三章、双樹と猫



 六、

 有明の赤き月が西の空に居残る朝だった。
 人家から離れた道はいまだ薄闇に沈み、提灯が入用なほどである。狂い咲いた八重桜が、夜明けの空を舞う。はらり、はらり、艶やかな花弁を男のまたがる青馬の行く道に落ちる。
 橘八代の一向は都への出立を迎えようとしていた。
 馬に乗るのは主人である八代のみ、供の者たちは後方へ控え、しずしずと付き従っている。昨晩の宴のせいでどの顔にも疲労の色が濃い。
 どいつもこいつも、と舌打ちしつつ、八代は前方へと目を向けた。遠目に毬街へと続く大門が見えてきたが、濃い霧がたちこめているせいでどうにも見通しが悪い。それに何がしかの不穏な気配を感じ取り、八代は目を細める。

 と、背後から、ふわりと柔らかな微風が吹いた。
 供の者の掲げる提灯の炎が心もとなく揺れる。そのまま朝の空気に融けこむように炎は静かに消え入った。このような霧のさなかで。八代は不快げにまた舌打ちし、明かりがなくなってそわそわとし始めた馬をなだめる。


「橘一門当主にして葛ヶ原領主、橘八代」


 ふと背後から己の名を紡がれる。しかしこの領地でそれを呼び捨てにする人間は皆無と言っていい。

「誰だ」

 八代はすばやく風術の印を結びながら、低い声で誰何する。が、薄闇でもなお判別できるその人物を振り返りざまに認めて、八代は緊張を解いた。

「何だ、お前か」
「ええ」
「明かりを持ってないか? 火が消えた」
「おやおや。火が?」

 彼はいつもの柔和な表情を不意に冷え入らせ、無造作に手に持っていた提灯を地面に置いた。

「実はね、その明かりを消したのは私です」

 言葉の意味をつかみかねたように八代は眉をひそめる。刹那、紫電雷光、刀の一閃が馬上の八代へ走った。

「暁っ」

 太刀が肉を抉る。刃を受け止めた腕から走った激痛に顔をしかめ、八代は供の者の名を呼ぶ。切迫したその声に、はっとして彼らが刀を抜くも、

「お前らの相手は私たちだよ」

 凛とした声が答え、彼らの前にふたつの人影が立ちはだかった。

「――というわけです」

 青年が微笑み、刀を構え直すとさらに馬上の八代へ追撃をかける。それから逃れようとして八代は体勢を崩し、馬から転げ落ちた。強く腰を打って呻き声を上げる。不測の事態に馬が高いいななきを上げ、おい、と八代が制止するのも聞かず、朝霧の彼方へ逃げていった。

「こちらにつく者は刀を捨てろ! その限り私たちは手を出さない!」

 そう宣しながら暁たちと刀を交わらせているのは、五條薫衣。そして蕪木透一。両名、古くから宗家に仕える家の若き当主である。何を、と八代は表情を歪め、自分の眼前に立った人影を仰ぐ。
 朝霧がゆうるりと晴れていく。青年の後ろにあったのは、大門の前に立ちはだかる数多の兵の姿であった。どういうことだ、と八代は呟く。

「――颯音」

 雲間より射し込み始めた光が、そこに立つ青年の姿をあらわにする。橘宗家嫡男、橘颯音は刀を鞘に納めながら、淡く微笑んだ。

「まだわからない? 謀反ですよ、父さん。あなたを当主の座から引き摺り下ろし、俺が家督を継ぐ」

 宣言するや否や、古聖語まじりの呪が唱えられ、片手で印が切られる。轟音がたけり、にわかに巻き起こった突風が八代を襲う。
 八代はすばやく印を組み直し、風を放った。颯音は迫り来る風に視線を走らせると、下に置いた提灯をかかげやり、印を切りざま、蜜蝋の炎をふ、と吹く。風に紅蓮の炎が融け合い、吹きすさぶ火炎と化した。
 唸りを上げる烈風と炎風が正面よりぶつかる。だが、あっという間に炎が八代の放った風を呑み込み、あまつさえその風に煽られて威力をあげながら、術師の半身を焼いた。

「――っ」

 悲鳴を噛み潰したような呻き声を上げて、八代は地面に倒れこむ。それを見取って、颯音が手を下ろした。刀を抜く。

「おやめください、颯音さまっ」

 薫衣たちの隙をつき、逃れてきた暁が颯音の前へ飛び出す。八代を庇うように両手を広げた。

「どうかお慈悲を。せめて、お命、八代さまのお命だけでも……!」

 あるじの代わりに必死に懇願する青年を眺めやり、颯音は口元に微笑を浮かべた。父さんもいい護衛を持ったものだよね、と呟く。

「でもそういうわけにはいかない。俺は何年もこのひとを待った。このひとはそれに答えなかった。暁、すでに情を挟む余地はないんだよ」

 暁は愕然と目を見張った。否や、刀がその胴を薙ぐ。峰打ちだったのであろう、血は流さずに暁はその場に倒れ付した。颯音は刀身を切り替えて、じゃく、と八代の首に刀を突きつける。

「何故、だ……?」

 八代は倒れ付したまま、視線だけで彼を見上げた。そのときになって初めて男の眸に恐怖らしき色が宿る。息子に見捨てられ、追い詰められる男の憐れな姿だ。

「あなたはもはや用済み。俺が家督をついでこの国を動かす」
「……ふん……力を欲するか、颯音」

 それがひどく馬鹿げたことであるかのように、八代は薄く嘲笑を浮かべ、これみよがしに血まじりの痰を地面に吐いて捨てた。

「わからぬのか。巨大な力は己が命を削るぞ」
「構わない。そんな覚悟はとうに決めたのだから」
「ならば、殺せ」
「言わずもがな」

 八代は口端に笑みを載せ、目を閉じる。斬切音がうなる。
 そうして振り下ろされた太刀がその首を落とした。







 男の首から血が吹き出る。
 見開いた眸の色は、美しい紫の虹彩を持っていた。かがみこみ、すでに絶命した男の顔を眺めてから、思ったよりも彼が年嵩であることに少女は気づいた。

「これも違う……」

 少女は朱色の唇を噛み、物憂げに目を伏せる。
 “彼”に言われたとおり、しらら視の男を片っ端から殺していっているのだが、なかなか目当てのものにぶつからない。――殺してしまうのは、あれこれと問いただすのがひとえに面倒だからである。おまけに彼らは少女が声をかけると、だらしなく相好を崩し、嫌らしい眸でこちらを見てくるものだから煩わしいことこの上ない。もう少し紳士的な応対をしてくれるのなら、少女だって腕を一本斬るくらいで済ましたかもしれないのに。

 腰刀を納めると、少女は銀髪のおさげをぱたぱたと揺らしながら小道から出た。角のところにある古そうな民家のひとつには『瀬々木診療所』と書かれた看板が掲げられていた。