二章、花信風に呼ばれて



 八、


 一刻ほど夜闇を走り、さすがに息も切れてきた頃、夜闇の中を篝火の明かりがぽつりぽつりと浮かんでいるのが微かに見えてきた。
 西の、毬街へと通じる関所である。篝火の明かりに照らされて、槍を抱えて立ち並ぶ数人の衛兵の姿が見えた。その奥にたたずむのは、桜の身長の数倍はありそうな大門。少し離れた草むらの中で雪瀬と桜、それから扇はあたりの様子をうかがう。

「ひと、少ない……」

 あくまでも大きさの割りに、という意味だが。都の大門などはもっとたくさんの警備のひとがいたので、ここも変わりはないのかなと思っていた。桜がほっと安堵の息をつけば、「今こっちもちょうど交代時間だからね」と雪瀬がうなずく。

「さて、どうしたもんか」
「あの数なら正面突破できるんじゃないか?」
「うーん、どうかな。それにあくまでもこっそり逃がさなきゃ意味ないでしょ」
 
 助言してきた白鷺にあまり色がよいとは言えない返事を返し、雪瀬は関所の門に立つ衛兵たちへ目をやる。

「ひの、ふの、三人かー。……ねぇ、扇さん」
「嫌だ」
「そう言わずにさ。もう乗りかかった船じゃん」
「もとより乗っていない」
「それは違うね。俺が乗ってるんだから、強制的に扇も乗ってるんだよ」

 ひどく身勝手な言い草をさもまっとうそうに言い放ち、雪瀬は「というわけで、よろしく扇っ」と白鷺の背を叩くようにする。ちくしょう、と扇はもはや無意味になってきた悪態をつき、飛び立った。草むらから出て行くと、一直線に大門へと向かい、そこでぼんやり番をしていた衛兵のひとりへと飛びかかる。

「う、っわ……、なんだ、」
「おい、どうした?」
「へ、変な鳥がっ」

 衛兵が必死に追い払おうとするが、扇はたくみに男の手をかわしながら追撃をやめようとしない。あたりはちょっとした騒ぎになり、しまいには衛兵のひとりが槍を持ち出してくる始末。白鷺と必死に格闘する衛兵たちを見やると、

「よし、行こ。桜」

 雪瀬は草むらから立ち上がる。わたわたと腰を上げて、桜も少年の背を追おうとした。

「――ん? っと、待て雪瀬っ」

 だが、ふと衛兵たちとやりあっていた扇が何がしかに気づいた様子で声を上ずらせる。瞬間、背後にぞわりとした気配を感じて、桜は後ろを振り返った。
 ひゅ、と風切音とともに目の前を太刀が薙ぐ。あ、と声を上げる暇もなかった。襲い掛かる刀に桜は目をつむった。


「……仕損じたか。心臓を狙ったというのに」

 ぱたり、ぱたりと鮮血が足元に落ちる。激痛で覚束ない意識の端で、男の嘲笑するような声が耳をこだました。肩を貫いた刀を引き抜かれれば、意思に反して身体がぐらりと重心をなくす。崩れゆく視界で見えたのは刀を握った橘八代の姿だった。こちらを一瞥もせず、八代は刀身についた血を払い、鞘へと戻す。地面に崩折れかけるも、その前におもむろに背後から差し伸ばされた腕が桜の身体を支えた。腰に腕を回し、すいと引き寄せられる。
 
「――雪瀬」

 腕のぬしへと八代は冷厳とした視線を向けた。その眸がつぅと眇められる。

「やはり、俺を裏切るか」
「その言い方はおかしい。だってはなから俺、あなたに従ってないもん」

 返されたのは八代とは異なる、いたって軽やかなる声だった。雪瀬は流れるような、澱みのない所作で木刀の切っ先を八代へ向ける。桜はもちろん知らなかったが、それは刀を扱う者ならではの綺麗な動作だった。八代は口元に哄笑を滲ませた。

「この橘にありながら風術も使えぬ子が俺に勝てるとでも?」
「どうかな。やってみなきゃわからない」
「愚かな」

 吐き捨てるように言うと、八代はすばやく印を組んだ。呪を紡ぎ上げ、印を切る。男の足元を渦巻く風が一陣の烈風となって駆け上り、こちらに差し迫る。雪瀬はそれを目を細めて見やると、袂から何がしかを取り出し、それを空へ放った。ひらりと空を舞うそれは桜には小さな紙切れ――符のように見えた。八代が唱えたのと同じ言葉を今度は少年の澄んだ声が詠唱する。符が細い煙をくゆらせ、空中にかき消える。刹那、空がざわりとうごめき、迫り来る風をはばむ盾のごとき、烈風が生まれた。正面からぶつかりあったふたつの風で大気が、草が、木が、空が、雲が、揺れる。震える。動く。
 ――ふうじゅつし。これが風術師というものなんだ。
 桜が呆然と目の前で繰り広げられる光景を見つめていると、ふと身体を支えてくれていた手が離される。

「きよ、」
「――自分でよけてね」

 桜の言葉を遮るように一方的に命じられたと思ったら、すでに声の主はいない。よける。よけるって何のことだろう。風のことなのかな。
 よくわからぬまま、桜は雪瀬の言葉に従って草むらに身を伏せる。拮抗を続けていた風だったが、八代のほうが威力は上回っているようだ。空気がこすれるような音がしたかと思うと、符によって紡ぎだされた風が四散し、はばむものを失くした豪風が頭上を駆け抜けていった。身体を飛ばされてしまわないよう、草をぎゅっと握り締める。背後で大門が破られるに至り、その威力に桜は息を呑む。
 雪瀬は……、雪瀬はどこに行ってしまったんだろう。大丈夫だよね、巻き込まれたりしてないよね、と少年の影を探してあたりへ視線を彷徨わせていると、さらに呪を詠唱しかけていた八代がはっとした様子で印を解く。携えた刀の柄に手を伸ばした。けれど、そのあとを桜の目が追いきれないうちに、刀を抜こうとしていた八代の動きを封じるように木刀が突き出される。ひたりと、男の首元へと木刀の切っ先があてがわれた。

「ほら。やってみなきゃわからなかった」
「――なんだ、さっきのは」

 八代は舌打ちし、視線を打ち抜かれた大門へと向ける。

「ちょっとした裏技デス」

 煙をまくような答え方をすると、雪瀬はすっと八代から木刀を離す。

「扇!」

 こくりと上空の白鷺がわずかに首を下げる様子が桜にも見えた。黒い玉のようなものが落下する。雪瀬が言葉みじかに先ほどの呪を唱え、符を放った。何かの栓が抜かれるような音が打ち鳴る。間髪いれず、白い煙がぶわりと広がり視界を覆った。




 引き倒された篝火が地面でぱちぱちと火を燻らせている。すえたような独特の匂いがあたりに充満していた。 
 もう“よける”必要はなさそうだ。考えて草むらから身を起こしたはずみ、桜は足をもつれさせて前へ転びかけてしまう。それを脇から伸びた手がひょいとつかんだ。

「雪瀬、」
「さっきはよくよけました。――歩ける?」

 桜がこくんとうなずくと、雪瀬は「そう」と言って桜の手を引いて歩き出した。視界はいまだ白煙に覆われ、少し先すら見えない。

「……これ」
「煙玉。お伽草紙で忍者とかが使ってるやつ。で、さっき符を投げたでしょ? あれ使って風出して範囲を拡大。するとこうなる」

 四方八方にかかった煙を指差し、雪瀬が答えた。

「昔、面白半分で透一と作ったんだけどさ。まさかこんなところで役に立つとは思わなかった」

 と、そこで言葉を切って、「扇、門どっち?」と雪瀬は肩に止まった白鷺に問う。白鷺は音もなく雪瀬の肩から離れ、ほんの少し先を誘導するように飛ぶ。こちらの手を引き、雪瀬は不意打ちで烈風と煙玉を喰らって混乱気味の衛兵たちの間を縫うように抜けていった。穴の開いた大門の前に立つと、雪瀬はその隣にちょこんと据えられた扉を開ける。

「裏口でごめんね。はい、どーぞ」

 開かれた扉の先にあるのは、月光降り注ぐ草の海とその中を伸びる一本の道だった。たどれば、毬街へと続こう。月光に淡く照らされた道を見つめてから、桜はほんの少しためらうように地面に目を落とす。すぐそばの少年の袖端をつと握りこんだ。

「――……桜?」

 意味を図りかねたようにこちらを見返してくる少年と寸秒視線を絡め、桜は口を開いた。けれど言葉を紡ぎ出す前に眉根を寄せて首を振る。伝えたいこと、あるのに。何と言ったらいいのかがわからないのだ。俯いてしまった桜へ見て、雪瀬は何か考え込むようにしばし沈黙した。おもむろに頭に手が伸びて、くしゃくしゃと二三度撫ぜられる。

「平気?」
「……ん」
「毬街についたら、瀬々木って医者探すといい。きっと力になってくれる」

 そう言うと、雪瀬は桜の首に「通行手形」と言って木でできた鈴に紐を通したものをかけた。髪についた枯れ草を指でつまんで払われる。その手が完全に離れてしまう前に、桜は雪瀬の袖をぎゅっとつかんだ。

「あ、の。どう……、『どういたしまして』?」
「……んー、たぶんそれ『ありがとう』の間違いじゃないかなぁ」
「ありがとう?」
「どういたしまして?」
「ありがとう」
「いえいえ」

 微笑む少年につられて、桜も小さく微笑い返す。まるで固い蕾が咲き綻ぶように、自然、笑みがこぼれた。淡くて、淡くて、それはすぐに消えてしまったけれど。桜ははじめて。ちゃんと微笑うことができた。
 白煙が緩やかに消えてゆく。
 桜は雪瀬の袖端から五指を離し、扉の外へと足を踏み出した。ほんの少し名残惜しむように雪瀬を振り返って、もう一度「ありがとう」を口にする。あとはもう振り返ることはなかった。