三章、双樹と猫



 十、


 へんなひとにあったとき。
 桜のとる手段はすなわち、『逃げる』である。

 背後では歌舞伎座の芝居がそろそろ入りの時間なのか、がやがやと大勢のひとが広い木戸口に向かっていっている。次の芝居の演目を声高に店の者が叫んだ。

 ――よってらっしゃいみてらっしゃい、猫と狸の駆け引き三番勝負のはじまりはじまり

 声にあわせて、どんどんと太鼓が鳴らされ、ひとびとの華やぎ声がそれに混じる。
 自分と雪瀬を捕まえに来た、と目の前の青年はそう言った。捕まえに、ということはこのひとはやっぱり怖いひとだし、危ないひとだ。橘真砂、と名乗ったその青年を桜はきっと視線を強くして仰ぐ。その反応が予想外だったのか、あちらは「おや」と目を瞬かせ、すいと筆を流れるような所作で構えた。寸秒の睨み合い。双方相手の出方をうかがう。
 そのとき、どん、と。沈黙を破るようにまた太鼓が鳴った。
 ほんの少し、青年の注意がそちらにそれる。その隙に桜は青年にくるりと背を向け、たっと元来た道を引き返した。

 宵闇に沈み始めた大通りは、提灯がともり始め、かなりのひとでごった返している。駕籠(かご)を担ぐ男たち、とりどりの彩布で着飾った娘たち、その間を縫うようにして桜は走った。
 通りを一直線に駆け抜けてから、横に大きな川を見つけ、急転回、そこに渡されている半月形の橋へ。ここもやはりひとが多い。ひとに突き飛ばされたりして少しふらつきながら、ようよう橋の終わりを見つける。だが刹那、道脇から飛びだしてきた子供をよけようとしたところで、前から来た手押し車とぶつかりそうになった。間一髪、その脇をすり抜ける。
 桜はいったん足を止め、まけただろうか、と後ろを振り返った。しかしすぐにひとごみの中、頭ひとつ飛び出た長身の青年を見つけてしまって。右へ左へと視線を彷徨わせているから、こちらを探している最中らしい。

 どちらへ逃げようか、と桜はおろおろと考え、湯気をくゆらせながら甘酒を売っている店の前で足を止めた。あたりに誰もいないのを見て取ると、外に出されている縁台の下にもぐりこみ、敷かれている朱色の布を下ろす。
 縁台の下で丸まって桜は息をひそめた。
 ひぃ、ふぅ、み、と数える。やり過ごせたろうか。心臓の鼓動だけがうるさい。と、不意に薄暗い視界が明るくなった。

「どんぴしゃ、見―っけ!」

 声に驚いて顔を上げれば、布を引き上げてこちらをのぞいてきている青年と目が合う。

「あっはっは、かくれんぼうでこの俺さまに勝とうなんざ百年どころか一億年早いぜ。そもそも、俺ときたら三歳にしてかくれぼ王の名を極め、四歳にして、」

 得意げに青年が長口上をしている隙に、桜は縁台の下から這い出て、また逃げ出す。

「あー! 話終わってないだろうが! 失敬なー!?」

 しかし逃げ出したことよりは別のところに怒った様子で、真砂は縁台を踏みつけながら、こちらを追ってくる。甘酒を持って出てきた店主が足跡のつけられた縁台を見やって悲鳴を上げたが、どちらも構っていない。
 河原に沿ってある柳並木を桜は疾走する。遅れて真砂がそれを追った。
 日はいつの間にか、山の稜線に半分近くが沈み、空はゆっくりと夜の色に移り変わりつつある。桜は全速力、あちらはちょっと小走り程度、の追いかけっこが続く。四半刻ほどたったろうか、「待―て待て待て」としびれをきらしたらしい真砂が足を止めた。

「俺たちはひとという高等生物なんよ。何が悲しくて毬街追いかけっこ大会を繰り広げなきゃならないわけ。やはり、ここは穏やかに話し合いをしようじゃあありませんか?」

 先ほどとは打って変わった丁寧そうな語り口に気を引かれ、桜はそろそろと青年を振り返った。ほんとう?、と尋ねる。うんっ、とあちらは愛想のよい笑みを浮かべ、おいでとでもいうように手招きをした。威嚇する小動物よろしく少し怯えながら近づいていくと、青年はにやりとその口端を上げ、

「なぁんてな! 嘘―!」

 つかまえたー!とこちらの手首をつかもうとする。
 ひぁ、と桜は慌てて手を引っ込め、もう何が何やらわからず、半ば泣きそうになりながら身を翻した。なんなんだ、このひとは。いったいなんなんだ。
 混乱する桜をよそに、青年は「ちぇ、あともう少しだったのに」とかなんとか呟きながらまたそれを追いかける。

「なぁなぁお名前はー? おじょうさんー?」
「……、」
「うーん、確かさららだったか、さらりだったか、さっくりだったか……」

 残念ながらすべて外れだ。それともざっくりだったけなぁと呟いているうちに青年の声が次第、遠のく。どうやら間が開いたらしいことを感じ取って、桜は道を曲がり、小路へと入る。息はかなり上がってきていた。
 と、前方に廃屋のようなものを見つけ、桜は、あ、と胸中で声を上げる。掘っ立て小屋のようなそこは雨風に長いこと吹きさらしになっていたかのように色が朽ち果てていた。人気はない。
 桜は青年がまだ追いついてきていないことを確かめると、戸をそっと引きやる。中は薄闇に沈み込んでおり、そこかしこに蜘蛛の巣が張っていた。ひとは住んでいないようだ。ほっと息をついて中に入り、桜は差込式の錠を閉めた。

 錠を閉めてしまえば、もはや青年とて中には入れないだろう。これで諦めて帰ってくれるといい。桜は戸に背を預け、ほぅ、と今度は長く息を吐き出す。
 怖いというより、なんだかすごく変なひとだった。本当なんだったんだろうなぁ、と思いを馳せつつ、目を閉じて肩の力を抜く。だが、そのとき、

「“立ち入り禁止、されど中止、みんなまとめて開けごま”!」

 何やら外のほうで変な呪文まがいがしたかと思うと、がくん、と、背をもたせかけていた引き戸が大きく動いた。桜は愕然と目をみはる。確かに錠をかけられていたはずの戸が開いているのだ。

「お邪魔しまーす」

 引きやった戸口からひょいと真砂が顔を出し、中に入ってくる。桜は戸からぴょんと飛びのき、慌てて背後を見回した。けれど、小屋の中に出口らしきものは他にない。
 追い詰められた桜は青年が入ってきたのと立ち代わりに戸から外に出ようとした。だが、取っ手に手をかけたところで、背後から伸ばされた手が戸を押さえてしまう。その手に挟まれていた筆が淡く発光し始めた。
 
「“通行止め。押し売りと夜伽人形お断り”」

 耳元で先ほどと似たような調子ながら異なる言葉が囁かれ、それにともなって筆がさらさらと文字のようなものを戸に綴る。色はない。だが、徐々にそれらは群青色の光を帯びて浮かび上がり、「了」と青年が句点を大きく書いたとたん、光を大きく脈動させた。刹那、急速で色褪せ、ぱらぱらと文字が消えいってしまう。

 目の前で何が起きているのかわからず、桜が取っ手に手をかけたまま、眉をひそめていると、「どうぞ開けてみ?」と真砂が挑発的な声音で囁いた。
 どうして突然そんなことを言い出すのか。桜を逃がしてくれるとでもいうんだろうか。いぶかしく思いながらも桜は視線を落として、扉に錠がかかっていないことを確認すると、ためらいがちに戸を引きやる。
 果たして戸はがたりと大きく軋んだ。しかしそれだけだ。あとはびくともしない。驚き、取っ手に力をこめるのだが、やはり引き戸は沈黙を守っている。錠は確かにあいているのに。何度やってみても戸が開くことはなく、どうして、と桜は途方にくれた。

「ざんねーん、この戸はもう開かないぜ? 俺がそう命令したから」
「ひらかない?」

 そんな、はずない。命令したから、引き戸が言うことを聞くなど。

「そんなの、」
「ありえない? それこそありえないってなもんだぜ。森羅万象、この世は摩訶不思議に満ちてるんよ」

 どうやらこの言葉遊びのようなもって回った独特の言い回しはこの青年の癖であるらしい。回した筆をぴたりと桜の額につけると、彼はにやりと不敵に笑った。

「ちなみに今のは“結界術”なっ。筆で境界を結ぶ。――呪物で空間を切り取って、その範囲に限り、物理的な条件に先行して俺の命令を適用させる。つまり結界内はなんでも俺の言うとおり」

 ケッカイジュツだの、ジュブツだのと知らない単語が飛び交い、桜は眉をひそめた。それゆえ、結びの言葉がわかりやすかったのはある意味救いだったといえよう。とりあえず、彼が筆を回すと何でも彼の言うとおりになってしまうらしい。
 けれど、そんなこと本当にできるのだろうか。不思議に思った桜の胸中に応えるように「可能だぜー?」と青年の声が応える。

「だーってそれを可能にしてしまうのが、術師とやらなのだから」

 おわかり?、と筆先でぽふぽふ額をつつかれる。嫌がって目をつむってしまうと、「わー猫じゃらしと猫みてー!」と感動まじりの笑い声が上がり、えいっと筆先で頬を撫ぜられた。くすぐったい。やだやだと顔を背けようとするのだが、あちらは新種の猫を発見したかのような喜びようでやめてくれない。なぁなぁお前猫なんだろっ本当は猫なんだろっとわけのわからない質問をされ、桜はより混乱を深める。怖い、やっぱりこのひと怖い。涙目になって逃げ出してしまおうとすると、

「待て待て待ちなさい」

 それを阻むように青年の腕が眼前を伸び、とん、と戸に手をつけた。扉を背に青年に囲われるようになってしまい、桜は完全に逃げ道を失ってしまう。

「――もう追いかけっこはおしまい。さすがかくれんぼ王。俺さまの勝ちなのデース。さぁて賞品は何をいただこうか?」

 青年はにやにやと楽しげにこちらをうかがってくる。あいたほうの手で筆をくるくる回しながら、どうしようかなー、と彼は遊びを考えでもするように呟いた。

「やっぱりここは花をあしらって箱詰めにして老帝さまにでも献上しましょうか。いやいや、女郎屋に売っぱらっちまうってのもいいかもな? それとも珍獣屋? なーなーどれがいいっ?」
「――……かえれ、ないの?」

 声に出してみて、はじめて自分が泣きそうになっていることに気づく。どこに行くか、なんてことより、桜からすれば、帰れない、ということのほうがよっぽど重要だった。だって帰れないというのは、もう瀬々木にも雪瀬にも会えないということで。
 もう会えない。その事実が胸を刺す。鼻の奥がつんとして涙がこぼれそうになった。こぶしを握り、きゅっと眸を瞑ってしまう。

 だが、そのとき不意に頭上からくつくつとせせら笑うような声が落ちた。そろりと涙目で青年を仰ぐ。あちらは何やら耐え切れなくなった様子で、腹をよじり声を立てて笑い始めた。

「たのし、やべー楽しすぎる……! うひゃひゃひゃ、だってその顔、も、さいこー!」

 指を差されて笑われ、桜はぱちぱちと目を瞬かせる。その仕草すらも青年の笑いを助長させるだけであるようだ。彼は眦に滲んだ涙をぬぐいやりながら、

「なぁ、お前よく言われるだろ?」
「よく?」
「『ばか』って」

 さらりと言ってのけられ、心ならずも桜は憮然となった。眉根を寄せて真砂を見やれば、あちらは戸に置いていた手を離した。それをすっとこちらへと差し出す。

「改めて自己紹介しましょー。俺は橘真砂。『現在の当主』の命(めい)により、雪瀬の馬鹿への連絡係として参上した次第」
「れんらく?」

 先とは打って変わった説明に、思考がついてゆけない。差し出された手を握り返すこともままならず、桜はきょとんと目を瞬かせる。

「わたし、探してたって、」
「あー嘘うそ。まぁ雪の字は探してましたがね。なんか暇だったから」
「ひま……?」
「うん、楽しかったぜー? かくれんぼ。十年ぶり! いやーまだまだかくれんぼ王の名は捨てたもんじゃないね」

 以後ドウゾよろしく、と真砂は桜の手をつかむとぶんぶんと振る。

 ――橘の姓がつく者はな、基本的にみーんな嘘吐きだ。

 ふと、瀬々木の言葉が脳裏に甦る。早くもそれを実感させられてしまったらしい桜だった。