三章、双樹と猫



 五、


 その日の葛ヶ原の長老会で取りざたされたのは、現在夜伽略奪犯として追われる身となった橘宗家第二子、雪瀬の処遇である。
 橘一族始まって以来の不祥事だ、と騒ぐ長老たちを辟易とした顔で眺めながら上座にて脇息に身をもたせかけていた八代は「颯音」とそばに控える嫡男を呼んだ。

「雪瀬はまだ見つからんのか?」
「ええ。探してはいるんですけれどねぇ……」
 
 青年はゆったりと答え、打つ手がないとばかりに肩をすくめた。八代の苛立ちに油を注ぐような物言いと挙措だ。八代は表情を険しくする。

「よもや手を抜いているわけではなかろうな?」
「まさか。全力をもって探していますよ」
「全力? どうだか。おい、毬街の町医者を当たったのか?」
「瀬々木さん、ですか」
「アレが頼る場所などそれくらいしかあるまい」

 中央に差し出して晒し者にしてくれる、と八代は憎々しげに唸る。
 老帝がお探しであった夜伽を見つけたのだから、本来なら山と褒美がもらえるところであったはずだ。うまくいけば、葛ヶ原の誰がしかを中央の重臣として取り立てていただけたかもしれない。
 やはりその話が流れたのがご不興の原因かな、と颯音は苦笑する。
 褒美どころか、雪瀬の起こした不始末のせいで帝から直々に召喚が申し付けられるも時間次第、というのが現在の葛ヶ原だった。
 召喚ねぇ、と颯音は人知れずそっとほくそ笑んだ。

「――真砂(まさご)くん」

 視線を移し、颯音は末席のほうで暇そうにしていた青年を呼びつける。どうやら障子戸に指で穴を開けて遊んでいた最中だったらしい。真砂、と呼ばれた青年はぽっかり和紙にあいた穴を隠すようにしてから、「なーにー?」と間延びした声を上げた。

「こういうわけだから。瀬々木さん宅にはきみが行ってくれる?」
「え、ヤダ。俺、雪の字嫌いだもん。五條あたりを使えばいいんじゃねー?」
「それはだめだよ」
「何で?」
「五條薫衣と蕪木透一はこれから“大事な用”があるからね」

 颯音が意味深な微笑い方をすると、ほおおおお?と真砂は濃茶の眸を輝かせた。
 
「もしや祭りかな? 祭りかね? 血祭りに上げられるのは誰だろうな?」

 座敷はゆうるりと射し込む西の日に赤く染まろうとしている。紅い残照を映した眸をすがめ、颯音は父親である男の横顔を見据えた。






 黒く花橘の紋が入った紅い盃にとろりと濁り酒が注がれた。乳白色の酒にひらりと桜の花びらが一枚落ちる。これは風流、と一緒に飲み下しながら視線を上げれば、遅咲きの八重桜がはらはらと闇の中、薄紅の花弁を散らす姿が目に入った。
 座敷の奥からは、明朝、都へ出立する八代とそれに伴う彼の側近たちの笑い声が聞こえてくる。芸子の三味線のべんべんという音に乗って、長唄と、舞いが催された。葛ヶ原には芸子もその手の店も少ないので、毬街のなじみの遊郭あたりから呼んできたのだろうか。厚く白粉を塗った花かんばせを飴色の眸を細めて眺めながら、その匂いのきつさに彼は口元にたたえた笑みに少し苦いものを滲ませた。

 頃合を見計らってさりげなく座敷をあとにし、外へ出る。
 濡れ縁の板敷きには薄紅の花びらが幾重にも積もっていた。ぎしりと彼が板敷きを踏めば、淡く立ち起こった風が花を押しやっていく。風をその身にまとう風術師ならではだ。

「橘颯音か」

 濡れ縁に座り、ひとり酒を注いでいた老人は振り返らぬまま問うた。颯音は少し驚いたような間をあけたあと、微苦笑を漏らす。

「刀斎(とうさい)さまは相変わらずよい耳をお持ちで」
「こちとら老いぼれたつもりはないぞ。何用だ?」
「いえ。ただ一緒に花見酒でもと」

 颯音が隣に腰を下ろすと、盃に口をつけていた老人がこちらへ一瞥をやった。灰色の双眸が真意を探るように鋭く動く。老人は名を百川刀斎といった。
 橘から夜伽略奪犯が出たことで、近隣の百川諸家(ももかわしょけ)が中央から偵察を兼ねた訪問を命じられ、もう半月ほどこちらへ滞在をしている。古くから葛ヶ原と親交の深い百川は偵察といえど何をするわけでもなく、あえていうなら颯音と囲碁などをのんびりと打ちながら滞在期間を過ごした。

「参内命令がついに来たとか?」

 颯音が花を浮かべた酒を味わっているかたわら、刀斎は光のうっすら漏れる座敷へ一瞥を送る。
 橘一族へ宮中への参内命令が早馬で届けられたのは先日のことだ。帝がじきじきに事の仔細を聞きたいという。その命を受けて、橘八代と彼の数少ない側近は明朝都へ立つ。今宵催されているのは、旅のはなむけともいえる宴だった。

「……夜伽略奪犯、だったかの」
「大方その夜伽の子にほだされたんでしょうよ。アレ、昔から捨て猫やら小鳥やらをよく拾ってくるの好きだったんです」

 刀斎がからになった盃を差し出す。それへ酒を注いでやりながら、「本当、いつまでたっても直らない」と颯音は独語気味に苦笑してみせる。刀斎は白髭を指で梳きつつ、何か思うところでもあったのか、眉根を寄せてふぅむと唸った。

「だがなぁ颯音。老帝の寵愛めでたき夜伽となれば、捨て猫や鳥を拾うのとはまたわけが違う。中央にたてついた罪は重い」
「まぁ捕まったらただじゃ済まないでしょうね」
「だが、どっこい捕まらぬ」

 刀斎はふぉっふぉと笑い声を漏らした。

「まだ十五の少年が夜伽を連れ出しただけのこと、すぐに見つかって連れ戻されるのが関の山と誰もが考えていたに違いない。ところが中央の兵を動かしてもいまだ尻尾のひとつもつかめない。八代がいつまでたっても見つからぬと喚いておったよ。誰か、葛ヶ原の者が手助けでもしているのではなかろうかと」
「手助け、ですか」
「八代の言葉も一理ある。確かにこれだけ長いこと隠れおおせるには誰かしらの協力が必要となろう。衣食住はもちろんのこと、帝直属の兵がいったいどのあたりを探しているのか、情報を流している者が裏にいなければのう……」
「つまり、刀斎さまは何が仰りたいんでしょう?」
「何が、か。――おぬしはもしや橘雪瀬の居所を知っておるのではないかと思うてみたのだが」

 颯音はひとつ瞬きした。少し困った風に微笑み、男の視線から目をそらす。

「それは刀斎さまといえど、言えません」
「さよか。ならば、これは老人の戯言として聞くのがよかろ。先日、あちらの“しらら視狩り”が動いたとの話を耳に挟んだ。重々気をつけよ」
「白鷺でも見つけたら言っておきますよ」

 そっけなく答え、颯音は話を結んだ。これ以上詮索をされるのはよろしくない。幼い頃から付き合いのあるこの老人を颯音は信頼していたし、その人柄を好ましく思ってもいたが、とはいえ促されるままに腹のうちすべてを見せてしまうほど安直な人間でもない。

「明朝立つのは八代のほうか?」

 おもむろに刀斎が話を変えた。ええ、と颯音はうなずく。八代のほう、とわざわざ問うてきたのは無論、前回の円議のことがあったからだ。ここ数年、八代が朝廷に参内するのは稀だった。
 しかし内々の召喚ともあれば、当主自ら馳せ参じるしかあるまい。円議のように代わりをたてるというわけにはいかないのだ。
 話はごく少数、宮中の奥まった間で行われる。その場に集うのも帝と黒衣の占術師と、それから近臣が数名ほどではないだろうか。普段は仰々しいほどの数、控えている衛兵も、最小限しか置かれまい。加えて都は前年からの南方の一族と民が結託した乱の鎮圧に追われ、軍の大半をそちらへ差し向けていた。まさしく砂の楼閣。豪奢絢爛の砦には今ひとり老帝がおわすのみ。

「――何を企んでおる?」

 刀斎が眸を細め、尋ねた。
 さぁよからぬことでございましょうよ、と颯音は淡く微笑する。刀斎は白い眉をひそめて、食えぬ男よの、と吐き捨てるように呟くと盃に口をつけた。

「刀斎さま」

 ふ、と颯音はそれまで常に口元にたたえていた笑みを消した。翳りを帯びた琥珀の双眸がまっすぐ老人を射抜いた。

「私はね、国ひとつを動かすつもりなんです。これから」
「――暗喩、ではなさそうよの」
「たとえでそんな恐ろしいことは言いません」
「国に大禍、起こす気か」
「必要とあらば」

 颯音の胸中を推し量るかのように刀斎は目をすがめ、おもむろにかたわらから木箱を引き寄せた。樫か何かで作られた木箱から鈴を三つ、取り出す。
 木鈴(もくりん)と呼ばれる、関所での通行証を果たすものだ。その表面には、百川諸家の三つ巴紋が押されている。

「好きにせよ。これは餞別だ」
「ありがたく」

 颯音は老翁から鈴を受け取り、たてかけていた刀の鞘へとそれを結びつけた。からからと三つの鈴はぶつかりあって、乾いた音を立てる。風向きだろうか、不意に大きくなった饗宴の騒ぎを、颯音は苦笑まじりに眺めやる。八代にとってはこれが文字通り最後の宴となろう。

「――薫(くの)ちゃん。ゆきくん」

 五條と蕪木、自分と主従の契りを結んだ両名を呼びやり、颯音は手早く命を出す。

「柚を呼んで。それから明朝までに兵を幾ばくか」
「了解。ついに旗揚げときましたか? わがあるじ」
「準備は平気?」
「無論。待ちに待ったくらいだ」
 
 少女は不敵に微笑むと、透一を伴ってきびすを返す。
 その背中を見送り、颯音は腰を上げた。風を読むように首をめぐらせ、そっと目を伏せる。その顔にすでに笑みはない。

「時は来たれり。父上の首はすげかえましょう」