三章、双樹と猫



 三、


 かまどには黒い鍋が置かれ、ぐつぐつととろ火に煮込まれている。木の蓋と鍋の合間から立ち上る湯気に気を引かれ、桜は蓋を開けてみた。中を満たしているのは味噌汁、というものだ。よい匂いだなぁとほぅと息をついてから、桜はほうろくで溶き卵を焼いている雪瀬の袖をついと引いた。

「これ、いれる?」

 最小限の言葉であったけれど、それで意味は通じたらしい。雪瀬は卵を折り返していた菜箸の手を止め、じゃあよろしくと桜にお椀を渡す。少しでも頼りにされたことが嬉しくて、桜はほのか胸を弾ませながら、お椀を受け取った。
 数はみっつ。桜と雪瀬と、それから瀬々木という医者のぶんである。
 お椀を片手に、たどたどしい手つきながら味噌汁をよそうと、「あっちに運んでおいて」と雪瀬に言われる。
 うん、とうなずき、桜は味噌汁を載せたお盆を持って、心なし弾んだ足取りで居間へと向かった。







「いただきます」

 手を合わせ、席に着いた三人は声をそろえる。
 おなじみの文句を言い終えると、桜は箸をとった。
 
 ひとりひとりの前に置かれた箱膳に並べられているのは、豆腐の味噌汁、白飯、きゅうりの浅漬けとたまご焼き。作ったのはすべて雪瀬である。
 毎度手を変え、品を変え、朝餉から夕餉までを一手に担う少年に少しばかり感心しつつ、桜はお椀に口をつけた。ほんのりした味噌の香と、柔らかな味が身体をじんわり温める。

 向かいでは同様に瀬々木がたまご焼きに箸をつけ、「うまいもんだ」と苦笑した。

「これ、何入れてるんだ?」
「あー切り干し大根?」
「……なぁいつの間に、というかどうやって新妻の裏技みたいのまで会得したんだお前」
「そりゃー器用ですから」
「器用、なぁ……。本当に妙なところにばかり才能あるな」
「五十年独り身にはありがたい限りでしょー? よかったね。人生に一度きりでも新妻の味が味わえて」

 言葉のわりには淡白に言う雪瀬に、「そりゃあありがたい限りだ」と瀬々木は肩をすくめる。

「まさか橘一族のたまご焼きが拝める日が来るとはなぁ」
「うん、神棚に供えてあげて」
「葛ヶ原の民ならやってくれるかもしれんぞ」

 交わされる会話の意味が桜にはいまひとつわからない。
 東の果ての地を支配する橘一族の第二子が朝からいそいそと腕まくりをしながらかまどに火をくべ、たまごを溶いている図の奇異さなどわからないのである。もしもここに蕪木透一を連れてきたら、たまご焼きを神棚に供えるか、あるいは嘆かわしいと頭を抱えるかもしれぬ。

 とにかくもそのような事情は知らず、ふたりのやり取りをごはんを食べながら聞いていた桜は、ふと箸を止め、「せぜぎ、せぜぎ」と男を呼んだ。

「おう、なんだ? 桜の樹」
「瀬々木はひとりのひとなの?」
「ひとり?」
「雪瀬、ヒトリミって」

 そもそも独り身ってなんだろう。ならば、ふたり身というのもあるのだろうか。
 桜としては至極まじめな問いであったのだが、雪瀬と瀬々木は顔を見合わせ、一方はおかしそうに、もう一方は苦笑気味に視線をそらした。
 口を閉ざしてしまった瀬々木に代わり、「そうそう。ひとりのひとなの」と雪瀬がいたって軽い口調で答える。

「医学の勉強ばかりしてたせいで一度娶った奥さんにも逃げられちゃったんだって。だから、診療所もずっとひとりっきりで切り盛りしてるらしいよ?」
「“奥さん”?」
「うん。あーわかんないか。伴侶、って意味。男のひとと女のひとがひとりずつこれって相手を決めて、一緒に暮らす。そうするとほどなくコウノトリが赤子を運んでくる」
「コウノトリ……」
「おい、雪瀬。それ、十幾つになる娘に持ち出すたとえじゃなかろうに」
「だいじょーぶ、精神年齢五歳児だから」
 
 雪瀬と瀬々木の応酬を聞き流しながら、コウノトリかぁと桜は考える。けれども桜の知っている老帝などはひとりじゃなくてたくさんの奥さんを持っていた気がする。これではコウノトリもひっきりなしに飛び交ってさぞや大変だったに違いない。赤子を取り違えたりしなかったのかな、と桜が真面目に考え始めていると、

「おお、そうだ。桜の樹」

 朝餉を食べ終え、箸を置いていた瀬々木が何がしか思いついた様子で声を掛けた。

「お前、今日も暇なら俺についてこい。午前中は回診をやってるんだ」
「かいしん?」
「貧民窟を回って病人を診るんだよ」

 瀬々木の言葉をゆっくり咀嚼する。それは『そと』に出るということで。外にはまだ黒い羽織のひとたちがいるかもしれない。それは怖い。
 考え込んでから桜はふるりと首を振った。
 そっと雪瀬のほうをうかがうようにすれば、「行けばいいのに」とあちらからは苦笑気味の答えが返ってくる。

「安心しなよ、瀬々木はいたって善良なお医者さまだから。それに貧民窟らへんは黒い羽織のひともうろつかない」

 それでもいやいやと首を振って、少年の後ろに隠れるようにすると、雪瀬は嘆息し、ついと桜の腕をとった。そのまま瀬々木のほうへ差し出すようにする。

「はい、どーぞ。連れて行ってやって」
「や、やだ、」
「だーめ」

 あっさり頼みの綱を切られてしまい、桜は雪瀬のほうに少しばかり恨みがましい視線をやった。けれど少年は柔らかく微笑し、「外に出たんでしょ?」と言った。

「なら、この国のこと、見たほうがいい」

 それはいったいどういう意味だろうか。
 桜は葛ヶ原でたくさん空を見たし、木々や梨の花、風の音、小鳥の囀りだって聞いた。外はたくさんの光が溢れていて、色がいっぱいで。それでもまだ“外”を見たことにはならないのだろうか。

 いまひとつ少年の意図するところがわからず、桜は戸惑いながら、余所行きの十徳を羽織っている瀬々木を仰ぐ。行きたくはないのだが、この調子だとどうやらついていくしかないらしい。諦め、しぶしぶと立ち上がって帯紐に銃を挿しいれた。
 老翁の腕が抱えられた、ずっしり重みのありそうな黒風呂敷へと一瞥を送り、桜はためらうようにしてから、彼の袖をついと引く。

「お? 何だ?」
「“お体が心配なので風呂敷をお持ちします”と言ってるんだよ、遠まわしに」
「……ち、ちがうっ」

 そこまでは言っていない。誇張して解釈されたことに何やらおもはゆいような気分になり、桜が雪瀬に反論しかけると、

「それは良い良い。いい子だな」

 先回りするように瀬々木がくしゃりとこちらの頭を撫ぜ、黒風呂敷を持たせてくれた。
 頭に置かれた手へと桜は細めた目を向ける。外見のどこかいかめしい印象にはそぐわず、女性を思わせるような綺麗な指のひとだな、と思った。

「それと雪瀬。お前はもちろん診療所の留守番だ」
「げ」

 老翁はぬかりなくそう言うと、とばっちりを受けたような顔をする雪瀬をからからと明るく笑い飛ばした。