三章、双樹と猫



 二、


 床の間の土瓶には無造作に色を移ろわせ始めた紫陽花(あじさい)が挿されている。
 “回診中”の札が掛けられた診療所に人気はない。室内は千もの引き出しのついた薬棚からつんとした薬草の香りが漏れ、表の戸口から射し込む昼の陽が三和土に光の波を泳がせた。
 ――静かな、初夏の昼下がりだ。

 ひぁ、と穏やかならぬ声を上げ、桜は脱兎のごとく部屋から飛び出す。離れから診療所へ続く長い廊下を逃げ惑い、しかし突き当たりで右往左往しているうちにあっという間に追いつかれてしまった。いやいやとかぶりを振って、少年の脇をすり抜けようとしたところで首根っこを掴まれる。


「あのさぁ……」

 雪瀬は呆れた様子で息をつき、右手に持った櫛をくるくると回した。

「邪魔だから髪結ぶだけじゃん。まったくどこぞの野良猫ですかあなたは」

 猫、という言い回しが気に入らなかったらしい。桜はとたんに憮然とした表情になり、きゅっと口を引き結ぶ。いやだ、とでもいうようにふるりと首を振った。

「だめ。却下」

 にべもなく突っぱね、雪瀬はやー!と逃げようとした少女の首根っこをひょいと捕まえる。嫌がる少女をなだめすかしてその場に座らせると、雪瀬は彼女の背後に回ってまぁそれでも多少の手加減をしてやりながら、少女の髪に櫛を通した。
 細い髪は櫛を入れれば、絹糸のようにさらりと梳ける。絡まったり引っかかったりすることはほとんどない。それでも何やら嫌そうにきゅっと目を瞑っている少女を眺めやり、

「別にそれほどの痛さでもなかろうに」

 と雪瀬は肩をすくめた。対する少女は意固地になっている様子で口を引き結んだまま、目を開けようともしない。ささやかな抵抗とばかりに身体には無駄な力が入れられていた。櫛が通しにくい。

 彼女の腰丈ほどある長い黒髪は一本一本が細くすべらかで触り心地がいい。帝もことのほか少女の髪を愛でたという話であったが、けれど当の本人にはどうやらいろいろと手に余るものであるらしかった。結い方がわからないのか、いつも流されたままにされていたし、湯浴みのあとなどは乾かすのにひどく手間取っている。
 加えて近頃暑くなってきたので、長い髪というのはそれだけで邪魔で仕方ないらしい。熱気でとろんとした表情になって髪をぱたぱたと持ち上げている少女を見かねた雪瀬がじゃあ切っちゃおうよ、と小刀を持ち出してきたのが今朝のこと。――が、髪をひと房すくいやったとたん、彼女はそれはもうひどく嫌がった。何と言うか、猫を水浴びさせるときですらここまでは抵抗しないだろうという抵抗ぶりだった。

 仕方なく小刀を櫛に持ち替え、じゃあ髪結ってあげる、それでいいでしょ、と何故か雪瀬のほうが妥協をしてやったのだが、桜はやっぱり嫌でたまらないらしく、櫛を通しているうちにこちらの隙をついて逃げ出してしまう。  こうして、初夏の暑い昼下がりに少女と追いかけっこをするはめになった、というわけだ。

 がちがちに肩を張っている少女を眺め、さぁてどうしたもんかな、と雪瀬は嘆息する。別に面倒だからここでやめてしまってもよいのだけど、それはそれでまた何か悔しい。

「桜桜」

 どうにもうまく結べない髪から一度櫛を離しながら、雪瀬はふと思いついたように少女に声をかける。

「問題です。生まれたときは四本足、そのあとは二本足、最後には三本足になる動物、なーんだ?」
「……?」

 質問が唐突だったからか、桜はきょとんと目を瞬かせ、首を傾げる。
 
「……四本、二本、」

 少女が指を折って大真面目になぞなぞを考え始めた隙に、雪瀬は櫛を口にくわえて桜の長い黒髪を手で梳いてまとめあげる。もういっかい、と桜が振り返ろうとする頃には一本に結った髪を紐でくくってしまっている。

「あ、」
「隙あり。はい、おーしまい」

 雪瀬は朱の飾り紐を手早く蝶々結びにしてとめた。しまいに縮緬の花をかたどった一輪挿しを一緒に挿す。――ちなみに雪瀬のものではない。選んだのは雪瀬の趣味だが、ブツはこの家のあるじのものだ。

「うぅ……?」

 首のあたりがすーすーする感覚が慣れないのか、桜は眉をひそめてうなじに手をあてがう。その頭を軽く撫ぜ、「かわいーかわいー」と雪瀬は幼子をあやす要領で褒めそやした。彼女は手を止め、ひとつ眸を瞬かせたあと、ぱっと頬を染めて顔を伏せる。それは本当に。思わず苦笑してしまうくらい、あまりにも素直に過ぎる表情の移り変わりようで。

「あや、照れちゃった?」
「ち、ちっ…」

 面白くなってからかってやれば、ぶんぶんと一生懸命首を振って返す。すごく困ってしまったらしい。うう、と呻くような声を上げて、目を伏せてしまった少女を見やって雪瀬は小さく吹き出した。言葉や空気はまだかたくななのだけど、それでもふと見せる表情や仕草が彼女といったものを表していて本当に面白いなぁとそう思う。

 よいしょ、と上がり框(かまち)に腰掛けた雪瀬に続いて、桜もちょこんと隣に座った。少し考えるようにしてからついついと袖を引き、こちらの顔をのぞき込むようにする。
 
「……ここ、いつまでいるの?」

 小さな声に滲むのは、微かな不安。
 いつまでねぇ、と雪瀬は桜の言葉を繰り返し、つと考え込んだ。



 大騒動の果てに葛ヶ原を出てかれこれひと月あまりが経った。
 まずは少女の肩の傷の手当てをと、雪瀬は桜を連れて瀬々木という知り合いの町医者の元を訪ねた。瀬々木は毬街で小さな診療所を開いている医者で、桜を拾ってきたときにも世話になった男である。口は堅く、それこそ赤子の時分から付き合っているので信頼もできる。

 傷はさいわいひどいものではなかったらしい。桜は十日ほど褥で寝たきりになってしまったが、医者がよかったのか彼女が強かったのか、そのあとはゆっくり体力も回復し、今では元気に走り回れるまでになった。
 一方の雪瀬はこのひと月の間に何やらたいそうな肩書きのついた罪人になってしまったらしい。夜伽略奪犯だってな、と瀬々木に楽しそうな顔で冷やかされた。りゃくだつ?、と桜が訊き、そうだお前こいつに略奪されたんだぞ、と瀬々木が笑いながら答える。

 瀬々木は物見遊山よろしく面白がっているらしく、桜に至ってはまったく理解ができていないらしかったが、実際、事態はかなり深刻だ。ひと月しても雪瀬たちが見つからぬことにしびれを切らして、最近では本来自治区である毬街の方面にも中央の兵がうろちょろしているというから、見つかるのは時間の問題だろうか。――そうは言っても彼らに捕らえられ、都まで引っ立てられる気はもちろんないのだが。



 いつまでにもつかな、と雪瀬は考え、膝に頬杖をついてのんびりと格子窓を眺める。ふわりとその頬を初夏の薫風が撫ぜた。

「――待ってるんだよ」
「……なにを?」

 桜が不思議そうに首をかしげる。その挙措にともなって、さらさらと結ばれずに残った黒髪が肩をこぼれた。それを指で軽く梳きつつ、

「追い風が起こるのをね」

 雪瀬は格子の果ての曇り空を透かすように見つめるのだった。







 毬街に近い宿場町の路地裏にて、ひとりの男が死んだのはその翌日である。
 かっと見開いた眸の色は紫。異形の色である。
 少女は男へと冷め切った一瞥を送り、男の懐についていた煙草入れを引き抜いた。そこに彫られている名前を指先でたどるようにして読み取り、嘆息する。

「タチバナ、じゃない」

 物憂げに目を伏せ、少女は興味を失った様子で煙草入れを地面に捨てる。そして男にはもはや目もくれず、きびすを返した。