二章、花信風に呼ばれて



 三、


 宗家のほうの様子を見てくると言って扇はいなくなってしまったので、帰り道は雪瀬と桜のふたりきりになってしまった。
 がらがらと車輪の音を聞きながら、桜は前を歩く雪瀬を追って茜空の下の道を歩く。夕陽を受けて濃茶の髪を赤く染めたそのひとは特に何を話すでもなく手押し車を押していた。その後姿を見つめて、桜は泣いたせいで少し痛くなった眦を指でなぞる。丁寧に涙をぬぐってくれた所作を思い出すと、胸がじわじわと温かくなってくるのを感じた。
 と、下のほうで騒ぎあう子供の声を聞きつけ、桜はそちらへ目をやった。夕焼けに染まる段々畑の下のほうにはまたひとつあぜ道が伸びており、そこで小さな子供たちが追いかけっこをしている。その脇をすっとふたつの黒い影がすれ違った。逆光ですぐには見て取れなかったそれを目を細めてうかがい、桜は細く息をのんだ。
 ――漆黒の羽織。背中には花の染め抜き紋が入っている。
 忘れようもない。自分を追っていた男たちだった。

「……っ」

 小さな吐息にも似た悲鳴をあげ、桜は思わずあとずさる。まさかそれが届いたわけではあるまいと思うが、遠くにあった人影がつと何かに気を引かれたようにこちらを振り返り――、

「どうしたの?」

 ひらひらと目の前で手を振られる。桜は我に返って一度雪瀬を仰いでから、あぜ道へと視線を投げかけた。ちょうど木々に隠れ、黒羽織は見えなくなっていた。
 少し前の問いを思い出してぎこちなく首を振ると、ふぅん、という相槌とも思案ともつかない返事がして顔を覗き込まれる。飴色を深めたかのような眸は夕陽の光を受けていよいよ透き通り、見つめられていると落ち着かない気分になってくる。まるでこちらの頭の中を見透かしでもされそうだ。怖くなって桜はぎゅっと目を瞑った。そうだね、と呟く声が応える。

「目、瞑ってたほうがいいかも」
 
 どういう意味だろうか。不思議に思って薄く目を開けようとすれば、それを遮るように手のひらが目の上へとあてがわれ、瞼を閉ざされる。暗くなった視界の中、耳元でそ、と何がしかが囁かれた。とたん意識がまどろみ、身体から力が抜ける。伸ばした手は空をかき、桜は自分が深い闇の底へ沈んでいくのを感じた。


 ふらりと傾いた少女の身体を背に手を回して支え、雪瀬は嘆息をこぼす。桜は力なくこちらに身を預けてしまっていて起きる気配はない。よいしょ、と首に腕を回させて背負い、雪瀬は階下へ視線をやった。あぜ道を歩くふたり連れの黒羽織が見える。鮮やかに染め抜かれた紋からすると、朝廷からの勅使か。いつもの定期監察かな、と考えながら雪瀬は手押し車の手すりに腕を乗せて彼らが視界から消えるのを待った。
 この少女が“訳あり”らしいのは雪瀬とて察しがついていた。そもそも小道に死にかけで転がっていることからしておかしいし、それに彼女は十五ほどの見た目に反してあまりにも精神が幼い。言葉も使えなければ、ものも知らない。どう考えても普通の環境で育ってきた娘とは思えなかった。
 それに……、雪瀬は“そのたぐいことがよく見える目”を持っているので気付いてしまったのだが、彼女は――だ。案外、と雪瀬は彼女にまつわるいろんなことを考え合わせながら思う。最初に瀬々木が言っていた都の貴族が飼っていた子供、というのが一番近い線なのかもしれない。となれば、都に通じている勅使殿というのはよろしくない。

「緋の眸は目立つからなー」

 今は閉ざされている眸の色を脳裏に浮かべて、雪瀬は呟く。これではすぐに見つかってしまう。見つかって、どうするかはまだ考えていないのだけども。

「いた、雪瀬!」

 と頭上からせわしない羽ばたき音がして白鷺が肩に留まった。

「その様子だと……宗家で何かあった?」
「ああ。今、朝廷の勅使が来るとかで大騒ぎになっているぞ」
「あぁあれね」
「見たのか」
「さっき。ちらっと」

 桜を背負いなおしながら雪瀬は答える。いつの間にか道は田畑の間のあぜ道から白壁伝いの大きなものへと変わり、遠くには宗家の屋敷門が見えてきていた。
 
「いちおう透一が相手をすると言っていたが……」
「いや、俺が行く。扇は桜のこと見張っておいて。絶対外に出さないよう」

 手早く命じると、扇は目を伏せ「わかった」と言った。





 外で一日過ごしたため、羽織や袴はそこはかとなく泥や草などで汚れてしまっていた。襖の前でそれをぱっぱと払い落とし、雪瀬は軽く息を吐いてから一息に襖を開けた。

「悪い、ゆき――、」

 幼馴染の名前を呼びかけ、雪瀬は中にすでに勅使が通されていることに気付いた。非礼を詫び、なんで戻ってきたのといった風な顔をする少年に目配せを送る。透一の対面には黒羽織の男がふたり座っていた。おそらくさっき帰り道に見た奴だ。いつもは十数人のとりまきを連れてくるくせに今日はやけに少ない。

「遅い。早く座れ」

 襖の前に立っていた雪瀬に帝の使いを名乗る男は顎をしゃくって命じた。透一は一瞬むっとしたような表情をしたが、雪瀬のほうは素直に席に着く。見計らったように家の者が急須で注いだ茶と、花に見立てたそれはもう美しい菓子を持ってきた。が、客人のほうはどうやらそんなものには興味がないらしく、一瞥さえしない。仕方なく、雪瀬はそれに手を出すのをやめた。

「橘一族と話ができると聞いていたのだが」
「ご安心を。俺も橘ですよ」

 勅使の男はちらりとこちらに視線をやり、これみよがしの息をついた。男の態度は『子供』を相手にすることへの不満が見え隠れしている。さりとて葛ヶ原では男子は十五にもなれば大人と同じように扱われるものであり、今年十五になったばかりの雪瀬とてそれは例外ではない。家督も継げれば、妻帯も持てる。現に今隣にいる透一は十五になると同時に蕪木家の家督を継いだ。

「お急ぎなんでしょう? お話、どうぞ」

 促せば、少し不快そうな顔をしたもののここで押し問答をしても栓ないと思ったのだろう、男のほうが先に折れた。後ろに控えていた少し若い男に目配せを送る。若い男が紫の布に包まれた箱をすっと男のほうへ差し出した。それを大儀そうに受け取って、男は雪瀬のほうへと箱を押しやる。

「これ、」
「帝からの勅書が入っている」
「勅書……」
「少し前に後宮から逃げ出した娘がおってな。これが未だちょこちょこと逃げまわっておる。捕まえて後宮へ戻せ、というのが帝からのお達しである」

 口で説明してくれるなら別に紙なんて寄越さなくてもいいのに、と少し思いながら雪瀬は上質な紫の包みを開く。出てきたのは、花紋の押された漆塗りの文箱だった。花紋――この国の皇家の家紋だ。黒羽織の背にも同じものが染め抜かれている。雪瀬は文箱に入っていた勅書を広げた。綴ってあったのは先ほど男が言ったことを回りくどく固い言葉にして言い直しただけのようなものであったが、その中のある一文を読んだところで雪瀬は眸を冷たく眇めた。

「……これ。この容姿」
「ああ、珍しかろう」

 男は鷹揚にうなずいて、眸を細める。

「黒髪に緋の眸。一度見れば二度と忘れぬ眸の色よ」