である家の嫡男だ。父に代わって初めて単身都へ上ったのだが、それにしてもこの朝廷の退廃ぶりはなんだろうか。政議もせずにただひたすらに貝合わせや歌にふける貴族たちを眺めながら颯音は思う。
 御簾のかたわらでは黒衣を羽織った占術師が慎ましやかに控えていた。昔はいくらばかりかまともだったらしい老帝はしかし数年前皇后を失って以来あの占術師の言いなり、まさしく傀儡になっていると聞く。実際に見てみて、確かにと思った。帝は御簾内から声を発さず、すべてをこの占術師が取り仕切っている。何か命令を与えているという風でもなかった。気に食わないなぁと颯音は苦く思い、床をこつんと指先で叩いた。
 わたしの――はなが見つからぬ。
 わたしの――『花』が。
 ぶつぶつと呟く帝の声は途切れることがなかった。