二章、花信風に呼ばれて



 五、


 思ったとおり、そこに広がっていたのは、大きな川だった。透き通った水面が林の梢から射し込む残照にきらめいている。水場特有のひんやりした清涼な空気が身体を包んだ。
 大きな岩が点在する河原の足場は悪く、一歩歩くたびに尖った小石が素足の裏を刺す。何度かそれにつまずきそうになりながら川にたどりつくと、桜はその場にちょこんとかがんだ。水を両手ですくい、手に口をつけて飲み下す。冷たい水は乾いた喉をすぐに潤してくれた。
 川底では背中に模様のある魚が泳いでいる。くぅぅとお腹が鳴って、桜はこれ食べれるかなぁと魚を見つめた。だが、水面に手を入れたとたん、魚はすぐに身を翻してしまう。尾びれが手のひらを滑りぬけ、桜はぺこぺこのお腹を抱えてしゅんとなる。
 
「――おい、そこの餓鬼」

 不意に背後から声を投げかけられ、桜は目を瞬かせた。ガキ。わたしのこと?といぶかしみながら振り返ると、岩影に身をひそめている男と目が合う。
 
「ひゃ、」
「っ待て!」

 逃げ出してしまおうとすると、切迫した制止がかかった。男は腰を浮かせようとしてから、顔を引き攣らせ、苦しげに息をつく。かばうように右腹に手をあてがった。見れば、男の足元には点々と赤い血痕が落ちている。怪我を、しているのだろうか。

「――だれ?」

 桜は銃を引き抜き、おそるおそるそちらに近づく。きっちり数歩、間をあけて足を止めると、男は弱々しく首を振った。

「みず……、水、を持ってきてはもらえないか……」
「お水?」
「ああ、」
 
 先を続けようとして、とたん男は喉を詰まらせ、血を吐いた。足元に散った少量じゃない血に、桜は驚いて目を大きくする。苦しげに上下する胸。引き裂かれた衣は、脇腹あたりがぐっしょりと濡れそぼっていた。やっぱり怪我をしているんだ。とても深い怪我。

「まってて」

 桜には怪我の手当てをする方法などわからない。けれどとにかく男の言っているとおりにしてあげようと思って、川のほうへと引き返した。水をいっぱいにすくい、戻ろうとする。
 そのとき。ざわりと冷たい風が背を撫ぜた。あたりの気温が一気に下がったような、そんな感覚。誰に足をつかまれているわけでもないのに、桜はその場に縛り付けられたように動けなくなった。早口で独特の韻律を持った言葉が唱えられる。刹那、断末魔のごとき叫び声が空を切り裂いた。血のほとばしるような、絶叫である。はずみ、すくっていた水が足元にこぼれて落ちた。半身を振り返らせたとき、岩陰にすでに男の姿はなく、ただ鮮血と、白い灰と血に濡れた衣だけが男のいた場所に残されている。何が、何が起こったというのだろう。桜が視線を彷徨わせていると、おもむろに岩場の合間から現れた影が足元に散らばる灰を高下駄の底で踏みつけた。
 桜は顔を上げる。目の前にたたずむのは、ひとりの男だった。逆光となっていてよく顔は見えない。返り血で赤黒く濡れた羽織に、ひとつにくくられた長い髪が風に流され、はらりとかかる。斜陽を背負った男はその肌色すら真っ赤に染まって見えた。

「あのひと、どこ、いったの?」

 男を仰いで桜は尋ねる。桜にしてみれば、当然の疑問だった。だって、水を、と言っていたのに。あのひとはどこに行ってしまったのだろう。衣と灰と血を残してどこに行ってしまったというのだろう。

「脱走兵ゆえな。処分した」

 男は桜が求めていたのとは違う答えを返し、河原に散らばる白灰にやっていた眸をついと桜に向けた。その眸が何かを見咎めたように眇められる。

「ほう。娘。珍しい眸の色をしているな」

 突然の話題の転換に、桜は少しいぶかしげな顔をした。男の手が伸び、顎を取って上向かせられる。男は丹念にこちらを値踏みするように桜を眺め回した。

「ふぅむ緋色……」

 男は哄笑を深くし、背後につき従う青年を振り返った。

「暁。見つかったぞ、こいつだ」
「……?」

 男の話についていけず、桜は眉をひそめる。男はさらりと桜の髪を一房すくいあげ、こちらを覗き込むようにした。

「確かに美しいが。本当に、“人形のような”おなごだな」

 男は桜の髪から指を解くと、こちらの腕をつかみ上げようとした。反射的に桜は男の手を振り払って身を引く。――よくわからないけど、このひとは“怖い”。銃身に手をかけ、警戒するような視線を男へ向けて振り上げると、「あくまで抵抗する気か」と男はくつりと喉奥で笑った。

「ならば、動けなくするまで」

 その手が流れるような所作で印を組む。それが眼前へとかかげられるのと同時に、男の足元から微風が渦を巻いて立ち起こる。ざわりと桜の首筋を湿った風が舐めた。怖い、怖いと胸が急にざわめく。――それは、もはや“勘”のようなものといっていい。黒羽織に追われ、何度も命の危険に瀕した桜は、ひとの殺気、というものに敏感になっていた。小動物が誰に学ばずとも獣から逃れるすべを知っているように、桜もまた誰に言われずとも男の殺気を読み取り、身体が勝手に反応した。帯元から銃を引き抜く。

「お下がりください八代さまっ」

 鋭い声を上げ、八代の前に暁と呼ばれた青年が飛び出る。だがそのときにはすでに桜の指は引き金を引いていて。ほんの数歩の距離であったので、銃弾は望むと望まざるとにかかわらず、青年の左肩を撃ち抜いた。硝煙がゆるくたゆとい、青年の左肩にみるみる赤い血が広がる。けれど彼はほんの少し表情を歪めただけで、そこから退く様子はない。

「まったく……手間のかかる」

 ひとつ舌打ちしてみせてから、暁を押しのけ、八代は印を組んだ両手を前に突き出す。それを撃とうと、したが。さっき青年の左胸を撃ったときの感覚が鮮やかに蘇り、桜は一瞬ためらってしまう。――“罪悪感”という感情が少女に芽生えるには、あまりに時機が悪かった。八代は勝ち誇った笑みを浮かべて印を切った。逃げなくては、と思った。けれど肝心の身体が動かない。桜は立ち尽くしたまま、迫り来る風の気配にきゅっと目を瞑った。

「――」

 誰かに名を呼ばれたような気がした。背後からぐいと腕をつかまれ、地面に引き倒される。まさに倒される、という言葉のままの乱暴な所作だった。石砂利に顔面から突っ込んでしまい、桜は小さく呻いた。数瞬遅れて、激しい烈風が頭上を通り過ぎる。小さな石や砂が空に舞い上がり、後方へと飛ばされていった。桜は目を瞑る。砂ぼこりまじりの微風がさらりと髪をかすめるが、身体がどうにかなった感覚はない。

「うわ。あっぶな……」

 背中に回された腕の重みに気づいて、桜はそ、と視線を上げる。腕のぬしは安堵するようにひとつ息をつくと、桜の背から腕をどかして身を起こす。雪瀬は藍袴をはたきながら、八代のほうへついと視線をやった。

「殺す気?」

 その声はいつになく厳しい。八代は軽く笑い、首をすくめた。

「これくらいでは死なぬ。何せ、『これ』は女ですらないのだから」
「……何が言いたいの」
「わかっていることを聞くとは愚かしい。この娘は“夜伽”。老帝の愛玩する“人形”。この女も殺せば、灰と鮮血を残して綺麗に消えるのだろうよ。これがひとであるとお前は言うか」


 この国の帝は。
 亡き皇后の代わりに数多の側女と、そして“夜伽”と呼ばれる人形を飼っている。側女というものはたとえどんなに得がたき美しき風貌を持っていようとも、時がたてばいずれ老いる。これは世の理。枯れる花が一輪としてないように。死なぬ小鳥が一羽としていないように。
 だが、“人形”は違う。人形はひとと違って老いることがない。血を流し、痛みを感じ、息をし、体温だってあるが、そこに老いだけはないのだ。時間が止まっている。――正しく永遠の美。
 老帝は人形をこよなく愛でた。皇后の死から逃れるようにかりそめの永遠にすがった。桜はそこから逃げてきたのである。


「ひとであるなしにそんなたいそうな違いがあるもんかな」

 呆れた風に呟き、雪瀬は八代と桜の間に分け入った。突きつけられた刀の側面を手の甲で叩いてどけるようにする。

「まぁよいや。とにかくこの子に手出しはさせない。――脱走兵と違ってね、帝はこの子を取り戻すことをお望みなんだ」
「……真だろうな?」
「嘘をついてどうするの」

 勅書だってもらったのに、と雪瀬は肩をすくめた。
 状況についていけず、桜はぱちぱちとせわしなく瞬きを繰り返す。それから思いつき、すぐ近くにあった袖をついと引こうとした。だが、その前に腕を逃がされてしまう。桜はあれ、と思って雪瀬を仰いだ。あちらは腰をかがめ、ごめんねと言った。

「俺、隅っこのほうだけどいちおう橘の人間なので。守ってあげれない。後宮に、戻って」

 そして目を離されたかと思うと、手が伸びてすいと銃を奪い取られる。

「や、……っ」

 桜は驚き、反射的にその袖に取りすがろうとした。

「だーめ。返しません」

 だがそれをひらりとよけて雪瀬は立ち上がってしまう。勢いあまって転び、桜は石砂利に手をついた。それを雪瀬が冷めた視線で見下ろす。記憶にある少年のものとは打って変わった視線の温度にひるみ、桜は混乱気味の頭で幾度か目を瞬かせた。

「やだ。かえして、」
「嫌。没収って言ったでしょ」

 暁によって背後から肩をつかまれ、桜はいろんなものを拒絶するように首を振った。わからない。どうして? どうして銃取るの? 桜をどこにやるの? 
 どうしてこんなことするの?
 どうして、とかすがちの声を漏らせば、雪瀬は暁のほうへ視線を投げて「肩へいき?」と別のことを尋ねた。

「ええ。かすめただけですので」
「そう。じゃあそいつを宗家に連れてって、――懲罰用の牢あるでしょう、ついたら、そこに入れて」

 牢、という響きに身体に冷たいものが走った。嫌だ。牢、いやだ。あんなところに戻りたくない。いや、と暴れる桜を暁が腕をつかんで押さえつける。それでもいやだいやだと桜はもがいた。どうして? どうして雪瀬はこんなことを言うのだ? たすけてくれたのに。しんぱいした、と言ってくれたのに。

「うそつきっ…」

 消え入りそうな声が、零れ落ちる。こめかみあたりがきゅうと痛んだ。眸からみるみる涙があふれ、頬を伝う。とめどなくこぼれて、うまくとめることができない。苦しげに眉根を寄せ、桜は途切れ途切れの嗚咽をもらした。そうして親に捨てられてしまった子供のように泣き喘いでいると、暁によって腰に手を添えられ、無理やり引き立たせられた。

「そう、橘一族は嘘吐き一族なので。すごぉくたち悪いんだ。だから、これからは嘘くらいちゃんと自分で見抜けるようにならないと」

 俯くこちらへ涼やかな声で言って、雪瀬はくるりと桜に背を向けた。