三章、双樹と猫



 四、


 実はひと月近く瀬々木の家に滞在をしておきながら、街に出たのはこれがはじめてだった。最初の十日はずっと褥で寝ていたし、動けるようになってからも雪瀬は桜を外に出してはくれなかった。桜は雪瀬に“略奪”されたことになっているので、毬街の周辺は黒羽織が自分たちを探してうろついているから危ないのだという。雪瀬自身も与えられた一室にこもって書物やらを読んでいるようだった。

 けれど今日の雪瀬は桜が外に出るのは止めなかった。むしろ行っていいよとばかりで。ということは、黒羽織のひとたちはもう諦めていなくなったということなのだろうか。
 考えつつ、桜は瀬々木の風呂敷をぎゅっと抱えて、大通りからは外れた道をてくてくと歩く。まだ朝早いのでひとはほとんどいないが、それでも薄い霧がかかる街は今まさにゆっくりと起き出してくるような気配があった。通りに並ぶ家々が雨樋を開けたり、店から出てきた少女が暖簾を出したりする姿を桜は瀬々木の背中を追いながら時折足を止めて眺めた。

 店の裏で残飯をあさっていた黒猫をじぃっと見つめていると、いつのまにか瀬々木がずいぶんと先に行ってしまっていた。慌てて走りながら、そういえば、と桜は澱みない足取りで歩いていく瀬々木を仰ぐ。回診、と瀬々木は言っていたが、いったい誰を診にいくんだろう。
 帝にも専属の侍医のようなひとはいたけれど、そのひとは瀬々木よりはずっと華美な身なりをしていたし、もっとたくさんの助手を引き連れていた。外にひとりで出歩いて誰かを診ていたという話は聞いたことがない。
 単に桜が知らなかっただけ、という可能性も多分にあったが、もしかしたら医者というひともいろいろといるのかもしれない。そもそも桜には、医者という職業に対して“からだをなおすひと”という認識くらいしかなかった。

 道幅は次第に狭まっていく。路地の奥深くへと桜たちは入り込んでいっているようだった。
 左右に大きな蔵のようなものが並ぶ道は日当たりが悪く、足元には下水路が這うようにはりめぐらされていて、ものが腐ったような異様な臭気を発している。こつん、と下駄先が何がしかに触れた。桜がおずおずと視線を落とせば、それは薄汚れたひとの腕で、腕の先にあるのは男の骸だった。もはや原型を崩し始めた死体には蝿がたかっている。

 ひとつ、ふたつ、と道端に捨て置かれた死体を見つけるにつけ、桜はだんだんと不安になっていく。本当に、どこへ行くのだろう。誰を診るというのだろう。まさかこのまま死者の国にでも連れて行かれてしまうのではないか。だって医者は“生きているひとの身体を治すひと”で、華美な身なりをしていて、でっぷりと太っていて、たくさん助手を連れて歩いているひとのことをいうのだ。瀬々木とは何もかも違う。もしかしたら瀬々木は医者ではなくて、死者の国に子供を連れて行く怖いひとなんじゃないだろうか――。
 膨らむ想像がとんでもないところへ達するにいたって、桜はぶんぶんと首を振る。そのとき、前を行く瀬々木が不意に足を止めた。
 
 そこにあったのは、桜が想像していたような家ではなかった。
 何も無い。ただの広場である。褥もなければ、ひとの姿も見えなかった。よくわからないけれど、自分の考える“診療をする場所”とはかけ離れていた。

「ほら、来たぞ。出て来い」

 瀬々木が声をかけると、何もないと思っていた蔵の影から小さく物音がした。のろのろとひとがひとり出てくる。男のひとだ。それについであちらこちらからひとり、ふたりとまたひとが現れ、あっという間に大人子供の入り混じった十数人くらいの列ができた。

「あー、そこ慌てるな。ちゃんとぜんぶ診てやるから」

 瀬々木はそう言いながら、桜の持っていた風呂敷を取り上げる。結び目をほどいて診療用具や薬を出す老翁の背を眺め、それから今一度桜はその場に集まったひとびとへと目を向けた。

 たくさんのひと。男や女、子供から赤子を抱いた若い娘までいる。
 その誰もが先ほど転がっていた死体と大差のない薄汚れたぼろ布をまとっていた。突き出た四肢はまさに骨を皮が覆っているだけといった風で、枯れ木のように細い。伸び放題になっているぼさぼさの髪はもう何年も櫛すら通していないのではないかという乱れようだった。そのくせ、赤子の腹だけはみな一様に異様なほど膨れている。――それが飢餓によるものであることを桜は知らない。ただ、気味が悪く思っただけである。

 目の前の光景をどう受け取ったらよいのかわからず、ただただ怖くて、瀬々木のほうへすがるような視線を向ければ、老翁は皺の深く刻まれた顔に苦笑気味の表情を浮かべた。

「これを持って、お前はそこで見てろ」

 折り畳まれた風呂敷を差し出される。なされるがままそれを受け取って、桜は困惑気味に眸を伏せた。




「なんだ。今日はお前もここにいるのか」

 漆喰の壁を背にしゃがみこみ、瀬々木が彼らを診察するさまをぼんやり眺めていると、不意に頭上から男の声が降ってきた。低い、かすれがちの独特の声。俯かせていた顔を上げると、白い肢体が目の前を横切った。桜のすぐそばに舞い降りて、羽を畳む。扇だ。

「あおぎ」
「……おう」
 
 この白鷺に会うのはずいぶん久しぶりだった。たぶん葛ヶ原を出たとき以来ではないだろうか。あのときは常に雪瀬のそばに控えているように見えた白鷺だったが、毬街に移ってから桜たちの前にまったく姿を現さなくなってしまったのだ。もうこのまま会うことはないのかな、と思っていただけに驚いたし、胸がほんの少し綻んだ気がした。
 無表情ではあったものの、桜のまとった空気が柔らかくなったのを白鷺は敏感に察知したらしい。嘴をかちかち鳴らしてから、ふん、とつっけんどんな態度でそっぽを向いた。
 
「あのなぁ最初に言っておくが。雪瀬はそういうことを気にするたちじゃないが、俺は俺のあるじがお前のせいで略奪犯とかいう疑いをかけられて非常に迷惑してるんだ。怒ってもいる。無論あいつが自分の意思で決めたことだから仕方ないとは思うが、やはり非常に怒っている」

 怒っている、というわりにはその口調は静かなものだった。責めているという風でもない。だから怒られたことにしゅんとなるより、扇は雪瀬がすごく好きなんだなぁと何故か別のことに感心してしまう。
 まぁしかし、と扇はそっぽをやっていた首をこちらへ向けた。

「それでも一応の礼儀は心得ているつもりだ。“よろしく”」
「『よろしく』?」
「……わからないならいい」
「よろ、」
「繰り返すな。ただの挨拶だ」

 ぴしゃりと言われ、桜は口を閉ざした。今度は本当に怒られてしまいそうだった。だが、扇はそれきり話を切って、瀬々木と患者たちのほうへと目を向ける。

「あいつも朝っぱらからよくやる。……お前、一緒についてきたのか?」
「ん。雪瀬がこの国のこと、見たほうがいいって」
「ほぅ、雪瀬がなぁ。――それで、どうだ? 見てみて? どう思った?」
「……よく、わからない」

 睫毛を伏せ、桜は少し首を傾けるようにする。

「ただ、全然ちがうから」

 びっくりした、と桜は呟く。
 これまで桜が老帝の寝所へ通されるまでのわずかな道のりの間に見てきたのは、美しく磨きぬかれた床、豪奢な部屋、それから色とりどりの彩布で着飾ったたくさんの女官たちである。彼女たちはみな、血色のいい薔薇色の頬に艶やかな髪、ほっそりとはしていたけれど、まろやかな女性的なふくらみを帯びた身体つきをしていた。
 寝所には金紗銀紗の刺繍のほどこされた御帳が垂れ、翡翠の香炉からは甘やかな香(こう)が匂い立つ。老帝は籠に入れた金糸雀を愛で、時折気が向くと、異国の菓子を桜にくれた。その手は細いものだったが、がりがりに痩せているいうわけではなく、肌の色は健康そのものだ。またそれは豪奢な夜着を身に着けていた。
 それが桜の見てきた“世界”。こことは違いすぎる。
 そうだ、と扇は桜の言葉に深くうなずいた。

「全然違うんだ、こことあそこは」

 扇は瀬々木の前にできた長い列のひとを眺め、獣にはあらざる聡明さをもった黒眸を思案げにすがめた。

「この国はな、桜。ごく一部の人間だけが富が掌握し、下の者との格差が開きすぎている。老帝は国の税を使って豪奢な建物を次々と建て、後宮に女を集め、この世の贅の限りを尽くした生活をしている、そのツケがどこへ回るかわかるか? ――無論、民が払わされる。国とは、民あってこそ成り立つもの。民をないがしろにする国は滅びるより他ない」

 桜は扇の横顔を眺め、ううんと難しげな表情をした。彼の語る話には難解な言葉が多くて、端々しか理解はできなかったけれど。

「国が、病気なの?」

 そう尋ねれば、扇は虚をつかれた様子でこちらを振り返った。ややあって「そうだな」と白鷺は首を縦に振る。

「だから、早く治療をしてやらんとな」

 何がおかしかっただろう、扇はくつりと含み笑いをこぼした。いったい扇が何を笑ったのか、桜にはよくわからない。いぶかしげな表情をした桜をよそに、扇はくいと首を上げる。

「実は雪瀬の遣いの途中だったんだ。そろそろ戻らんとな」

 告げるや否や、白鷺は風を読むように首をめぐらせ、羽を広げた。空へと飛び立ち、瞬く間に朝の空へと霞んでいく白い肢体を桜は見送る。
 
 ――焦がれて飛び出した外の世界には、視界いっぱいに広がる空があった。きらきらと陽の光に満ち、そこはとても輝いて見えた。色とりどりの花を見た。鳥の囀りを、風の音を聞いた。美しく、鮮やかな世界。けれどそれだけが“外”のすべてではないのだと、桜はあたりを漂う臭気に少し酔いそうになりながら考えた。