三章、双樹と猫



 九、


「よく頑張ったな。疲れただろう」

 結局診療は午後いっぱいかかってしまった。夕陽が背の高い蔵の合間から射し込む頃、ようやく最後の患者を見送った瀬々木は水たらいで手を洗っていた桜の頭を軽く叩いてそう言った。
 治し方を教えて、と乞うた桜に、瀬々木は傷口の洗い方と、どの薬草を使ってどういう風に布を巻くかを教えてくれた。要領が悪い上、覚えの悪い桜は結局一刻ほどかけてああでもないこうでもないと瀬々木に茶々を入れられながら少女の手当てをするはめになったのだが、――でも彼女が喜んでくれたのでよしとしようと瀬々木に言われた。

 瀬々木はこちらの手から風呂敷を受け取り、そこに治療に使った薬草やらの入った箱、水の入った竹筒などをしまい始める。
 こうなってしまうと桜は何をしたらよいかわからないので、座り込んだまま、瀬々木の手元をしばらく無為に眺めるしかなくなってしまう。そこでふと思い至って、さっき少女にもらった飴玉をおそるおそる口の中に入れてみた。琥珀色のそれは口内を甘やかに溶ける。ざらついた砂糖の味に桜はほのか表情を綻ばせる。甘い。――“甘い”は桜にとって、“おいしい”と同義語だ。

「帰るか」

 飴を大切に味わっていると、瀬々木が用具を詰め終えて膨らんだ風呂敷を桜に差し出した。落とさないよう慎重に受け取って腕に抱える。荷物を預けるや否や瀬々木は桜を置いてさっさと歩き出してしまうので、急いで腰を上げ、少し荷物の重みでよろけながら老翁を追いかけた。

 夕影に染まる街をふたりで歩く。貧民窟から出て、少し広い通りへ。曲がり角の店の軒下に掲げられた「氷」という暖簾(のれん)を眺めながら、瀬々木はもうすぐ夏が来るなぁと呟いた。

「どうだ、桜の樹。ここでの暮らしにはもう慣れたか?」
「……ん、」

 慣れた、といえば慣れたのかもしれないし、まだ慣れないと言われればそんな気もする。少し首を傾けながら曖昧な返事の仕方をすると、瀬々木は小さく苦笑した。

「まぁまだふた月にもならないからなぁ。そうわかるもんでもないか」
「うん……、あのね。いつまでここにいるの、って雪瀬に聞いたの」
「ほう。それで、あいつは何だって?」
「“待ってるんだ”って」
「待ってる?」
「“追い風が吹くのを”」

 しかし風ならあのときだって今だって吹いている。絶え間なく天を駆け、地を吹き抜ける。では、いったいいつになったら雪瀬の言う“追い風”とやらはやってくるのだろうか。季節が晩春から初夏へとめぐるにつれ、桜はそのことが少し気にかかり始めていた。
 追い風なぁ、と瀬々木は目尻を下げて笑った。
 
「あいつもまた妙なたとえを使う」
「瀬々木は、意味、わかるの?」
「いんや。そこまでは俺にはわからないな」
「……そう」

 瀬々木なら桜に答えを教えてくれると思ったのに。少しがっかりして肩を落とすと、瀬々木は灰色の眸を苦笑気味に細める。

「――なぁ、桜の樹。お前はその風が吹いてほしいのか?」
「私……?」

 そんな風に考えたことはなかった。望むと望まざると“風”はやってきて、さながら嵐に飛ばされる花びら、木の葉のごとく、桜もまたなされるがまま何処へと運ばれていくしかないと思っていたので。吹き寄せる風の意に桜は従うしかないと思っていたので。けれど、どうなのだろう。桜自身は風にやってきて欲しいのだろうか。それともこのまま、ずっとここにいたいのだろうか。
 よくわからない。
 桜が難しい顔をして考え込み始めてしまうに至って、瀬々木は悪い悪いとでもいうようにこちらの頭を軽く叩いた。この、撫ぜるのではなく、子供をあやすように優しくぽんぽんと頭を叩いてくれるのは瀬々木の癖らしい。貧民窟でも何度かやっていた気がする。瀬々木が頭を叩くとそれまでむずがっていた子供たちが瞬く間に笑顔になるのだから、なんだか魔法みたいだ。ぽんぽんとされ、桜は笑顔を綻ばせたりはしないものの少し表情を緩める。それを見取って瀬々木は手を離した。

「うん、そうだな。じゃあひとつだけ、奴らと付き合いの長い俺から忠告をしてやろう」
「ちゅうこく?」
「橘の姓がつく者はな、基本的にみーんな嘘吐きだ。嘘吐き一族。そこを考えておかないと簡単に言葉に惑わされる」
 
 眸に悪戯っぽい光を湛え、瀬々木は愉快そうに笑った。きょとんとしてしまった桜から風呂敷包みを取り上げる。

「俺はこのあと町のほうの往診が入っている。いてもどうせ役に立たないだろうから、お前は先に帰れ」

 どうせ役に立たない、というのはひどい。老翁の淡白な言い草に桜が閉口してしまうと、「少し疲れただろう」と瀬々木がさらりと続けた。口調は相変わらずだったが、その声音にはほんの少しこちらを気遣うような響きがある。けれど桜がその真意に気づく前に、瀬々木はしっしと犬猫でも追い払うかのように手を振って、角を曲がっていってしまった。

 角の向こうへ消えていく老翁の背中を眺めながら、そうか自分のことを心配してくれてたんだ、と桜は思い当たる。それならそうと言ってくれればいいのに。
 外に出てみてひとつわかったのは、ひとというのは時に複雑極まりない物言いを好んで使うということだ。きつい口調でこちらの心配をし、笑顔でこちらを貶める策を練る。一筋縄ではゆかず、ただでさえも会話能力というものが乏しい桜は混乱するばかりだ。雪瀬ひとりをとってみても、いったい何が本当で何が嘘で、どこまで本気でどこから冗談なのか、てんで見当がつかない。
 ほぅとため息をつき、桜は風呂敷を持つ必要のなくなってしまった両手をしばし持て余す。立ち往生してしまってから、瀬々木とは反対方向の通りを歩き出した。




 夕方の大通りはひとの往来が激しく、漂う空気もどこか慌しげだ。何度かひとにぶつかりかけそうになりつつ、桜は診療所への帰路をたどる。
 納屋物の店は暖簾が下ろされ始め、料亭は酒宴に向けて準備中の札がかかる。斜陽が立ち並ぶ家々の瓦屋根に残照を投げかけていた。足元に延びる影は濃さを増し、なんだか追い立てられるような気分になって桜は知らず歩調を速める。

「――そこのお嬢さん」

 ぽしゃん、と凪いだ水面へとひとつ落とされた小石のように、その声はいやにはっきりと耳に届いた。
 思わず足を止めそうになるが、こんなところで自分に声がかかる理由はなさそうなので、そのまま振り返らずに桜は歩調を戻す。

「あんれー、そこの黒髪のお嬢さん。聞こえてますかー? おーい」

 走ると、背中から声が追ってくる。前に回りこまれ、相手の胸あたりに頭をぶつけそうになって、桜はようやく足を止めた。こんな場所で自分が声をかけられる“理由”として、最初に思い浮かんだのは黒羽織だった。都から毬街までを追い掛け回された記憶が蘇り、ほとんど条件反射で銃に手をかける。

「やめといたほうがいいぜー?」

 それをいち早く見咎め、男が忠告じみた制止をかけた。
 桜はぎくりとして顔を上げる。行く手を阻むように立ちはだかっているのは長身の影。逆光となっているせいでよく顔は見えないが、声からするとまだ年若い青年であるらしい。袴と小袖の組み合わせ――どうやら黒羽織は着ていないようだった。けれど、そうなるとますますわからない。こんな見ず知らずのひとが何故自分に声をかけてくるのか。
 胸中に湧き上がった怪訝な気持ちをあらわに桜が眉をひそめると、青年はにやりと愉快そうに口端に笑みを乗せた。

「そんな顔しなさんなー。平気平気、ダイジョーブ。別に取って食おうてんじゃない。やーアナタがお望みならしてもいいんだけどさ、あーそうする? そうしちゃうっ?」

 ずずいとこちらに顔を近づけ、彼は目が合うやぱっと笑った。「よし決まりっ」と何が決まったのかよくわからないが、青年は桜の腕を勝手に引っ張ってどこかへ連れて行こうとする。

「や……っ」

 驚いて思わず身を引けば、おやまぁとばかりにあちらは器用に片眉を上げ、宙に浮いた手を見やって肩をすくめた。

「ちぇー、だめなんだ。つっっまんねぇの」
「つま……?」
「つまんねぇついでに、あのさぁちょっとよろしい?」
「よ、」
「うん、いいよな? もちろんいいはずだっ。いやー親切ですなぁお嬢さん!」

 腕をつかまれたかと思ったら、今度は両手を握られ、ぶんぶんと大きく振られる。こんなに変わり身の早いひとにも、また話があちこちに飛ぶひとにも桜はいまだかつて会ったことがなかった。完全に置いてきぼりになった桜は目を瞬かせることしかできない。

「実はですネー、俺今ひとを探してるんよ。橘雪瀬と……、っあー轟木診療所だったっけ、そこにいるはずの夜伽人形。黒髪に緋色の眸、つまりそこのアナタと同じ容貌なんだけど、知らない?」
「う……?」

 青年のもって回った言い回しがいまいちすぐには通じず、桜は呻くような声を漏らした。小首を傾げてみてから、黒髪、緋色、と考え込む。

「それ、」

 わたしだ、と気づいてから、はたと口を止める。
 あやしい。なんかこのひと、とてもあやしい。とどろき診療所は知らないけれど、さっき雪瀬って言っていた気がするし、何だか変だ。

「知ら、ない」

 答え、桜はきびすを返そうとする。だが、

「おーいおいおいおいおい」

 身を翻したはずみ、宙になびいた髪を後ろからつかまれた。くん、と髪を引っ張られ、桜は無理やり足を止めさせられる。その隙に青年はもう一度桜の前に回りこんだ。

「おじょーさん、そういう見え透いた嘘をつくもんじゃありませんぜ? 嘘吐きはな、真砂さまに舌を抜かれて死んじまうよ」

 死んじまう? 言葉の大半が理解できなかったぶん、語尾だけが妙に浮き立って聞こえる。“怪しい”が桜の中で“怖い”に変わる。桜は今度こそ銃を引き抜いた。ほぼ同時に、青年の手がすばやく動く。
 構えかけた銃口に、とん、と何がしかをあてがわれる。武器にはあまり似つかわしくない、ふっさりとした毛先を見やって、桜はひとつ眸を瞬かせた。これはよく雪瀬がそろばんを弾きながら、使っている――。

「ふで?」
「そ。俺の武器さんですよ」

 しれっと答えてみせると、「さて」と青年は仕切り直しとばかりに声質を変えた。

「まずは自己紹介から。俺は橘真砂(たちばな まさご)。橘分家のあるじ、つまりあの馬鹿とは従兄の間柄とゆーわけ。趣味は遊ぶことだろ、遊ぶことだろ、遊ぶことだろー。で、好きな花は椿、好きな動物はひよこ。好きな本は、朱表紙人妻の章。好きな飲み物は、……まぁまぁそういうわけで! 以後どうぞお見知りおきあれっ」

 ちなみに、と彼は面白がりでもするように薄笑いを口元に滲ませる。飴色の眸がつぅとすがめられた。

「本日は宗家当主サマの命令で、取り逃がしちゃった夜伽人形と雪の字の馬鹿を捕まえに参った次第」

 その言葉に、桜は弾かれたように青年を仰ぐ。
 斜陽に照らし出された青年の髪は、桜の見知った少年と同じ、濃茶色だった。