三章、双樹と猫



 十二、


 つまりは、と数歩前を歩く青年は言う。

「一番暇そうな俺があの馬鹿の連絡係なんていう面倒くさい仕事を押し付けられたんよ。かわいそうだと思わねぇ? これでも俺分家のあるじさまなのにさー。ったく、あの野郎……。って、おい勘違いするなよ。こんな雑魚っぽいことしてるけど、俺実はすっげー偉いんだからな? 分家のあるじさまだし、あの馬鹿とは格が違うんよ。風の恩寵なら俺のが受けてるしなっ」

 桜の相槌を待たずに真砂は勝手に自分の身の上やら何やらを話し続ける。桜としては別に聞きたいわけでもなかったのだが、青年が自分から話すのだから仕方ない。それにしてもよくこんなにずっとひとりで話していられるなぁと少し感心めいて考えていると、そこでようやく話の種がつきたのか真砂がふと口をつぐんだ。

「………どっち?」
「右」
「あぁそうだったそうだった、危ねー」

 真砂はぽむと手を叩き、また歩き出す。
 どうやらこのひと、ひどい方向音痴であるらしく、人探しなどと言いながら先ほどは単に道に迷っていただけらしい。しかも瀬々木診療所を轟木診療所と勘違いして覚えていたため、ひとに聞いたところで誰からもそんな診療所は知らない、と返されたのだという。それで途方に暮れていたところに桜が居合わせたらしい。真砂にせがまれ、仕方なく彼を雪瀬のもとへ案内することになってしまった。

「なーなー、“さっくり”」
「さくら」
「ん? 写楽?」
「さくら」
「……しゃっくり?」

 三度目を問い返されるにいたって桜はこの青年に名前を覚えてもらうことを諦めた。しゃっくり、しゃっくり、とご満悦そうに繰り返す青年をよそにしばし考え込んでから、桜は自分よりはるか長身の青年をうかがうようにする。真砂はおやぁ?とばかりに口端に笑みを乗せた。

「んー、何デス? しゃっくりサン。真砂くんに質問?」
「……さっきの、“れんらく”、って?」
「んあ? ――あぁ聞きたい?」

 桜がこっくりうなずくと、「しゃっくりサンは馬鹿で素直ですなー!」と真砂はどこからともなく取り出した筆でぴしぴしと桜の額を叩く。さすがの桜とてなんだか褒めているのとは違う、というくらいわかる。むぅっとしてしまうと、真砂はおかしそうに笑って筆を手習いの先生のごとく宙で弾みをつけて振った。

「実はなー、実はさ実はっ。このたび宗家の当主が変わったんよ。橘八代から橘颯音……あいつの兄にさ。俺は、だから八代サマじゃなく、颯音の奴に命じられてここに来たとゆーわけ。用の中身は内緒」
「……ないしょ」
「ふっふーん、ないしょないしょ」

 どうやら教えてくれる気はないらしい。――訊くことはできても、桜には交渉術や駆け引きの能力がてんでなかった。にやにやと楽しそうに笑うだけで先を続けてはくれない青年を相手に何をどう言ったら自分の欲しい答えを返してもらえるかもわからず、桜はしぶしぶ口をつぐんだ。それから、ね、とでもいうようにためらいがちに青年の袖端を引く。

「……“用”は“追い風”なの?」
「意味わかんねぇけど、とりあえず風の用事じゃねぇよー?」

 違う、そんなことが聞きたいのではない。ううんと桜は少し言葉を選ぶような間を空け、もう一度青年の袖を引く。

「用が来たら雪瀬、どこか行っちゃう? そんなことない?」

 自分が探されていたわけじゃない、ということに安堵すると同時に、代わりとばかりによぎったのは、そちらの不安だった。扇は近頃、また顔を見せていない。雪瀬に聞いたら、“用があるからね扇は”と答えていたので、真砂のいう“用”が今度は雪瀬を連れて行ってしまうのではないかと思ったのだ。

「さぁねぇー? わかんなーい」

 けれど真砂から返ってきたのは存外意地悪い答えだった。そう、と呟いたきり、桜は俯き加減になって黙り込んでしまう。

「うーわーかわいいねぇ、夜伽というよりむしろ雛鳥? それか、犬? 忠犬?」
「わたし、いぬじゃな、」

 けたけたと笑い声まじりに揶揄をされて、桜はぱっと反論の言葉を口にしかける。と、ちょうどそのとき長屋の影から瀬々木の屋敷が見えてきた。

「真砂、ここ」

 桜は小走り気味に戸口へ駆け寄ると、扉に手をかけた。何の気なしに戸口へと視線を落とす。そこに点々と花ひらく赤を見つけて、桜は眸を瞬かせた。花じゃない。血痕、だ。
 その中にいるはずのひとと血痕とが頭の中でいつにない速さで結びつき、桜は心臓を跳ね上がらせる。

「おや。何か?」

 こちらの異変を感じ取ったのか、真砂が桜の頭越しに戸口へと目を向けた。その眉が不意にひそめられる。

「……き、」
 
 きよせ、と少年の名をつっかえつっかえ口にして、桜は戸口にすがりつこうとした。それを青年の足が遮る。戸口を塞ぐように伸ばされた足を見やって、桜は眉をひそめた。

「どいて」
「やーですよ」
「……どうして?」
「いじわるしたいから」

 本気なのか冗談なのか判別のつかぬことを青年は平然と言ってのける。こんなときに、と歯がゆく思いながら桜が自分の行く手を塞ぐ足と戸とを交互に見ていると、

「あーれま。もしや手遅れ? ご愁傷さま?」

 何やら物騒なことを呟きながら、真砂は足を下ろして懐から筆を出す。そのわずかな隙をつき、桜は戸に手をかけた。

「あ、馬鹿犬っ」

 真砂が舌打ちし、桜の肩をつかもうとする。けれど桜のほうが幾分動きは速い。頭によぎった不吉な想像を打ち払わんと、桜は戸を半ば壊すような勢いで引き開ける。
 内側の三和土にも、同様に血痕が乱れ散っていた。ぞっと身体が冷えいるような感覚。桜は胸に手を押し当て、「……や、どこ、きよせ、」震える声ですがるようにその名前を叫ぶ。きよせ、きよせ、と泣きそうになりながら繰り返していると、

「――あや。お帰り」

 聞き慣れた声が奥のほうから降った。桜はびくりと顔を上げ、上がり框になんということもない様子で腰掛けている少年の姿をみとめる。言葉を二三度つまらせてみてから、ふぁ、としゃくりあげるのを寸止めにしたような息をこぼした。

「っくりした……」
「何に?」

 いぶかしむような色を帯びた声が返ってくる。桜は首を振って、もう一度長く息を吐き出した。雪瀬は上がり框に腰かけ、水盆で手を洗っている最中らしい。それを見やって、桜はひとつ目を瞬かせた。彼の手から腕にかけては今しがた怪我でもしたように鮮血に濡れ、水盆に湛えられた水がゆるりと赤く染まっているではないか。

「それ、」

 桜はひょこひょこと雪瀬のそばに駆け寄って、どうしたのとか大丈夫とかいう言葉も浮かばないままに、ついと彼の袖端だけを引く。その袖もまた赤い染みをところどころに作っていた。――確か瀬々木がひとはたくさん血を失うと死んでしまうと言っていた。でもたくさん、ってどれくらいなのだろう。これくらいだって桜には十分“たくさん”に見えた。桜は顔を蒼白にさせ、次第涙目になる。

「……あーあのね、桜。もしかして勘違いしてるかもしれないけど、」

 しゃくりあげ始めた桜の頭を軽く撫ぜ、雪瀬は苦笑を浮かべた。

「怪我したのは俺じゃなくて、あちら」
「……あち、ら?」

 桜はぎこちない所作で雪瀬が指し示したほうを振り返る。奥のほうからはちょうど羽織を肩に羽織った少女が出てきた。見れば、その左腕には布が巻かれている。――雪瀬が怪我をしたわけではなく。雪瀬が手当てをしていたのか。
 ほっと息をつかえがちに吐き出し、今一度少女へ視線を上げたところで桜は眉をひそめる。
 薄花桜の小袖に、紺の帯。背に垂れる銀髪は細くみつあみを結っている。そして水の色を深めたかのような碧い眸。その姿には微かに見覚えが、あった。桜が少女を見つめたまま固まってしまっていると、少女のほうもこちらの姿を見取ってひとつ碧の眸を瞬かせる。瞬間、その顔にぱっと花綻ぶような笑みが咲いた。

「桜―!」

 きゃあああと歓声が上がる。桜がきょとんとしているうちに駆け寄ってきた少女はか細い腕を桜の首に回した。おもむろにぎゅうと抱きしめられる。

「久しぶり、久しぶりね? 会いたかったわ、私の娘―!」

 ふぁ、と思わず桜は身体をこわばらせるが、相手はこちらに身をすりよせるようにさらに比重をかけてくるものだから、支えきれなくなって三和土にぼてりとふたりで倒れこんでしまう。少女の下となったせいで、背を打ち付けてしまい、桜が痛みに寸秒声をなくしていると、

「あらあら、ごめんね? 痛かったわね?」

 少女は桜から腕をほどき、身体を起こすのを手伝ってくれる。ふんわりと懐かしい花の香が鼻腔をかすめた。顔を上げた先にあった少女をみとめて、桜は眸を大きくした。

「沙羅(さら)?」

 思わず声を上げると、少女は微笑し、ええ久しぶりねとうなずいた。