三章、双樹と猫
七、
あれはいくつのときだったろうか。おそらく十にもふたつみっつ届いてなかった頃だろうと思う。春の、白木蓮の香が濃くくゆる庭の片隅で雪瀬がひとり刀の素振りをしていると、運悪くそこへ父親が通りかかってしまったことがあった。
父は自分の血を引いていながらも術師の血を引かず、代わりにところ構わず刀の稽古ばかりをしている自分を非常に厭うていた。見つかると、その場で殴りつけられるときもたまさかあった。
その日も、忌々しいとばかりに眉間を険しく寄せた父親を前に、また何か嫌味のようなものを言われるかもしれないと思ったし、それ以上にこの父親はいつ自分を殺してもおかしくないような雰囲気があったので、幼い自分は無意識のうちに父親に向けて竹刀を構えていた。
それを見とめて、父親であるその男は、ふと驚いたように眸を瞬かせる。それがやけに邪気のないものだったから、向けたこちらのほうがきょとんとしてしまっていると、
「厭な眸(め)だ」
独り言のように彼は呟き、それから大きな手のひらを雪瀬の頭に置いた。軽く、ひどくぎこちない所作でくしゃりと髪を撫ぜる。
「俺と同じ眸ではないか」
男は微かな自嘲を口元に滲ませ、手を離した。記憶に残る“父親”の顔をした男は、それ一度きりである。
さらりとなよやかな髪が頬をくすぐる。それで雪瀬は目を覚ました。
どうやら草紙を読んでいる途中で、うたた寝をしてしまっていたらしい。短い夢も、見ていた気がする。頭を撫ぜてくる男の無骨な手のひらの感触を思い返し、あああれは誰の手のひらだったっけな、と雪瀬はころんと褥を転がりながら考えた。兄や子守役であった青年ではない。思わず失笑したくなってしまうくらい不器用な撫ぜ方をする、あれは誰だっただろうか。
けれど夢の余韻は意識の奥底をたゆとうているだけで、考えれば考えるほど深い場所へと沈んでいってしまう。栓のないことか、と苦笑し、雪瀬は身を起こそうと褥に手をつき顔を上げたところでぴたりと固まった。――目の前に桜がいた。
褥のかたわらにちょこんと座り、軽く身を乗り出すようにしながらこちらの顔をじぃっとうかがっている。相変わらずの人形のような無表情には少しだけ心配そうな色を載っていた。襦袢の肩口からこぼれた髪が雪瀬の頬を撫ぜる。くすぐったかったのは気のせいではなくこれが原因だったのか、と雪瀬は呆れ混じりに思った。
「えぇと、……何?」
寸秒見つめ合ってから、ようやく雪瀬はもっともな問いを口にした。
夜中に少女がひとりで男の寝所にやってくる理由などひとつくらいしかなさそうだったが、何せ桜は外見が十五ほどだろうと中身は五歳児なのである。そういう理由ではなさそうだった。
「もしかして迷子になった?」
以前宗家の屋敷で少女が道に迷ったのを思い出して尋ねてみる。厠か何かに行った帰りに迷子になって、たまたま見つけた雪瀬の部屋に駆け込んだ……という筋書きを考えてみたのだが、桜はふるふると首を横に振った。さすがに瀬々木の家くらいで迷子になるほどこの少女もぼうっとしているわけではないらしい。しかしこうも素直に答えられると、じゃあ何をしにきたの、とも聞きにくい。雪瀬は俯く少女を見やって、若干次の言葉を思いあぐねた。
「――……消していい?」
火の居残った行灯のほうへ視線を向けると、桜は微か顎を引いてみせた。雪瀬は行灯を引き寄せ、中の火皿に浮かぶ灯心を吹き消す。ふつりと光源が落ち、部屋は夜闇へと沈んだ。彼女をそのままに、雪瀬は布団をかぶり直す。
こういうときはあれこれ問い質すよりも放っておくのが一番であるということを雪瀬は少女との短い付き合いの中で学び始めていた。もはや彼女の奇行にいちいち驚かされる自分ではないのである。何せ、櫛を通せば風呂に入れられた子犬がごとく抗い、井戸に行けば、つるべが自分で上がってくるまでずっと待っているような少女だ。無論、夜が更けるまで待ってもつるべはそんな器用なことはしてくれない。
枕に頭を乗せ、一呼吸置いてから、雪瀬はそっと桜のほうへ視線だけを投げかけた。膝を抱え、小さく丸まるようにしている少女。表情という表情を浮かべず、淡やかな月光に照らされながらただどこか寂しげに睫毛を伏せる彼女の姿はなんだか親に捨てられた猫みたいだった。庇護欲をそそられる、というのはこのことをいうのだろうか。
雪瀬は大きくため息をつき、半身を起こす。結局のところ、どうしてか自分はこの少女が放っておけないのだ。
「なぁに?」
端的に問えば、桜は少し身じろぎして顔を上げた。口を開こうとするも、どう言葉にすればよいか途方にくれてしまった様子で、すぐにまた眸を伏せてしまう。……うーん、アレだ、口をなかなかあけてくれない二枚貝みたいだ。
そんな二枚貝少女の髪をもはや癖のように梳き、髪ごと頬に手のひらをあてがうと、話してみ、と雪瀬は言った。
「順序だてなくていいし、思いついたままでいいから」
「思いついたまま」
「そう、思ったまま。何、あったの?」
「――…ゆめ……、」
少し待ってみると、不意に桜がぽつりと呟いた。それは本当に胸のうちからついこぼれ落ちてしまったという雰囲気で。うんそれで?、と雪瀬は穏やかに問う。伏せがちだった緋色の眸がこちらを見つめた。
「怖い夢、見た」
「夢?」
「あのね。死体が起き上がって追いかけてくるの」
「ふぅん……」
それは確かになかなか恐ろしそうだ。雪瀬は少女の黒髪をさらさらと梳きながら相槌を打つ。
見方によっては愉快な喜劇にもなりそうだったが、桜にしてみれば笑い事でなく、本当に怖かったらしい。身体を縮こませるようにぎゅっと膝を抱えている。
「瀬々木が声かけたら、障子戸からわらわらっていっぱいきたの」
瀬々木……。夢は深層心理の表れというが、いったいかの医者は桜になんだと思われているのだろう。
言葉にしているうちに思い出してきてしまったらしい。桜はまるで忌むべきものであるかのように障子戸のほうへ怯えた視線を向ける。気を抜いたら障子戸から死体がたくさん押しかけてくるとでも思っているようだ。――まぁその、死体やら何やら子供なら一度は見そうな夢でございますよね。
「障子戸から、ねぇ……?」
「っや、」
雪瀬は腰を上げると、桜の制止を振り切って障子戸を引き開ける。夜風が部屋に吹き込み、少女が声のない悲鳴を上げる。だが、それもつかの間のこと。さっと澄んだ蒼い月光が部屋を満たした。開かれた障子戸の先には幾千もの星が瞬く夜空が広がっている。銀色の月と、それから空を流れる星の河。
きょとんとして夜空を眺めていた桜はふと蕾綻ぶかのごとく、淡い淡い微笑をこぼした。
「きれい」
「そう?」
うん、とうなずき、桜は濡れ縁に出た雪瀬を追いかけて外に出てくる。
「すごい。広い、空」
板敷きにぺたんと座り込み、真摯な眸を大空へと向けている少女を雪瀬は目を細めて眺め、それから空へと視線を移した。心細そうな表情をされるよりは今のほうがいい。
そのまま、しばらくふたりで星空を仰いでいた。
桜は言葉を紡ぐのがうまくはなかったし、雪瀬もまた喋るのが好きなわけでもないので、一緒にいると自然沈黙が落ちるのがふたりの常になりつつあった。会話を共有するというより無音を共有するのがきっと彼女との時間の過ごし方なのだろう。
雲間から射し込む月光に、中庭の木々の葉は濡れた光を帯びる。夜気にまじる草の匂いはすがすがしく。緩やかに生まれた沈黙の中を涼風が夏草をそよめかせながら流れていく。
「――あ」
ひとしきり空を眺めていた少女はふと何がしかを見つけた様子で声を上げた。雪瀬きよせ、とこちらの袖を引きやる。
「あれ、大きい。光」
「ひかりー?」
ぶつ切れの単語に促され、雪瀬は桜が指差す先へ視線を上げる。彼女はどうやら空の一点、天の川の端の星のことを言っているらしかった。
「あぁ。牽牛のこと?」
「けんぎゅう」
「そう。で、反対にある大きいのが、織女」
「しょく……?」
「牛飼いと機を織るひと」
教えてやると、桜は“あんなところにひとがいるんだ”といったような表情をした。あんなところにひとは住んでいないが、面倒なので訂正はせずにそのまま放っておく。
「雪瀬はひとの名前が何でもわかるの?」
「……へ?」
いったいどこをどう取るとそんな話になるのだろう。ひどく真面目そうな表情で尋ねられ、雪瀬は眉をひそめた。
「花の名前も知ってた。虫の名前も。私の名前も知ってた」
私の名前? といぶかしげに繰り返し、少し考えてからようやっと思い当たる。どうやら最初に彼女の名前を当てたときのことを言っているらしい。さぁどうでしょう、と曖昧に紛らわせてしまうと、肩透かしを食らってしまった様子で桜は少し憮然とした表情になる。無表情、と思いきやよくよく見ていると、全然変わらないというわけでもないらしく。ともすれば見逃してしまいそうなささいな変化が面白い。わかった言うよ、と雪瀬は苦笑をこぼす。
「信じる信じないは勝手ですが」
「うん?」
「実は俺にはね、ひとにあらざる者が視えるし、ひとにあらざる者に触れることもできる。形を与えることもできるし、」
そこで軽く言葉を切り、雪瀬はつと少女の左胸に指先をつきつけた。
「使役することもできる」
桜はきょとんと目を瞬かせ、「……しえき?」と不思議そうな顔で手元へと視線を落とす。どうやら今ひとつ意味が通じなかったらしい。
「意のままにできるということ」
「ひとにあらざるものを?」
「そう。人形や霊やあやかしや。たとえば扇がそれ」
例をあげると、それでとたんに理解できたらしく桜はあぁとうなずいた。
「だから扇、雪瀬のこと、“あるじ”って」
「あーうん。まぁあれの場合はいろいろあるんだけども。とにかく、だから俺は人形や霊の真名を読み取れるというわけなのです。――はい、種明かしおしまい」
話を切るのと一緒に胸にあてがっていた指を離すと、桜は一連の説明を咀嚼するように、難しい顔をして考え込み始めた。視えて、触れられて、と指を折っていき、それを二三度繰り返したあたりで頭の容量を越えてしまったのか、何やら疲れてしまった様子で膝にこてんと頭を乗せた。急に頭が重くなりでもしたようだ。やっぱり五歳には難しかったんだろうか。
雪瀬は苦笑し、「ね、桜」と思考の沼にはまっていく少女に助け舟を出すべく他の話を持ち出すことにした。
「外、どうだった?」
昼頃、瀬々木とともに回診を終えて帰ってきた桜の表情はひどく暗かった。瀬々木が足を運ぶのは、貧民窟。この国でも最下層にあたるひとびとが集まる地区だ。同じように“国に虐げられていた”存在といえど、都にずっと閉じ込められていた桜には出会ったことのない人種だったに違いない。
「……こわかった」
「怖かった?」
「あそこは、きらい」
そこまではっきりとした拒絶の言葉を、雪瀬は初めてこの少女から聞いた気がした。そう、と雪瀬は微苦笑する。――あの場所が好きな人間など実際ほとんどいない。死体が転がり、むせ返るような臭気に満ち、汚物がそこかしこに散らばっているような路地。幼子ならば怯えて泣き出すほどなので、五歳児同然の彼女にしてはむしろよく頑張ったのかもしれない。
「もう行きたくない?」
こくん、とうなずきかけ、そこで桜はほんの少し悩むようにする。行きたくはないのだろう。ただ、何か後ろ髪引かれるものもあるらしい。
「桜の好きにすればいいと思うけど。せっかくだから瀬々木の手伝いしてあげたら? それで、嫌になったら戻っておいで」
「うん……」
うなずきながらも、いまだ迷った風に桜は目を伏せる。しかし嫌になったら戻ってきてもいい、という言葉に少なからず安心したのか、うん、ともう一度小さな声でうなずいた。心もとなさそうな表情からはずっとこちらにいたいなぁという心情がありありとうかがえたが、雪瀬は目をつむってしまうことにする。たぶん今の彼女はいろんなものを見て、聞いて、触れたほうがいいんじゃないだろうか。同じ年頃の娘たちと比べて足りなかったぶんを補うように。
眠たげに目をこすると、桜はまたこてんと抱えた膝に頭を横たえてしまった。緋色の眸は次第茫洋となり、しまいにはうつらうつらし始めてしまう。今日は彼女にしてはたくさん歩き回ったのでどうやらお疲れらしい。
「あーここで寝ちゃだめ。桜起きて」
少女が完全に寝入ってしまう前に、雪瀬は桜の肩を軽く揺すって中に入るよう促す。若干覚束ない足取りで桜が部屋に入っていくのを待って、雪瀬は障子戸を閉めた。そのわずかな間にも桜は立っていられなかったらしく敷かれていた布団にころんと横になってしまう。癖なのか、広い布団の中でも小さく丸まって、まどろむように目を細めた。
さすがにどいてとも言えず、仕方なく雪瀬は少女のかたわらにかがみこむと、丸まった身体の上に自分の布団をかけようとする。横たわる少女の身体がぴくりと小さく跳ねた。雪瀬は思わず手を止める。また以前の櫛のときのように激しい拒絶反応が返ってくるのかなぁと一瞬身構えたのだが、予想外にも彼女はなされるがままにゆっくりと目を閉じてしまった。
そっと手を差し伸ばして、頬にかかった髪を耳へとかけてやれば、安心した風にその手に頬をゆだねてくる。あどけない表情。何やらひとに寄り付こうとしなかった野良猫を徐々に手なづけていっているような気分になる。
「……あの、ね。あったこと、ある」
しばらくそうしていると、ふと、ともしたら聞き逃してしまいそうなくらいの小さな声で桜が呟いた。半分眠ってしまっているのか、その言葉はいつも以上に舌足らずで聞き取りにくい。
「れいがみえてふれられるひと。わたし、つくったひとだ。……うつせみっていう……」
眸をひとつ瞬かせるも、そのときには言葉は途切れ、すやすやと安らかな寝息が返ってくるだけ。一時その意味を考えてから、空蝉ねぇと彼女の言葉を繰り返す。少女の頭を軽く撫ぜやってから手を離した。
それにしても彼女に布団を取られてしまった自分はいったいどこで床につけばよいのだろうか。雪瀬は嘆息し、まずは彼女にかけてしまった布団の代わりを探すことにした。
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