二章、花信風に呼ばれて



 六、


 海面すれすれを白い鳩が飛んでいる。
 しばらく飛んでいた鳩はぴぃという指笛の音に気付いた様子で空高く舞い上がり、海に浮かぶ船のほうへと一直線で飛んでいった。

「――どうやら葛ヶ原で帝の探していた夜伽さんが見つかったみたい」

 鳩のくわえてきた書状を開くと、橘颯音は隣に控える少女にそう告げた。
 舟縁に肘をつき、遠い空へ戻っていく鳩を見送る。あたりは昼であるのにもかかわらず薄闇に包まれ、雲行きはどうにもよろしくない。荒れた白波が舟に当たって弾け、飛沫を上げた。
 都からの帰り道は、陸路が六日に、水路が三日。毬街の埠頭につけば、葛ヶ原までは歩きで半日とかからない。遠目に見える半島を眺め、颯音は竹筒に汲んだ水を飲んだ。
 
「悪い風向きだな」

 淡茶の短い髪を潮風に揺らしていた少女がぽそりと漏らす。颯音は首をすくめ、暗に肯定を示すと、少女、五條薫衣(ごじょう くのえ)に竹筒を渡した。

「夜伽の子が逃げ出してから、ふた月半。葛ヶ原にたどり着くまでの日数を勘定したとしても、余りある」
「内部で誰かがかくまっていた、なんてことないよなぁ?」
「そうでないことを祈りたいものだね」

 颯音はうなずき、書状を畳んで、袂に入れた。朝廷はすでに葛ヶ原へ夜伽を引き取りに向かっているという。この様子だと、颯音が帰還するのと同時か、あちらが少し遅いくらいか。できれば早くついて、変な疑いがかけられぬよう根回しをしておきたい。そんなことを考えていると、隣の薫衣が小さく吹き出した。

「若君はまぁたあれこれ策を講じていらっしゃる」
「いえいえ、滅相もない」
「……またそういうこと言う。嘘吐き一族め」
 
 薫衣は呆れたとばかりにいつもの揶揄を口にする。
 ――“嘘吐き一族”。身内にはからかいまじりにそう呼びならわされている彼らは、正しくは『葛ヶ原の橘一族』という呼称を持っている。言霊により風を操る術師の家系だ。この能力を買われて、今から二百年も昔に当時の帝から深い恩寵をたまわり、東の地に封ぜられた。それから長き時に渡り、代々の帝に仕え続け、十年ほど前の中央による大粛清でも巧妙に立ち回り、勢力を拡大させた一族のひとつとなる。帝の両翼、それがかつて、一族に与えられた称号だ。
 けれど、二百年のときは長い。たとえ、一族の初代が忠誠を誓った帝であろうとも、時代は下り、その間に、この国はあまりに腐敗しすぎた。帝が傀儡となっている国などあってよいわけがない。

「あの首はそろそろすげかえないとならないかもねぇ……。父上じゃなく、俺が」

 船縁に肘つき、独り言のように呟いた颯音に、それは見ものだ、と薫衣は澄んだ笑い声を立てた。
 追い風が吹いて、舟は速度を速める。






「ここになります」

 牢の最奥に連れて行かれ、桜は中に放り込まれる。暁、という名の青年は木格子を閉め、錠をかけた。ちらりと桜を一瞥してから彼は無言できびすを返し、下駄音を鳴らしながら短い廊下を歩いていく。
 男の手にあった蜜蝋の火が吹き消され、完全に暗闇となった室内で、最後に入り口の扉が重々しい音を立てて閉められた。桜は湿った床から身を起こすと、あたりを見回す。試しにはめ込まれた格子を揺さぶってみるが、手ごたえはやはりない。
 背後を振り返り、どこか逃げ道はないかと探してみる。けれどそびえる壁は厚く、高い位置に空気口のような窓がひとつあるだけだ。あそこまでよじ登るのは無理そうであるし、そもそものところであの小ささでは桜は通り抜けることができない。逃げることはどうやらできなそうだ。桜は嘆息し、抱えた膝に顔を乗せた。ゆるゆると眸を瞑る。どうしてだろう。胸が痛んで、悲しくてたまらなかった。




 灰色の空は赤黒い夕焼けに染まりながら、宵時を迎えようとしている。雪瀬は濡れ縁の上に腰掛け、放り出した足をぶらぶらさせながら、空を眺めていた。ふと思いついて手の中の折鶴をひょいと夕空に投げる。受け止めて、また投げる。投げては、また受け止める。そんなことを繰り返していると、

「暇人」

 ぴしゃりとした突っ込みが降った。一緒に宙に投げられた折鶴を微風が吹いて絡めとる。折鶴は風に乗って垣根から現れた青年の手のひらへと落とされた。

「――とんないでよひとのもん」

 ぽそりと呟けば、苦笑とともに折鶴を投げて返される。それを空中でつかみ取り、雪瀬は顔を上げた。ぱっと表情が明るいものへ変わる。

「おかえり、颯音兄」

 思ったより早いご帰還でしたねぇ?と笑みを含ませた声で雪瀬は続けた。対する颯音はあまり楽しげといった様子でもない。

「あのねぇ、ほんとは毬街でゆっくりしてきたかったんだよ。せっかくだから薫ちゃんと異国船見物でもしようと思っていたのに」
「あー薫ちゃんとね」
「そう、薫ちゃんと。ふたりで」

 意味深に言ったものの、逆に開け広げに胸を張って返されてしまった。颯音は手に抱えた荷物を置いて、雪瀬の隣に腰を下ろす。
 朝廷へ参内していた兄は実にひと月ぶりの帰還であった。陸路が六日に水路が三日。東の果ての葛ヶ原と都のある紫苑(しぞの)はそれほどに離れているのである。

「ね、ね。都はどうだった?」

 雪瀬は年相応の好奇心をよぎらせて、久方ぶりに顔をあわせる兄をひょいとのぞきこむ。

「都―? あぁお酒がまずかった」
「……へぇ」

 兄から返ってきた答えは存外そっけなく、雪瀬は肩透かしを食らってふぅんと言った。お酒ねぇ。

「そういえば、中央の脱走兵、お前が捕まえたんだってね」
「あー、ひとりはね」

 もうひとりは八代が殺めてしまったので、そう答えると、「まったく困ったものだね。父さんも」と颯音が苦笑まじりに呟いた。膝に頬杖をついて、兄は庭に咲く花々を眺める。

「一門の長であり、領主でもあるひとが昼から遊郭遊びにふけって中央の使者の相手もできない。これじゃあ示しがつかないな」

 思うところはあったものの、雪瀬は沈黙を守って兄の横顔を見つめた。

「あのひとにこの地は少し手に余る。そしてね。ひと月あちらに行って確信した。あの帝にも、どうやらこの国は手に余っているらしい」
「――なら、別の誰かが治めればいい」

 ひとつ瞬きをした兄から目をそらし、雪瀬は手の中で弄んでいた折鶴を濡れ縁に置いた。はずみに勢いをつけて立ち上がる。風がさっと駆け抜けた。

「帝に勝る大器を持った別の誰かが。そう思わない、颯音兄?」

 雪瀬は颯音を振り返った。濃い陰影が濡れ縁に落ちる。兄の表情は暗がりでよく見えない。

「……さぁて、何のことだか」
「またまたとぼけるんだからさ」

 肩をすくめ、されどそれ以上は言い募らず、雪瀬は軒に背を預けた。都かぁと呟いて暗くなり始めた空を仰ぐ。

「そろそろ、彼女を引き取る都の使いが来る頃かな」
「あぁ黒髪に緋色の。老帝のとこの子か」
「そう老帝の。――颯音兄。人形とひとの違いはなんだと思う」

 ふと問いを投げかけると、また抽象的な話をするねと兄は呟いた。身じろぎをして濃茶の眸に夕陽の色を映す。

「人形屋空蝉は、衰えのあるなしだと語った。心のあるなしというひともいる」
「だけど、彼女は心を持っている」

 続けられた言葉に颯音はひとつ眸を瞬かせた。やがて剣呑そうにそれを眇める。

「……そうやってすぐ情に囚われる」

 別に、と言いたかったのだがその前に「ひとつだけ」と釘を刺されるように眼前に指を突きつけられた。
 
「お前が何をしたって構わないけど、俺たちに迷惑はかけないよううまーくやってね。これ兄からの忠告」
「……オオセノトオリ」

 まったく相変わらず抜け目がない。雪瀬は苦笑し、手の中の折鶴を握り締めた。
 
 兄と別れると雪瀬は折鶴を空へ向けてひときわ高く放り投げる。

「あーおぎ」

 呼び声に答えたかのごとく強い風が吹いた。回転した折鶴が様相を変え、ふわりと羽をはためかせながら、一羽の白鷺に変わる。ぱちくりと黒目がちの眸を瞬かせ、おあ!?と扇は叫び声を上げた。

「ここどこだ!? ってか桜はどうした。あいつどうなったんだ!?」
「あーうん、なんかもう果てしなく時間軸ずれてる扇」

 そこは冷静な突っ込みを入れておき、雪瀬は腕に止まった白鷺の頭をぽんと叩いた。

「扇。名誉挽回。――おつかい、頼まれてくれる?」