三章、双樹と猫



 十一、


 この国の都である紫苑(しぞの)は、ちょうど夏越し祓の時期であるらしい。方々の神社では水辺で祓が行われ、石畳には大きな茅の輪が作られて置かれる。そこをくぐったりして遊ぶ子供たちの姿を遠目に眺めながら颯音は木々の合間から降り注ぐ陽射しの眩しさに眸を細めた。梅雨の合間に二三日続く日照りはもはやすっかり夏のものだ。
 市井を抜け、大路の長い白壁に沿って馬を歩かせていると、大内裏へ入るための門が見えてくる。ふた月ぶりか、と颯音は苦笑し、そこに立つ衛兵に通行証である木鈴を渡した。







「――以上が、この件に関する報告です」

 蕪木透一はそう言って文書を閉じた。夜伽略奪の仔細を聞くために召喚された場でのことだ。基本、雪瀬が勝手に雪瀬が勝手に雪瀬が勝手にというのを何重にも言葉という薄布にくるみながら、でも雪瀬が勝手にをあくまで主張しつつ、といった報告を終え、透一は颯音のかたわらにまた戻る。

 昼を過ぎ、傾きかけた日が射し込む禁中奥、御所には颯音と薫衣、透一らの橘一門と、帝の側近が数名、また上座の御簾内には老帝が、その脇には占術師が控える。
 水平に跳ね上げられた蔀から外には、光の加減で紫に見える空が広がっている。不気味な雲行きの空を鴉だけがうるさく啼きたてながら飛び交っていた。橘の屋敷とは違い、風光明媚な眺めの庭には、松が二本植えられており、そこに一羽、居済ましたように白鷺が止まっている。
 颯音はそれを確認し、視線を御簾内へと戻した。

 略奪の件に続けて、本日参内予定だった橘八代の不在について話が移る。それについても透一があらかじめ用意しておいた文書で報告を続けた。
 一連の報告が終わると、いらだたしげな面持ちで話を聞いていた側近のひとりが、ちらりと黒衣の占術師のほうへ目配せしてから、「つまり」と話をまとめる。

「毬街からの帰り道で橘八代は賊に襲われ、命を落としたと。そういうことか?」
「そうなりますね」
「ふぅむ……」

 颯音に問いを投げかけた男はあからさまに難色を示して腕を組んだ。何やら納得のいかぬ部分が多々あるらしい。

「その文書にはいくつか不備が見られる。賊の行方は」
「鋭意調査中です」
「八代の供のうちひとりは到底刀傷には見えない怪我を負っているのだろう。それは」
「鋭意調査中です」
「そもそもどうやって賊は葛ヶ原に入り込んだというのだ」
「鋭意調査中です」
「――おい。その口の利き方は何だ、橘颯音」

 側近の後ろに控えていた衛兵が耐え切れずといった様子で槍を振り上げた。鋭い切っ先が颯音へ突きつけられる。

「鮫島殿自ら貴公にお聞きしているのだぞ。それをなんと無作法な」
「――これは失礼」

 槍をひとに突きつけることは無作法ではないのだろうか、と思わず失笑を漏らしつつ、颯音は鼻先にある槍から目を伏せる。だが、その態度は火に油を注いだだけであったらしい。逆上した衛兵の手が颯音の胸倉をつかみ上げようとする。それを別方向から伸びた長棒が遮った。

「申し訳ないが、うちのあるじから手をお離しいただきたい」

 男の手に長棒の一撃を食らわせると、少女・五條薫衣は長棒をくるりと返して床につける。女子ではあれどその動きには無駄がなく、美しい。もしもその場に棒術の指南が居合わせたならば感嘆のため息を漏らしたに違いない。十七の少女とは到底思えぬ空気に気圧されたか、衛兵は歯噛みをして颯音から手を離す。長棒に叩かれた手の甲をさすりながら、涼しい表情で衿元を直している颯音へ恨みがましい視線を送り、男は少女に向き直って歪な笑みを作った。

「おい、女。帝おわしますこの場での乱暴狼藉は懲罰に値するぞ?」
「おやおや。それはいかんね、なぁ、主人?」

 懲罰という言葉にもかかわらず、少女が怖がる気配はない。薫衣は肩をすくめて軽く一笑をしてみせると、颯音を振り仰いだ。ほんと困る困る、と薫衣に同調して微笑み返し、颯音はおもむろに印を組む。

「これからその狼藉とやらを存分に犯すつもりなのにねぇ」

 短く呪詞が囁かれれば、瞬間、颯音の足元から烈風が立ち起こり、側にいた側近の一人を突き飛ばした。男は座していたもうひとりの側近を巻き込みながら、壁にぶつかって崩れ落ちる。泡を吹き、白目をむいた。
 開かれていた蔀が風の余波を受けてぎしぎしと軋み、御簾が大きく引き上げられ落ちる。そうして呆けた様子の老人、――この国の帝の姿があらわになった。

「颯音っ」

 薫衣が腰元から短刀を抜き、青年に投げてよこす。それを受け止め、颯音はひょいと身軽な動作で混乱の中を抜けると、あらわとなった帝の御姿を見据え、鞘を抜く。――刀を投げ打った。
 老帝がぼんやりしていた目を見開き、小さく悲鳴を上げる。刀の鋭い切っ先がその喉元へ走り、まさに老人の細い喉笛をかっきらんとする。だがそれは寸前で老帝の前に突き出された一本の腕によって阻まれた。

「……外しましたか」

 老帝の前に立ちふさがる黒衣の占術師を仰ぎ、颯音は口惜しげに呟いた。占術師・月詠は颯音を一瞥すると、腕から短刀を刺し抜き、床に捨てた。からんと高らかな音が鳴り響く。

「これはどういうことかな、橘颯音」
「ご覧の通り、帝を弑そうと企んだわけですよ」

 口元に薄く笑みを乗せ、颯音は応えた。笑みをかたどった口が緩やかに口上を連ねる。

「二百年前、初代華雨が誓った忠義を九代橘颯音の名においてくつがえす。橘一族、そして葛ヶ原は今上帝を見限り、朝廷全体に反旗を翻す所存」
「血迷うたか」
「長く血迷うて国を傾けているのはそちらです」

 凛然と告げると、颯音は印を組む。ひっと怯える帝の背をさすってなだめ、月詠は帝を庇うようにその前に立った。
 
「愚かな。このような局面で自らの才能を無に帰すとはな」

 月詠は老帝の背からすっと手を離すと、おもむろに御簾に吊り下げられていた紐を引いた。束ねられていた銀鈴が激しく打ち鳴る。御所にて異変ありとの、しるし。
 颯音、それから薫衣、透一ははっとしてあたりに視線をめぐらせた。間をおかず、騒がしい足音が廊下を震わせ、槍を手に持ち、腰に刀を差した衛兵の一群が押し入ってくる。

「逆賊だ。捕らえよ」
「――それには及ばない」

 月詠が命じ、戦人形たちが構えた槍をこちらへ向けようとするも、機先を制すように口の中で短く呪を唱え、颯音は印を切った。瞬間、横薙ぎの風が衛兵らの前列を引き倒す。その隙に敷居を飛び出た颯音は「扇」と白鷺の名前を呼んだ。
 
「あとは頼んだよ」

 こちらへ向かってくる白鷺とすれ違いざま、言葉をかける。扇はあぁと低い声でうなずき、薫衣、透一が蔀から出たのを確認すると、一直線に御所内を駆け抜ける。先導する白鷺に続き、何百という鴉が御所内へとなだれこんでいった。







 午後の診療所は閑古鳥が鳴いている。そんな具合である。

 雪瀬は背後に薬棚がずらりと並んでいる上がり框に腰掛け、朱表紙を無為に繰りつつ、たまに思い出したかのように半分開かれた戸口へと視線を向ける。太陽ももうずいぶん傾いてきていたが、午後診療所を訪ねてきたのは頼んでおいた薬を取りに来たという老翁だけである。いや、急患が来られてしまっても困るのだが。

「にしても、わっかんないなぁ」

 雪瀬は朱表紙を閉じると、大きく伸びをする。

「夫がいるのに何で若い男と一夜をともにしちゃうわけ、このひと? そのあと後ろ半分ずぅっと悩んでおいて結局自害するなら最初からやらなければいいでしょうに、ねぇそうは思わない?」
 
 戸口に向かって声をかけると、しばらくしてそろそろと扉から年端も行かない子供が顔を出した。身にまとう渋染めの単はひどく汚れていて、ほとんどぼろ布といってよい状態だ。貧民、――このあたりだと貧民窟の子だろう。
 雪瀬は朱表紙を置くと、上がり框からひょいと顔を出す。

「瀬々木診療所にどんなご用でしょうか? お嬢さん」
「瀬々木、やすみー?」
「あいにくね。でも問題ない。俺でよければ聞くよ?」
「お兄ちゃんはお医者さま?」
「お医者さまの家の居候」
「いそうろー?」

 少女は疑わしげに寸秒こちらを見上げた。お医者さまではない居候に話をするべきか、それとも引き返してしまうべきか少し悩んだらしい。

「あのね、頭がね」

 結局、言うだけ言ってみることに決めたのか、少女は後頭部につと手をやった。

「すごくずきずきするのー」
「ふぅん? ずきずき、と」

 雪瀬は子供の前にかがみこんで、手の当てられた部分を見やる。ひとめ見るなり、なるほど、と“病状”を理解できてしまった。

「なおるー?」
「ちょろいちょろい」

 軽く笑い、雪瀬はぽす、と少女の頭に手を置く。

「はい、なーおった」
「え?」

 少女は目を瞬かせ、おそるおそる後頭部から手を離した。

「あや? いたくない」
「でしょ?」
「すごーいっ、おにいちゃんまほーつかいみたいだ!」
「そうそう、実は何を隠そう魔法使いなのです俺」
「おぉっ」
「というわけで今のは内緒ね。誰かに言ったら魔法が解けちゃうから。いい?」
「うん、わかった!」
「じゃ、早く家にお帰り」

 そう促すと、彼女はぴょんと軽い跳躍で戸口に立って満面の笑みを浮かべる。

「おにいちゃん、ありがとっ」
「どういたしまして」

 ひらひらと手を振り、小さな背中を見送る。彼女が細い路地の奥に完全に消えてしまうまで待ってから、雪瀬は戸口の前に座り込み、さて、と右手でつまみあげたものを眼前へ掲げる。
 狐のような姿をしたそのあやかしは、雪瀬の手の中でもがもがと身体をばたつかせていた。先ほどの少女に憑いていたものである。どーどーとなだめようとすると、がぶりと手に噛み付いてきた。いだだだだ、とひとり声を上げてみてから、暴れ馬をてなづかせる要領で、狐の頭をぺんと叩く。驚いたように鳴き声を上げた狐は、けれどとたんにしおしおと雪瀬の手の中でおとなしくなった。甘えるような声を上げる狐の頭を撫ぜやりつつ、雪瀬は考え込む。

「うーん。これ、どうしよ」
「あら。何を、どうするんです?」

 独り言であったはずの言葉に、女の甘い声が返される。すぐ前で立ち止まった雪駄に気づいて、雪瀬が顔を上げれば、若い、まだ少女と言ってもいい年頃の娘が微笑まじりにこちらを見下ろしていた。
 やにわに吹いた風が薄花桜の振袖を翻し、焚きこめられた香の匂いがふわりと鼻腔を掠める。左右に細く編まれて垂れた髪は、銀色。きれいだとかきれいじゃないだとかいう以前に嫌な色だと、思った。
 少女は雪瀬の右手を見やって、小首をかしげるようにする。警戒まじりに少女を仰ぎながら、雪瀬がおもむろに戒めを解けば、狐はくぅと鳴いたあと空に霧散した。少女は碧眼を瞬かせ、花色の唇に薄く笑みを載せる。

「“見つけた”。あなた、しらら視ね?」

 雪瀬は目をすがめ、少女の声を聞いた。