三章、双樹と猫



 八、


 切った茗荷(みょうが)を水にいれ、煮立ってきたら味噌を少々。かき回してから盃に少し汁をとってみて、口をつける。うん、いいかんじ。
 雪瀬は悦とした表情を浮かべると、味噌汁をお椀によそい始めた。もはや日常の一端となりつつある光景だ。
 
「平和な朝の風景だなぁ」
「そう?」
「おい、全然和まないぞ。橘一族が台所で炊事なぞなげかわしい」
「そう言わずに。一宿一飯の恩義とやらですよ」

 焼きたてのほこほこしたたまご焼きを皿に載せ、「終わりー」と雪瀬は菜箸を置くと、かまどの炭の燃え残りを火消し壷に入れる。こうすることで次もまた使えるというわけだ。節約、節約。
 蓋を閉め、火消し壷をしまっていると、台所の窓から舞い降りてきた白鷺がかまどの鍋の上に止まった。

「いいか?」
「どうぞー」
「報告するぞ」
「どうぞってば」
「颯音が八代を討った」

 雪瀬は火消し壷を動かす手をしばし止めてから、「……意外と早かったね」と壷を水瓶の隣に下ろした。

「驚かないな」
「いつかこうなるだろうって思ってたから。それで? 葛ヶ原のほうは?」
「八代に古くから仕えていた長老たちが少し反発を示したが。おおむね落ち着いている。数名が配下の者を連れて葛ヶ原を出て行ったくらいだな。颯音は当主就任の儀を終えて、今朝がた父親の代わりに都へ出立したと」
「そう……」

 実際のところ、父である橘八代にはすでに葛ヶ原の多くの者が見切りを付けていた。朝廷への参内義務を怠り、遊興にふける当主。代わりに嫡男にして天才と名高い橘颯音へ次代を期待していた者も多い。颯音の今回の行為はそれらの後押しがなければ成し遂げられなかったろう。
 しかし八代を討ち、都へ向かったとなれば、“コト”が起こるのはもうまもなくか。

「――扇。たぶんこれからこの国は荒れるよ」
「荒れる……、傾くか?」
「さぁねぇ。よいほうへ行くか悪いほうへ行くかはわからないけど。ただ、きっと荒れる。十年か二十年かもっと長くか」
「……もとより傾きかけていた国だ。滅びないだけましというものだろう」

 滅びないだけまし。確かにその通りではあるが。
 手厳しいね、と雪瀬は苦笑する。扇という名のこの白鷺は常々、国の行く末というものを憂いていた。本来、俗世からすでに繋がりを失った存在であるからこそ。自分の手を離れた存在だからこそ。余計に歯がゆく、嘆く気持ちが深まるのかもしれない。

「報告はおしまい?」
「いや。もうひとつある」

 扇はそこでいったん言葉を切り、注意深げにあたりを見回した。雪瀬以外に誰もいないことを確認すると、こちらの肩に乗って耳元に嘴を近づける。  

「実はな。近頃、毬街近郊で男の変死体が見つかる事件が相次いでいる」
「……変死体?」

 眉をひそめ、「どゆこと?」と聞き返す。

「聞いたところによると、どの件も殺し方は同じで刀で首の動脈を一撃。即死だ。深夜や早朝にやっているらしくまだ目撃者も出ていない」
「辻斬りか何か?」
「と、奉行所も当初考えていたらしいが。殺された奴らにちと奇妙な一致が見られてな」
「一致?」
「ああ。ひとつ、まだ年若い男であること。子供も少し入っていたくらいだ。あとは――紫色の眸」
「むらさき……」

 雪瀬はひとつ眸を瞬かせ、考え込むように口元に手を当てた。

「“しらら視狩り”かな」
「まだ決まったわけではないが」

 うなずき、扇がこちらへ心配そうな視線を上げてくる。普段は冷徹そのものなのに、こんなときの白鷺の眸はひどく人間じみる。それが扇らしいといえば扇らしいのだが……。雪瀬は白鷺の喉元を撫ぜ、「大丈夫だよ」と微笑む。

「眸の色で探しているなら好都合。俺は見つけられない」
「……だといいが。これからしばらくは俺もここへ来るのを控えよう。お前もくれぐれも街中で変なことするんじゃないぞ」
「はいな。心得ときます」

 軽く応じて、雪瀬は腰を上げる。その動きに伴うようにして白鷺は羽を広げ、窓から外へ出て行った。朝陽の射し込み始めた空に消える白鷺を見送りながら、見つからないといいんだけどね、と雪瀬は胸中で物憂げに思った。







 その日もゆるやかに時間が流れ、太陽が空の真ん中を過ぎてくる頃には外から吹く風がぱたりとやんで蒸し暑くなってきた。
 桜は文机に腕を載せ、そこに突っ伏したままぐったりしている。熱に浮かされた緋色の眸は虚ろいったほうがよく、半分ほど瞼が落ちて何やらとろんとした表情になっている。そもそも体力というものがさほどない桜は暑いのがとても苦手なのだった。もはや行動不能になるといったほうがいい。

 うつらうつら夢と現の合間をまどろみながら、桜は文机のすぐ横に置かれた金魚鉢に額をくっつける。ひんやりとしていて気持ちいい。金魚鉢は浅く水が張られていて、その中では小亀が自分と同じくぐてっと水に身を浸していた。桜は硝子に額をくっつけながら、その動かない小亀を無為に眺める。

「おい、桜の樹。いるか?」

 と、唐突に向かいの障子戸が開け放たれた。
 
「あや、瀬々木。おかえりー」

 部屋の隅でのんびり草紙を読んでいた雪瀬がそれに応えて顔を上げる。こちらのほうへ指差しながら「桜ならそこでぐったり死にかけの亀みたくなってるよ」と言った。
 なんだか微妙に失礼なことを言われた気がする。とはいえ、特に言い返す気力も起きず、桜は腕に乗せていた頬をずらしてのろのろと視線だけを上げた。何?と視線で問うと、瀬々木はにやりと笑ってこちらを手招きする。
 
「暇だな? うん、その顔は暇そうだ。よし、桜の樹。回診に行くぞ」

 畳み掛けるように言われてしまい、すぐには嫌とも行きたくないとも言えずにしぱしぱ目を瞬かせていると、瀬々木が風呂敷包みをこちらへ向かって投げてくる。放物線を描いて落ちてくるそれをつい受け取ってしまったのが――運のツキだった。




 それからほぼ毎日。数えるのをやめてしまったから確かなことはわからないが、十日くらいだろうか。桜は回診に行く瀬々木のあとについて、外に連れ出されている。くっついていく、というよりは単に荷物持ちを、しかも半ば無理やりさせられている、といったほうが正しいのだが。何せ、桜ときたら医学についての知識があるどころか、そもそものところで医学書に書いてある“文字”というものが読めないのである。手伝えることなど皆無と言ったほうがいい。雪瀬を連れて行ったほうがまだ役に立つのではないだろうか、と桜は思うのだが、瀬々木はどうしてか桜の樹、桜の樹と言ってことあるごとに桜のほうを呼ぶのだ。
 
 そのようなわけで今日も今日とて、桜は風呂敷包みを腕で抱えて数歩離れたところから診察にいそしむ瀬々木の背中を眺めているのだった。
 貧民窟、と呼ばれるこのあたりは昼間でも薄暗く、臭気が立ち込めていて、やはりあまり好きにはなれない。診療に集まるひとたちも見慣れてはきたが、言葉を交わせたためしはなかった。

 もともと会話を成り立たせることからして労力がかかる桜だ。雪瀬は少し慣れてきたし、いつもあちらのほうがこちらの言葉を補ってくれたり、あるいは促すような間をあけて桜が答えるのをゆっくり待っていたりしてくれるのでまだ話しやすいのだが、これが見知らぬひとともなると、まず声をかけ方からしてまるで見当がつかない。彼らの、異質なものでも見るかのように向けられる視線が桜をより萎縮させた。桜はこの場所では異物のような存在なのである。宮中でもずっと物と同じように扱われていたが、そんなときのひとの視線はもっと無機質で、桜がそこにいようがいまいが関係ないという風なのだ。けれど、ここのひとたちは桜の存在をはっきり知覚した上で“違うもの”と境界線を引いた視線を向けてくる。なんだかいたたまれない気分になった。結局、桜は壁に背を預け、縮こまるようにして彼らの姿を見ることしかできない。毎日、毎日、それしかできない。
 嫌だと思ったら戻っておいで、という雪瀬の声が不意に脳裏をよぎった。もう嫌だ、と桜は思う。早く雪瀬のもとに帰りたい。瀬々木の手伝いをしなくちゃいけないのかもしれないけれど、桜は雪瀬のそばが一番安心できるし、好きなのだ。うん、と胸中でもう一度確かめるようにうなずくと、桜は腰を上げようとする。

「おねーちゃん、ここのひと?」

 ふ、と視界を影が覆う。動きを止めてそろりと視線を上げれば、あどけない笑顔がこちらをのぞきこんできた。
 列に並んでいた子のひとりらしい。年はちょうど桜と同じくらいだろうか。さっきから幾度か視線が合ったので、なんだろうなぁと思ってはいたのが、よくわからないまま放っておいているうちに、あちらのほうから列を抜けてこちらに来たらしい。

「……ここじゃない、ひと?」

 自分でも首を傾げながら答えると、「そっかぁ」と彼女は人懐こい笑みを浮かべて、桜の隣にひょいと腰を下ろした。

「ここじゃない、どこのひと?」
「んと、瀬々木のところのひと?」
「あ、瀬々木おじいさん。だから、最近よく一緒に来るんだ」

 うんうんと少女は何やら納得した風にうなずいて、黒ずんでところどころ破れたり繕ったりしたあとが見られる着物の懐をごそごそと探り出した。目当てのものはすぐに見つかったらしい。

「はい。おねーちゃん、手出して」
「手?」
「あげる」

 思わず手を差し出してしまうと、その上に乗せられたこぶしがゆっくり開かれる。手のひらに乗っていたのは、小さな、琥珀色の玉だった。

「飴玉。私が拾ってきたの。三つあったからおねえちゃんにひとつあげる」
「あめ?」
「うん。おいしそうでしょ?」

 桜は眸を瞬かせ、手の中の飴玉へ目を落とす。とたん、拾ったものを食べてはいけません、という雪瀬の言葉が頭に浮かんだ。――これは拾い物なのかな。それとも貰い物、だからいいのかな。でもどうしてそんな大切なものを桜にくれたりするんだろうか。

「飴、どうして?」

 桜は飴玉から視線を上げ、少し首を傾げた。えへへーと少女が笑って身を乗り出す。飴の色と同じような眸とぱっちり目が合った。

「おねえちゃん可愛かったから友達になりたかったんだもん」
「ともだち?」
 
 あまり聞き覚えのない言葉に桜がますます不思議そうな表情になるも、あちらのほうはうん友達ともだち、と嬉しそうに言って桜に飴玉を握らせてしまう。こちらの手を包んだ両手は汚れていて、ところどころたくさんの傷痕があった。
 黒ずんだ衣からのぞくのは、日に焼けた肌。その顔もまた汚れ、頬にはまだ新しいかすり傷があった。桜がそぅとそれに指を伸ばせば、「今日残飯競争やってたときに作ったの」と少女が答える。

「大の男が刃物持ってきたりしてさ、」
「はも、」
「でも勝ったけどね」

 桜が思わず目を丸くしかけると、少女はにやりと笑ってこぶしを振った。こんな細い身体で大の男に勝ったというのだろうか。喜べばいいのか驚けばよいのかわからず、桜が悩んでいると、少女はおかしそうにころころ笑って、息をついた。壁に背を預け、くいと空を仰ぐ。
 青く澄み渡った空では、白い蝶がひらりひらりと舞っている。

「私ね、十年前の戦で家と親を失ったのね」

 その言葉は平和な昼下がりにはひどく浮き立って聞こえた。いくさ、と桜は繰り返す。当然のことだが、宮中の奥深くでずっと生きてきた桜は戦なんて遭ったこともなければ、見たこともない。まして家や親を失った者の心情など想像もつかなかった。悲しいのと、怒るのとならどちらなのだろう。考え込んでしまった桜をよそに、ほら、と明るい声で少女が瀬々木のほうを指差す。

「あそこで瀬々木さんに今お腹診てもらってる子。あれ、私の弟。物心ついたときからふたり一緒にずっとここで生きてるの」

 その言葉は、内容のわりには湿り気がない。悲しんでいるようにも、また怒っているようにも見えなかった。むしろからりと笑ってみせると、少女は背伸びをするようにしてあたりを見渡した。

「家がないひと。親がないひと。何かの理由で中央に追いかけられているひと。そんな行き場のないひとの集まりがここなの。瀬々木さんは私たちを診てくれるいいひと。すごく感謝してる」
「『かんしゃ』」
「ありがとうってことだよ」

 そう言って少女は弾みをつけて立ち上がる。
 つよい、つよいひとだと思った。踏みにじられて、それでも立ち上がる、つよいひとだ。頼るひともなく、ひとりきりで黒羽織に追いかけられていた桜だからわかる。帰る場所もなく、帰るひともなく、生きていくのはすごくつらいことで、怖いことなのだ。あのとき雪瀬に拾ってもらわなかったら桜はきっとそう遠くないうちに死んでしまうか、帝のもとに連れ戻されてしまっていたに違いない。でも彼女は。桜と違って、自分の力で自分の生きる場所を見つけたのである。そしてここはそんな彼女を育んだ場所。

「あ、弟終わったみたい。――行かなきゃ」

 じゃあね!と明るい笑顔とともに桜の肩をぽんと叩くと、少女は小走り気味に列に戻っていこうとする。その腕に膿んだ傷口があるのを見つけ、桜は思わず彼女の袖を引いた。
 きょとんとする少女の視線に思わず怯んでしまってから、桜はそぅと少女の腕を取る。それから小さな子供の頭を撫ぜている男を振り仰いだ。

「瀬々木、」
「おう、桜の樹。なんだ、もう帰りたくなったか?」

 ううんと首を振り、桜はおずおず口を開く。

「なおすの、教えて?」

 瀬々木は一瞬驚いたように目をみはってから、ほどなくにやりと口端を上げた。来い、とでもいうように手招きをする。
 ――それは少女がここに来てはじめて口にした、自分の意思だった。