二章、花信風に呼ばれて
七、
空気口から射し込む陽光が絶えたことで、牢の中は暗闇に包まれ、いよいよ寒々しくなってきた。春といえど、宵口あたりになると温度は急激に下がってしまう。桜は壁に背を預けると、小さく丸まって冷えゆく身体からなんとか熱が逃げないようにした。
先ほどは頻繁にやってきた看守はかれこれ半時ほど姿を見せていなかった。いつもそうなのだ。宵に近いこの時間、彼らはしばらくの間席を外してしまうらしい。そうして戻ってきた看守は、前の看守と顔が違っているから、たぶんこのあたりの時間に当番の交代が行われているんだろうと思う。ただしそんなことがわかったところで、錠をかけられていれば逃げようがないのだけども。
と、それまで閉め切られていた扉がおもむろに開かれた。新しい看守のひとだろうか、と思ってさして目も向けずにいれば、
「相変わらずここはかび臭いな」
舌打ち混じりの低い囁きが狭い座敷牢にこだまする。聞き覚えのある声にぎくりとして顔を上げると、暗闇から光が射した。円い光が掲げられる。桜は眩しげに目を細め、遅れてそれが蜜蝋の炎であることを理解した。手燭を持った男は部屋の中に入ってくると、桜の入れられている牢の前に膝をつく。こちらをとっくり眺め、ぽつりとおとなしいものだな、と呟いた。
橘八代だった。脱走兵のこともあり、このひとを前にするとあまりよい気持ちにはなれず、桜がつい顔を伏せてしまうと、八代はふんとつまらなそうに鼻を鳴らして頭をかいた。
「こんな言葉もろくに話せぬ幼い娘を抱いて何が楽しいのだか。――おい、人形。まもなく朝廷の手の者が到着するようだが、ゆめゆめこの家の誰それにかくまわれていたなどと余計なことを口にするなよ」
脅しじみた低い囁きが落ちる。桜はうなずくことも、反対に首を振ることもしなかったが、八代はそれきり興味をなくした様子で腰を上げた。まったくあいつは面倒ごとばかりをつれてくる、とごちりながらきびすを返す。薄闇の中、丸い光は徐々に遠のき、扉が閉まる音とともに光も消えた。
口にするな、と言われても、そもそも桜は老帝と話したことなどないので栓のない忠告だった。かのひとの声すら桜はほとんど聞いたことがない。ただ寝所にはべるだけだ。女官ともほとんど話したことはない。あそこに桜と言葉を交わすひとはいない。交わしたいと、思うひともおそらくいないに違いない。
「……イタ、イ」
ぎゅっと心臓を鷲づかみにされたようだった。桜は左胸に手をあて、抱えた膝に顔をうずめる。そうか、とふと思い至る。もう誰かと言葉を交わしあったり、外に出かけたりはできなくなるんだ。視界いっぱいの青い空を仰いだり、風の音を聞いたり、草木の匂い、花の香、土の匂い、それらを嗅ぐことも、見ることも、触れることもできなくなるんだ。二度と、二度と、できないんだ。ただ、もとの生活に戻るだけであるはずなのに、この手からこぼれ落ちたものはひどくかけがえのない大切なものばかりであるような気がした。ぎゅっと胸が痛む。くるしい、と桜は思った。
「――おい」
そのとき、頭上からひそやかに、けれど確かに呼び声がかかった。桜は身じろぎする。八代が戻ってきたのだろうか。しかし、部屋の扉は彼が出て行ってから閉められたままだ。声のぬしを探すようにして首をめぐらせると、ちょうど部屋の空気口あたりからのぞいている嘴がひとつ。――なんだろう、あれ。少しいぶかしげに眉をひそめていると、けたたましい羽音とともに空気口から白鷺が頭を出した。
「ちっ、雪瀬の奴、こんな場所なら鼠でも使いやがれ」
ここにはいない相手に悪態をつきつつ、白鷺は空気口からこちらへと舞い降りてきた。思いもよらぬ侵入者に、桜はただただ驚いてしまい、「あおぎ?」と尋ねる。この前殴ったときに彼は折鶴だけを残して消えてしまったので。死んでしまったのだとばかり思っていたのだ。
「ああ。ほらよ」
白鷺は頭を地にぬかづくようにして首に掛けられていた巾着を桜へと示した。だが白鷺の意図が汲み取れず、桜は小首をかしげる。お辞儀する白鷺という珍妙な姿をまじまじと見つめていると、
「取れって言ってるだろうが」
と苛立たしげに命じられた。言ってはいないのに、と内心反論しつつ、桜は白鷺の首から巾着袋を取り去る。
「……これ、」
何?という意味をこめた視線を向ければ、白鷺は「自分で開けろ」と顔をそらしてしまう。仕方なく桜は手元へ目を戻した。花柄の、可愛らしい巾着だ。けれど見た目に反して、かなり重い。中にはいったい何が入っているというのだろう。それは差し出された食べ物の匂いを嗅ぎ分ける小動物さながら、巾着をじっと眺め回してみてから、桜はおもむろに紐を解いて袋の口を開く。
「……あ」
中から出てきたのは、無骨な銃だった。あのとき雪瀬に取られて、そのままになっていたものである。
「これ、雪瀬、」
「知らん。そのくらい自分で考えろ。俺は教えてやる気などないからな」
言葉半ばで遮るように言われて、説明を期待していた桜は肩を落とす。とはいえ、雪瀬に取られたもので、それを扇が持ってきた以上、さすがの桜とて少し考えれば想像もつく。つまり、この巾着の送り主は雪瀬なのだろう。けれど、どうして? 何故今さら桜に銃を返す必要があるのだろうか。
わからず、教えて教えてとせがむように扇をじっと見つめれば、彼はそんな目で見るなとばかりにそっぽを向いた。畳んでいた羽を広げ、空へ舞い上がると、扇は空気口に爪をひっかけ、不意にこちらを振り返る。
「お前のしたいようにしろ。――というのが我があるじの意向だ。俺もあいつも何もできない娘を助けてやるほど優しくはないからな」
ぴしゃりと言い捨てると、扇は空気口へ頭を突っ込んだ。
「む……やはり狭っ、ぐ…くるし…」
羽をばたつかせながらもごもごと呻き、白い肢体は半ば無理やり空気口に消えていく。ひらりと夜闇をひとひらの羽根が舞う。それがゆっくりと地につく頃には、白鷺の姿はなくなっていた。
桜は残された羽根を拾い上げ、ひとつ目を瞬かせる。
突然。あまりにも唐突に。暗闇からひとひら、落とされた希望だった。光。救いの手。
どうしよう、と思った。彼が信じるに足る人間なのか、桜にはいまいち判別がつかない。もしかしたらまた手ひどく裏切られてしまうかもしれない。けれど、ここで何もしないよりはきっといいはずだから。大丈夫、今の桜は失うようなものは何も持っていない。だから歩いていける。大丈夫。
桜は銃を握り締めると、目の前の錠を見据えて引き金を引いた。
*
月は天頂から西へと傾き始めている。牢から抜け出た桜は関所へと続く坂道を駆け下りていた。途中までならば、この前歩いた道なので覚えている。道はちょうど林間へと達し、背の高い木々の梢からさやかなる月光が射す。時折吹きつける風が枝をしならせ、木擦れをさざめかせた。うっすらとたなびき始めた夜霧が視界を見えにくくする。
提灯もない道はひどく暗い。加えて霧も出ているとなれば、見通しは悪いことこの上なく。逃げるのに都合がよいのかもしれないが、けれど追っ手がこちらからも見えないという点も考えると、どちらがよいのかわからなかった。
都から訪れる予定であったという使いのひとたちはもう宗家についたのだろうか。牢がもぬけのからだったとなれば、かなりの騒ぎになっているに違いない。橘のひとたち、雪瀬や扇に何か悪いことが起こってしまわないといいのだが。そんな風につらつらとよその心配をしていると、霧からぼんやりと淡い光が射し込んだ。とたん、桜は心臓が跳ね上がる。足を止め、そちらを注視すれば、ちょうど何人かの男たちが連れ立って歩いている姿が見えた。
「いたか」
「いや、こちらにはいない」
短い言葉が交わされあう。
霧のせいであちらはまだ桜には気づいていないようだったけれど、このままでは遅かれ早かれ視界に入ってしまうだろう。
どうしよう。どうしよう。
考えあぐね、桜は道の真ん中で立ち往生してしまう。
霧の中で朧に円心を描いていた光が、ゆっくり左から右へ、桜がたたずむほうへと投げかけられる。桜は身をすくめた。刹那、背後から伸びた手が桜の腕をつかみ、茂みの中へと引きずり込む。
「や、……」
思わず声を上げようとすれば、「しー」と口元に人差し指を当てられた。しゃがみこみ、背中から抱きしめられるようにされて、桜は身じろぎできなくなってしまう。
「――誰かいるのか?」
先ほどの音でこちらに気づいてしまったらしい。男の声に伴い、提灯の光がこちらのほうへと向けられた。頭上を一条の光が射し込む。桜の口元にあてがっていた指をすっと離すと、そのひとは誰がしかに合図でもするように立てた指を折った。
それを見取ったのか、茂みから勢いよく白鷺が飛び出る。うわっ、と叫び声を上げた男たちの頭上を旋回するようにしてから、反対の茂みへと飛び込んだ。
「……なんだ、鳥か」
落胆混じりに呟き、男はこちらへ掲げていた提灯を下ろした。行くぞ、と残りのふたりを促す。桜は息をひそめながら、遠ざかっていく足音を聞いた。
「間一髪―。どきどきした」
男たちの姿が完全に見えなくなってしまうと、雪瀬は桜から身体を離して腰を上げる。
「本当だ。まったく肝が冷やされた」
ぶつくさ文句を返しながら、白鷺が体面の茂みから出てくる。差し伸ばされた雪瀬の腕にごく自然な感じで止まると、きっと桜に向き直った。
「おいお前な! 俺が見つけるのがもう少し遅かったら、捕まってたんだからな!」
「……んと。うん?」
だが、桜はいまだ何が起こっているのかも、どうしてここにふたりがいるのかもよくわからない。しゃがみこんだままの姿勢でただただふたりの姿を仰いでいれば、何がおかしかったんだろう、雪瀬が小さく吹き出した。
「えらいえらい、ちゃんと自分で出てきたんだ」
親が子供にするみたいにくしゃりと頭を撫ぜられる。こそばゆいような、くすぐったいような感覚に目を細め、でもやっぱりこのひとの思惑がよくわからなくて桜はじぃっと雪瀬の顔を見つめた。
だって桜を牢に入れるようにって言ったのは雪瀬なのに。……でも銃を返してくれたのもまた雪瀬だ。んん、と桜の思考はすぐに混乱をきたしてしまう。彼はいったい何がしたいというんだろう。困惑がちな桜の表情に気づいたのか、「だからちゃーんと言ったじゃん」と雪瀬はさもおかしそうに笑った。
「“嘘は自分で見抜かないと”って」
「うそ?」
桜はひとつ眸を瞬かせる。その意味を考えているうちに、雪瀬は茂みから出て、木刀を肩に担ぎながらこちらを振り返った。
「さくら」
澄んだ声が桜を呼び、まっすぐに手を差し伸ばされる。月明かりの下、その手は淡い光をまとっているようにすら見えた。ためらってから桜は、そ、と雪瀬の手に自分の手のひらを重ねる。少し冷たい手のひらは重ねると、軽く握り返してくれた。今まで胸に疼いていた痛みがふわと溶ける。目を瞬かせ、桜は繋がれた手を見つめた。なんだかとても大切なもののように思えた。
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