三章、双樹と猫
一、
この国の最高権力者であらせられる老帝は、このところひどく寝つきが悪い。
理由は単純明快。かのひとお気に入りの血色の眸をした人形が返ってこないからだ。幾人の女が呼び寄せられたが、老帝はいやいやと首を振り一人の女の名を口にするばかり。
「――我が君」
老帝のかたわらに控える黒衣の男は少し身をかがめると、かのひとの耳元へ口を寄せ、そっと囁きを落とした。
「残念ながら、彼女はもうここへは戻ってはきませぬ。決して。他の者が拾い上げてしまいましたゆえな」
その甘やかなる声はひとの心を麻痺させ、じんわりと意思というものを絡み取っていく。老帝は眸を茫洋とさせ、それは誰じゃとのたまう。お知りになりたいですか、と男が問い、いや、と老帝は首を振った。
代わりに老帝は告げる。神聖なる詔をもってして。
それを殺せ。殺せ、殺せ、その者を殺せ。そう戯れごとのように呟いた。
その日のうちに橘雪瀬は夜伽逃亡の共犯者から夜伽略奪犯へと格上げされて、――つまりはたいそうな肩書きの罪人になってしまった。
*
人形屋・空蝉(うつせみ)のもとにひとりの来客が現れたのは、その幾日かあとのことだった。
「用件は?」
店の暖簾をしまいながら、店主が尋ねる。
「せっかちなひとね。久しぶりに訪ねてやったというのに、挨拶の一言もないの?」
女は苦笑し、中央紋の染め抜かれた羽織を脱ぐと、店の外に置いてある縁台に座り込む。わずかな所作に伴って結い上げられた黒髪を飾る簪がしゃらんと揺れた。
少しばかり気の強そうなところはあれど、ひどく美しい面立ちをした少女だ。歳は十七、だったろうか。花筏の織り込まれた深藍の振袖からのぞく肌は透き通るように白く、後れ毛のほつれたうなじはしっとりした色香を匂わせる。長い睫毛が物憂げに伏せられれば、えもしれぬ情欲を男に抱かせた。
「夜伽人形をひとり探しているの」
女は衿元から出した布を首筋にあてながら、独語めいた呟きを漏らした。
「人形? 俺のか?」
「ええ。十三年前、あなたが拾った屍で造った鵺鳥(ぬえどり)よ。――今は散り逝く薄紅の名を持っている」
女の切れ長の黒眸に映されるのは、一本の『桜』の朽ち樹。
さくら。老帝の寵愛深き人形の名前か。
「ふん、覚えがないな」
彼女の視線の先をたどり、男は首をすくめた。盆を持って外に出、彼女の前になじみの桜湯を置く。柏の葉でくるまれた餅を一緒に出し、自分も隣に胡坐(あぐら)をかいて座った。
「あなたは嘘吐きね」
女は底の知れぬ微笑い方をし、睫毛を伏せて桜湯に楚々と口をつける。違いねぇ、と墨染めの衣を振って男は剃髪した自分の頭を撫ぜた。これといって特徴のない容貌の中で唯一異彩を放つ淡紫の片眸をすがめ、「それで」と話を促す。
「世間知らずのこのわたくしめに教えてくだせぇよ。その“散り逝く薄紅”がどうしたんだって?」
「三月ほど前に後宮から逃げ出したの。一度葛ヶ原で捕えられたのだけど、そこで手を貸した者がいてね、また逃げ出した」
「ほぅ」
「居場所、あなたなら知ってるんじゃないかと思ったんだけど」
「だから心当たりがねぇっての。ご期待に沿えず残念無念。――なんだ、その夜伽ひとりのために月詠配下のお前が出向いてきたのか?」
呆れた口調で呟けば、「どこぞの人形屋がいつまでたっても参内しないからでしょう」と女が意地悪く答える。
面倒ごとを押し付けられちゃあたまらねぇからな、と空蝉は大口を開けて柏餅にかぶりついた。
「不肖人形屋空蝉、この手が生み出すのは最高級・高品質の人形、ただそれだけだ。世にふたつとない美しさは保障するが、買ったあとの行動まではこちらの知った話じゃねぇ」
「ずいぶんと薄情な人形屋もいたものね」
「薄情にあらず。仕事方針とやらだ」
「なら、その仕事をなさいと言っているのよ」
湿気を含んだ夕風がかき乱す黒髪を気だるげにかきやって、女は空蝉へと少し咎めるような視線をやった。月詠配下――中央の占術師の側近であるところの十人衆・氷鏡藍(ひかがみ あい)。それが彼女の肩書きであり、名前だ。
「いい女がシゴトシゴトとつれないねぇ」
うそぶいてみせた空蝉に、藍は無言で二つに折った書状を渡した。
中央の黒印が入った密書だ。帝じきじきのお達し。なんとも仰々しいことだな、と男はひゅうと口笛を吹く。
「消えた夜伽の捜索、そして略奪犯・橘雪瀬の始末。それが今回貴方に与えられた命(めい)よ」
「だからよぅ、俺はひと探しも殺し屋も開業した覚えねぇっての」
「あらあら? 従う気がないと仰る?」
藍はふっと花色の唇に薄い冷笑を浮かべた。なまじ容貌が美しいだけに、その能面のような微笑は妖艶で、見るものをぞっとさせる。
「それならお前はもはや用無し、ということ。月詠さまはあなたの力を“取り上げる”所存」
「は、おっかねぇことを言う」
空蝉は短い首をすくめ、いそいそと茶で柏餅を流し込んだ。
無論、この女が月詠の名を出した以上、冗談ではあるまい。面倒ごとを引き受けちまったな、と空蝉は舌打ちし、密書を指で弾いた。懐に入れ、それで了承の意を示す。
「――で? そのタチバナなんとかっていうのは?」
「橘雪瀬。あの橘一族の第二子よ」
「あぁ葛ヶ原の橘か。長男が有名だな」
確か長男のほうは橘颯音といったか。まだ二十にも満たない青年だが、すでにその名は国中に知れ渡り、誰もがあの天才風術師、と憧憬の念を向ける。それに兄弟がいるという話は聞いたことがあっただろうか。あまり定かではない。とにかく、空蝉には初耳の名だった。
「ふぅむ。兄がすげぇとその弟ってのは出来が悪いと相場も決まってるからな。ああちくしょう、面倒くせぇ。その橘弟の特徴は?」
「濃茶の髪に濃茶の眸。歳は十五ほど」
「他には?」
「……特にないわね」
「おいおいおいおい、茶髪の十五歳がこの国にどんだけいると思ってんだお前らは!」
憤りを通り越してもはや呆れ果て、空蝉は一度は懐に入れた密書を放り出す。ありえない。そもそも、中央の兵をもってしても捕まえられなかったものを空蝉にどうにかしろというほうがおかしいのだ。無論、そこには空蝉が何人もの有能な人形を持っていることへの期待があるのだろうが、それでも限度というものがある。
「だめだ。この件はもう一度考え直させてくれ」
「あなたにはもう後がないと言ったはずよ。それに何も橘雪瀬のほうを探さなくてもいいでしょう。少なくとも黒髪に緋色の眸の少女はこの国でかなり希少だと思うけれど?」
藍の答えは相変わらず淡然としており、どこかそっけない。
ふんと鼻を鳴らした空蝉を少女はちらと眺め、ほんの寸秒思い悩むような間をおく。それから思い直したようにその耳元へ花色の唇を近づけた。
「いいことを教えてあげる。彼はね、あなたと“同類”よ」
「同類?」
「そう。これで幾分見つけやすくなったでしょう。――……彼をはやく、ころして」
その声に混じった切実な響きをどう読み解けばよかったのか。
空蝉は眉をひそめ、少女を見やる。そのときには彼女はすでに視線を外しており、その表情はうかがいしれない。――もしや件の少年を見知っているのだろうか。そういえば、この娘、以前葛ヶ原に身を寄せていたという噂を耳に挟んだこともある。
空蝉は小さく笑い、立ち上がりかけた女の黒髪をひと房つかみとった。わずらわしげに視線を向けた彼女へにやりと笑い返す。
「思い出した。“薄紅の散り逝く花”だけどよ」
「……なに?」
「そういや十三年前、“これ”と少しばかし似た夜伽を作ったんだった。滅びた村の残骸から拾った屍だ。黒髪に緋の眸、十五ほどで死んだ娘の屍……、藍、お前の顔に少し面影がある」
「あら、奇遇ね。月詠さまもそんなことを仰っていたわ」
「ならば話も早い」
「話?」
「藍。あの人形に真実執着しているのは老帝じゃないぜ? おそらく、――月詠だ」
声をひそめて囁いてきた男を、藍は微か首を傾けるようにして眺める。
「何故……そう思うの?」
「――さぁ。何故だろうな」
空蝉は愉快犯のごとく笑って、「ここからは金でもくれなきゃ教えてあげねーよ」と話を一方的に結んだ。
藍は思案げに長い睫毛を伏せる。それから男の手を髪から振りほどくようにすると、頼んだわよ、とそう言い置いて黒羽織を翻した。中央の染め抜き紋の入った羽織へ残照が射し、白の部分だけがほのかに染まる。
女の背負う花紋を眺めながら、おたがい難儀なことで、と男は自嘲気味に笑った。
「沙羅」
女の姿が完全に視界から消えたあと、空蝉は背後へと声を投げかける。間をおかずひとりの少女が空蝉のかたわらへ控えた。こちらも、月光がごとき銀髪に碧の眸という、先の娘とはまた違った異国情緒漂う美貌を持った少女である。
「しらら視狩りの出番だぜ。橘雪瀬を探せ」
「たちばなきよせ」
「何のことはない。“しらら視”をしらみ潰しに探せばすぐぶち当たる」
それから、と男はにやりと口端を上げた。
「“散り逝く薄紅”も忘れるな」
「わかりました」
話はすでに外で聞いていたのだろうか。少女は短くうなずき、腰を上げた。
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