二章、花信風に呼ばれて
四、
夢を見た。赤い椛が視界いっぱいに散っている。そういう、夢だった。
桜は身じろぎして、自分を抱きしめる青年の胸に顔をうずめる。甘えるような桜のそぶりにくすりと笑う声がして、背に手を回された。長い黒髪をゆっくりと梳かれる。繰り返されるその所作がひどく心地よくて、温かな腕の中で桜はうとうととまどろみに落ちた。
『ねぇ、さくら。聞いて?』
それまで沈黙のままに桜を抱きしめていてくれた青年がふと口を開いた。その声に宿るのは、穏やかでありつつも、しなやかなる芯の強さであって。いつもと趣の異なる彼の様子に不思議そうに顔を上げた桜の頬をいとおしむように手のひらをあてがって引き寄せると、青年はこちらの額へこつんと額をつけ、囁いた。
『もしもこの先嫌なことがあったら。怖いことがあったら。僕の名前を呼ぶんだよ』
『縫(ぬい)?』
『そう』
――きっと、必ず、助けてあげるから。
そう契ってくれた手のぬしはもういないのだけど。抱きしめてくれたその腕はもうないのだけど。
「ん……、」
誰がしかに呼ばれた気がして、桜はふと目を覚ました。もはや見慣れたものに変わりつつある天井をしばらくぼんやりと眺め、汗ばんだ前髪をかきやって軽く息をつく。寝起きのせいか、うまくまとまらない頭で直前の記憶をたどった。あのとき、黒羽織の姿を見て倒れたところまでは覚えているのだが。いつの間に帰ってきていたんだろう。
と、襖の外から、複数の足音と囁きあうような人の声がした。きよせだ、と表情を和らげ、桜は音のした方向へ駆け寄る。襖は開けるな、と平素から言われているのだが、うずうずする気持ちを抑えきれず、桜はそっと、ほんの少しうかがい見れるくらいに戸を開く。昼なのに薄闇に包まれた廊下へ視線をさまよわせていると視界端を黒い影が横切った。
心臓がどくんとはねる。桜の視線はそちらへ釘付けになった。
「どうぞ滞在場所に案内しますので――」
見知らぬ少年に案内されるように、黒羽織を着込んだふたりの男が連なって歩いている。黒羽織――先ほど見かけた男たちだ。
どうして。どうしてここにいるの。震えだした身体を押さえ込み、桜は銃を握り締めた。が、男たちと少年はこちらに気づいた様子もなく、廊下を歩き去ってしまう。言葉の端々に、『老帝さま』だの『後宮から逃げ出した夜伽』だのという単語が混じった。いくら桜といえど、彼らがここへ訪ねてきた意図はそれだけですぐに理解できてしまう。桜を連れ戻しに来たのだ。あの場所へ。
桜は音を立てないように注意を払って襖を閉じると、そこに額をつけ、深く息を吐いた。――逃げなくては。早く、彼らに見つかる前に、ここから逃げなくては。
枕元にあった銃を引き寄せて立ち上がると、後頭部あたりに鈍い痛みが走った。さっき出歩いたときに体力を使い果たしてしまったのか、どうにも足取りがおぼつかない。それでもなんとか障子の前にたどりつき、桜は取っ手に手をかける。
「ったく雪瀬の奴はいつ帰ってくるんだ……」
不意に障子の外で紡がれた声に、桜は目を瞬かせた。足元に視線を落とすと、障子戸のちょうど前あたりに白鷺の姿があるのが見て取れる。扇だ。ぶつぶつと呟きを漏らす扇がこちらに気づいた様子はない。桜はまだ眠っていると思っているのだろう。どうしよう、と桜は考える。出て行って、扇にすべてを話すべきだろうか。事情を話せば、もしかしたら力になってくれるかもしれない。でももしかしたら――。
「絶対に部屋から出すなってあいつ何考えてんだ」
桜は眸を大きくして、それからぎこちない所作で俯いた。
――力になって、くれるわけがなかった。逃げている間も怪我をしている桜を助けてくれるひとは、少しはいた。けれどみな、黒羽織が現れたとたん桜を放り出したではないか。みんなみんな、そうだったではないか。
桜は音を立てないようそぅっと障子を開く。濡れ縁に座る扇の背中を見取って、ほんの少しためらうようにしてからきゅっと目を瞑り、銃を振り下ろした。
*
会合は半刻とかからずに終わった。
滞在場所への案内は透一へと任せ、雪瀬は返す足で離れへと向かう。途中一度使用人に引きとめられたものの、ちょっと用があるからと早々に場を中座し、離れの奥の一間にたどりついた。少女を寝かしておいた部屋を開け放つ。
「――……嘘」
だがそこには誰もいない。部屋の中央に抜け殻のような布団が畳に残っているだけで、肝心の少女の姿は忽然と消えていた。
「扇。扇いる?」
部屋を見回し、濡れ縁に出たところで足元に落ちている折鶴を見つける。衝撃を受けたせいで折鶴に返ってしまっている。肝心なところで役立たずなんだから、とぼやいて雪瀬は折鶴を袂にしまい、身を翻した。が、部屋を出たところでちょうどこちらのほうへ向かってきていた男と行き会う。たたらを踏んで雪瀬は顔を上げ、ぎくりと肝を冷やした。
「ずいぶんと慌てた顔をしているな。どうした」
「……帰って、きてたの」
そんな言葉が漏れる。目の前に立つ男は橘八代(やしろ)といい、この家の当主――つまり自分の父親だった。
「ああ先ほどな。おい、今屋敷中が騒ぎになっているぞ。後宮から逃げ出した夜伽――黒髪に緋色の眸の娘なら庭でちらりと見かけたことがあると暁が言い出したものだから」
「へ、ぇ。うちの庭で?」
「ああ。いったいどこから入り込んだんだろうな?」
男が薄く口元に笑みを載せる。さぁね、わからない、と返して雪瀬はその場を去ろうとした。
「雪瀬。この部屋に何を置いていた?」
すれ違いざま、探るような声が降る。雪瀬は足を止めた。
「――さぁ、なんだと思う?」
「俺は答えを聞いている」
頑なな言葉に、ふぅと雪瀬は息をついた。
「病人だよ、病人。瀬々木に頼まれて看病してあげてたの。もう、いなくなっちゃったけど」
「ほーお?」
「何か、文句ある?」
「別に。ならば、俺も他の者にならって逃げした娘を探すとしよう。久方ぶりに葛ヶ原へ戻ってきたのだからな」
八代は腰に佩かれた大小の脇差しに手を添えながら誰ともなしに言って、きびすを返した。その背を見送り、雪瀬は面倒なことになったと小声でごちる。そして駆け出した。
*
激しい地響きがしたかと思うと、目の前を豪速で葦毛の馬が通り過ぎる。その音が途絶えてしまうのを待ってから、桜はそろそろと茂みから顔を出した。
橘宗家の屋敷を出て、ひとり葛ヶ原を歩くこと二日。屋敷を出るときは雪瀬のときと同じようにこっそり荷車の積荷に身をひそめた。あのときと違ったのは、荷車を押しているのが雪瀬ではなく、見知らぬ衛兵だった、ということだけである。しばらく運んでもらい、衛兵が休息を取っているうちに気づかれぬように荷から降りて逃げ出した。その日は樹の下で夜露をしのいで一晩を明かし、日中は村人たちの目を避け、なるべく一通りのなさそうな道を選んで進んだ。
方角がわからなくなってくると、空を仰ぐ。長いこと牢で空ばかりを眺めていた桜は太陽が東から昇り、西に沈むことを知っていた。都からはずっと東に向けて歩いてきたので、毬街へ戻るには反対に西へと進めばよい。つまり朝のうちは太陽へ背を向け、夕方には太陽と同じ方向へ向いているかを確かめつつ、方向を修正する。かなり雑な方法ではあったけれど、これを根気よく続けていれば、いずれ毬街へと抜けられるはずだった。
傾きかけた日を仰ぎつつ、桜は道を下っていく。夜が間近い。やがて日が暮れてしまえば、あたりは暗闇に染まり、歩くことすらできなくなってしまう。そうなる前にできるだけ進んでおきたかった。
「……?」
と、涼やかな水音がどこからともなく聞こえてきて、桜は足を止める。ゆっくり首をめぐらせ、音のする方角を探した。さらさらと流れる水音は、せせらぎのような。この前雪瀬と歩いていた時に一度見かけた気がする。“川”だ。
とたん、喉が切実な渇きを訴える。そういえば、ここ二日ろくに水も飲んでいなければ、食べ物も食べていない。桜は少し迷ってから、微かな水音を頼りに道を下った。
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