二章、花信風に呼ばれて
九、
少女の影が篝火の届かぬ闇へとすっかり溶け込んでしまうと、雪瀬は大穴の開いた門に身をもたせかけて、はーと大きく息をつく。うまくやれと兄に言われたのに。結局父親に見つかってしまったではないですか。
どうしよう、とこれから立ち起こるであろう面倒ごとに少し辟易とした気分になりつつ、雪瀬は別れ際の少女の表情を思い出して失笑する。
――正直びっくり、した。
彼女が急に微笑ったから。とてもしあわせそうで、そのくせどこか悲しそうで、月光に照らされながらひっそり花のように微笑む少女はなんだか儚くて、ほんの少しの間、目を奪われた。
「――さま、雪瀬さま!」
「はひ!?」
突然衛兵が眼前に顔を出し、雪瀬は裏返った声とともにぱっと顔を上げた。
「どどどどどうしましょうっ、大門に大きな穴が……っ。さらにそのあと視界を謎の煙が覆い、……いやその前に変な鳥も出てきたか……えと、もう何が何やら」
「……あーうん、なんだろうねーどうしちゃったんだろうねー」
困り果てて首をひねる衛兵にあれこれ説明をするのも面倒で、雪瀬は間延びした声を返す。
「おい雪瀬! あの夜伽をどこへやった!?」
そこへ少し離れた草むらから怒声を上げながら八代が歩いてくる。あたりに桜らしい人影がないのを見取ると、八代はみるみる怒りに顔を染めた。
「お前はまた……! 夜伽をかくまった上、あまつさえ橘一族の者が逃亡に手を貸すなど、言語道断! 勅使さまになんと報告すればよいのだ!? その罪、死罪に値するぞ!?」
「あーはいはい、説教ならあとで聞く。何なら縄でも持ってきたら」
両手首を胸の前で合わせてみせると、八代は不快感をあらわに舌打ちした。
「ったくどうしてこんなのが俺の子に生まれたのか……」
「さぁね。過去の自分に聞きなよ」
雪瀬は肩をすくめ、腰を上げた。木刀を拾おうと振り返り、ふと地面に落ちた血痕が目に入る。ひとつ、ふたつと残る血の痕。おそらく彼女が落としていったものだ。
思えば、あんな怪我をして彼女はこれからどうするつもりなのだろう。どこに行くつもりなんだろう。帰る場所なんてどこにもないのに、一生追いかけられて傷だらけになってまで。――生きるのか、と考え、生きるんだろう、とすぐに答えを出した。
かがみこんで血痕を指先でなぞり、雪瀬は大きくため息をつく。
あぁこの先は絶対自分の領分じゃないのに、と思った。そうわかっているのに、胸を叩かれるのは何故なんだろう。惹かれた、とか焦がれる、とかいう積極的な感情には到底足り得ないけれど、ただ失うには惜しいと。そう思う。
地面に座り込んだまま、動かなくなってしまった雪瀬に、「おい?」といぶかしげな様子で八代が声をかける。雪瀬は嘆息をした。自分というものに嘆息をして立ち上がった。
「扇」
おいで、と雪瀬は上空を仰いで、そこにとどまる白鷺へと呼び声をかける。白鷺の姿が空から陽炎のごとく揺らめいて消え、ぱっと目の前へと現れる。それを腕に留まらせ、雪瀬は迷いのない足取りで開け放たれた扉へと向かう。
「何を……、」
「死罪は勘弁だから、やっぱり逃げることにしました俺」
さすがに八代とてこれは予想外の言葉であったのだろう。驚愕の表情で目を見開く。……それはそうだ。雪瀬だってこんなことをするつもりなどまったくなかったのだから。
「十五年育ててくれて“ありがとう”。颯音兄に後始末よろしくって言っておいて」
「おい、そんなことが許されると、」
「それじゃあ、お元気で。――父さん?」
「っこの馬鹿息子が!」
男の顔が赤を通り越して土気色に染まった。印を組んだ八代が呪詞を唱える前に雪瀬は扇を放すと、扉を閉める。目の前に一筋の道が伸びていた。追っ手はすぐにかかるだろうが、それはあちらに残してきた扇が適当に蹴散らしてくれるだろう。よし、と思って雪瀬は一歩を。暗闇に向けてはじめの一歩を。軽やかに踏み出した。
*
夜が明けようとしていた。
明るみ始めた淡い蒼の空から星は消え、白い月は雲の彼方へ流される。乳白色の朝もやが立ち上る草原を春風が吹く。細く、細く雲の合間から光が射し込み始めていた。
名を呼ばれ、ひとり道を歩いていた少女はつと足を止める。振り返り声のぬしを認めると、彼女は驚いたように目を瞬かせた。たどたどしい言葉が二言三言交わされ、少女がふるふる首を振り、少年がそれに応えて苦笑する。泣き出した少女の頭を撫ぜて、彼はそっと手を差し出した。ほんの少しためらうようにしてから、ぎこちない所作で少女はその手をとる。大切そうに、かけがえのないもののように彼女はそれを握り締めて。
――そう、たとえばこんな風に。
ひとひらの花と風の物語は幕開く。
2008/1/18(修正)
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