二章、花信風に呼ばれて



 二、


「颯音さん、遅いなぁ……」

 ほぅ、と物憂げにため息をつき、少年は手元の書状から顔を上げた。筆を硯に置き、また嘆息する。薄い茶の髪に、灰色の大きな眸が特徴の少年である。齢はまだ十五ばかり。彼は名を蕪木透一(かぶらぎ ゆきひと)といった。

「雪瀬も最近やたら忙しそうだしぃー」

 近頃あまり相手をしてくれない少年を思い返しながら、僕暇なんだよねーと透一は素直な本音を漏らす。文机に頬杖をつき、しばし物思いにふけるようにしてから、透一は筆から垂れていた墨汁に気付いて「あー!?」と声を上げた。今しがたまで書いていた書状には黒い染みができている。うそぉ……と呟き、透一は机に突っ伏した。

「どうされました?」

 和やかな声が頭上から降る。顔を上げると湯飲みを盆に載せた青年が部屋に入ってきていた。

「暁(あかつき)さん!」
「はいはい、なんでしょう」
 
 せっぱつまった声を出せば、青年は慣れた風ににっこり微笑む。この青年は暁といい、橘の宗家に仕える衛兵であった。と同時にかつては橘宗家の兄弟の子守係を仰せつかっていたという経歴を持っており、お役目柄か、いつも周りに穏やかな春の陽気のような空気をまとわせている。透一はこの青年が好きだった。

「あのね、聞いてくださいよ。朝廷への報告書、作ってたんですけどね」

 透一は翡翠の文鎮を置きながら、青年にまくし立てる。

「おや染みが」
「そう! ぼうっとしてたら染みができちゃったんです!」
「それはそれは……」
 
 暁はくすくすと笑い出す。だが透一からすれば笑い事ではない。自然憮然となってしまうと、暁は急須で湯飲みに茶を注ぎつつすいません、と詫びた。

「報告書……、この前の脱走兵のですか?」
「あぁ、はい。雪瀬が捕まえたやつ。――結局消えちゃったんですけどもね」
「消えた?」
「人形だったんです」

 抽斗から新しい紙を取り出しながら透一が答える。
 ――そのときの光景は今もすぐに瞼裏に描き出すことができた。足元に散らばる多量の鮮血と、灰。不思議なことに鮮血が流れ出たはずの身体はない。死体もまた、見当たらなかった。どういうこと?、と透一は同様に軽く目を瞠っていた少年に問う。雪瀬は足元の灰を手ですくいながら、人形だったんだろうと淡白に答えた。人形。透一もその存在自体は知っている。ひとの屍をもとにして作るそれはひと目見ただけではひとと区別がつかないし、教えれば言葉を操り感情を持つことだってあるのだが、ただその身は老いることなく、死すれば真っ白な灰に変わる。それだけがひとと違っていた。
 このような異形のひとがたを帝は数多飼っていると聞く。透一からすれば、生まれるや帝に囲われ、外に出るすらできなくなる彼らが痛ましくてならない。逃げたら逃げたで、こんな風に殺されてしまうのだからますますつらかった。

「いた、暁! ――っと透一さまも」

 せっぱつまった様子で部屋に衛兵のひとりが駆け込んできたのはそのときだった。彼は暁の隣に透一の姿を見つけると、ぱっと槍を下ろし姿勢を正す。

「何かあったの?」
「は。朝廷からの勅使が参られまして」

 尋ねると、衛兵は上目遣いになってこちらをうかがった。指示を待っているらしい。ううんと唸って、透一は腕を組む。

「雪瀬は?」
「いません。お探ししますか」
「いや。いいや。僕が用件を聞くよ」

 今の時期ならば定期監察の可能性が高い。それだけの用件ならば透一でも事足りるし、また朝廷の勅使というのは何かと問題も多い……ので橘一族と引き合わせたくないというのが透一の本音だった。蕪木というのは橘を守るために存在する家なのである。
 広げかけた紙をしまうと、迎える準備をして、と透一は静かな口調で衛兵に命じた。






 しぃ、と口元に人差し指を当てて彼が言う。しぃ?、とその仕草をまねて桜は首を傾げた。それを見ていた扇がこいつには猿轡でもかませておいたほうがいいんじゃないかと不穏なことを言い出す。――とにかく黙っていろということらしい。
 がらがらと車輪の回る振動が足元から響いてくる。目の前は暗く、背中はちくちくと干草が刺してくすぐったい。桜は膝を抱えなおすと、よいしょと口元を両手で覆った。


「――雪瀬さま」

 門衛に声をかけられ、雪瀬ははたと足を止めた。屋敷の裏門を守る門衛はいぶかしげに眉をひそめ、「それ、何です?」と雪瀬の手元へと視線を向ける。

「んと。飼い葉」
「それは見たままわかりますけど、」

 門衛はいささか思いあぐねた様子で口ごもった。彼は何故干草を積んだ手押し車を雪瀬が押しているのかとそちらのほうを聞きたいのである。本来は宗家の使用人の、厩の当番がやる仕事だ。だが、雪瀬が気づかないふりをしていると、あちらはううむとより困った様子で眉根を寄せた。結局、槍を左手に持ち替えて、

「わかりました。私が運びましょう」

 と袖まくりをしながら申し出てくる。

「や、いいいい。へいき、」
「そう遠慮なさらずに。どこまでです? 五條家ですか?」
「じゃないんだけども。ほんと、平気」
「……っくしゅ」

 小さく発せられた音に、荷車を取り合っていた門衛と雪瀬は動きを止める。それきりまた沈黙した荷車へ彼はとても怪訝そうな視線を向けた。

「――今、飼い葉から何か聞こえませんでした?」
「いや。聞こえなかったよ。ね、扇?」
「ああ。聞こえなかった」

 荷車の持ち手の手すりにとまった扇と雪瀬は即答するが、門衛の表情は晴れない。どころかますます疑わしげになるばかりだ。

「いえ、でも今確かに……」
「っしゅ」
「ほら、また!」
「えー、あ、ほんとだー狐かたぬきでももぐりこんだかな。あとで引っ張り出しておくよ、うんじゃあ俺急ぐのでっ」

 門衛が飼い葉の中を探る前に、雪瀬と扇はくしゃみを連続する荷車を押して裏門をくぐり抜けた。
 宗家から出た道を疾走し、あたりに人気がなくなってきたところで雪瀬は荷車を止める。干し草をのけてやると、少女が顔を出し、またひとつくしゃみした。雪瀬ははぁっと持ち手に身をもたせかけてため息をつく。――どうやら帰るときはまた別の方法考えなければならなそうだ。



 荷車から降りると、柔らかな春風が頬を撫ぜ、肩にかかった髪をふわりと流した。広がる空の蒼さに桜は目を細める。少年の背を追いながら、とてとてとまだ慣れない足で畑近くのなだらかな道を歩いた。
 屋敷を出た最初こそ、白い塀にそって広い道幅の通りがあったものの、それは歩いているうちにだんだんと細く細く枝分かれしていく。しまいにはひとがずっと歩いているうちに自然にできてしまったような小さな道へとたどりついた。大通りに店が立ち並んでいた毬街とは違う。また、小路が整然と碁盤上に敷かれていた都とも違う。はじめてみる景色。胸が自然とどきどきしてきた。少し軽い足取りになって歩く桜の頭上にひらひらと白い欠片が舞い降りる。雪かな、と思って手でつかんでみたが、けれど融けない。雪じゃなくて。白い、花びらだ。

「……キレイ」

 黒い地面には白い花弁が幾重にも降り積もっている。桜は花弁の降る方角を探して左方を仰いだ。雪の消えた畑に小さな白い花が一面に広がっていた。梨の花だ、と扇が耳元で教えてくれる。背の低めの樹が群れ立っている畑では細い枝が空を張り巡らされ、まるで天蓋のようだ。枝に小さく咲き綻んだ雪色の花を眺め、桜は目を細めた。

「いいにおい」
「お気に召しました?」
「うん」

 こくんと桜は首を縦に振る。小さな梨花を飽きることなくひとつひとつ見て回っていると、不意に柔らかな風が吹いて花がさわさわ揺れた。差し込むまろやかな光が眩しい。あたりの空気をいっぱいに胸に吸い込んで、息を吐く。それから背後で樹を背にして座っている雪瀬の元へ戻った。

「……きれい」

 頭上に広がる白い天蓋を眺めながら桜はぽつりと呟く。

「はじめて。すごい。ぜんぶ、きれい。すごい。私……、」

 涙がつ、と一筋、頬を伝い落ちた。
 居をつかれた風に桜は目を瞬かせる。いったいどうしたのだろう。どうして自分が泣いているのかわからない。悲しいわけじゃないのに。痛いわけでもないのに。涙は溢れて止まらない。
 はじめて、外を見た。世界というものを見た。ずっとずっと遠い場所にあったものだ。届かない場所にあったものだ。それに今、触れている。
 ――うれしい。
 とめどなく溢れる思いが涙になったのだ、と桜は思った。

「ほんとよく、泣く」

 衣擦れの音がして、手を差し伸ばされた。顎をとって、指の背で眦にたまった涙を拭い取られる。ひんやりした指先は少し固く、その慣れない感触に身をゆだねて桜は雫の宿った睫毛を伏せた。
 はらはらと樹上から花弁が降っていた。