三章、双樹と猫



 十三、 


 ――見つけた。あなた、しらら視ね?
 ――しららみ、って?

 雪瀬が尋ね返すと、少女はあらまぁと困った風に苦笑し、勘違いだったかしらと首を振った。それから血の伝う左腕を見せ、医者を探していたのだと説明した。



「だからね、ずっとどこかにお医者さまがないか探していたのよー」

 沙羅は話しながら右腕を大切そうにさする。薄花桜の小袖からのぞく細い腕には白い包帯が痛々しく巻かれていた。
 ――話をまとめるとこうだ。沙羅は旅の途中で暴漢に襲われて怪我をし、手当てもままならぬまま途方にくれていたらしい。とりあえず薬草だけでもと毬街の通りで店を探していて、その道すがらたまたま目に入ったのが瀬々木診療所だったのだという。

「ともあれ探しものが見つかってよかったわ」
「……探しもの?」
「ええ、久しぶりに娘に会えましたからねー?」

 沙羅は桜の頭を抱き寄せ、頬をすり寄せるようにする。ふんわりと濃厚な花の香がくゆり、桜は少し落ち着かない気分になった。薫物は宮中の匂いを桜に思い起こさせるのだ。戸惑った風に眸を伏せていると、かたん、とおもむろに背後の襖が引きやられる。中へ入ってきた少年を仰いで沙羅は桜から身体を離した。姿勢を正し、流麗な所作で頭を下げる。

「先ほどはご親切にありがとうございます。お代はいかほど?」
「やー、別にいらない。俺、医者じゃないし」
「あら、じゃああなたは瀬々木さまのご子息か何かで?」
「あー……、」

 雪瀬はそこで思案げに視線を泳がせ、「――二番目のご子息です」と答える。
 ごしそく?と桜は首をかしげた。雪瀬は瀬々木ではなくて橘八代の息子ではなかったのだろうか。それとも雪瀬には父親がふたりいるのだろうか。いぶかしく思って桜は雪瀬の袖端をついついと引く。

「雪瀬は父親がふた、っひぁ」
「ねぇ桜、甘いものあるからあっち行こ。――あ、お茶入れましたからどうぞ?」

 だが、最後まで言い切らないところでおもむろに雪瀬の手が伸び、桜の口を塞ぐ。後半の言葉は沙羅に向けて投げかけ、雪瀬は口を塞いだままもがく桜の脇に腕を差し入れ、ずるずると座敷へと引っ張っていった。




 通された客間には、桜、沙羅、雪瀬、それから真砂という実に奇妙な組み合わせが一同にまみえることとなる。盆に載せた茶をふたりに出し、雪瀬は自分のぶんも注いで腰を落ち着けた。すかさず真砂がはいはいっと手を上げる。

「雪の字、俺のはー?」
「この家にお前に出す茶はありません」
「は?」
「自分で淹れてきたら?」
「へぇぇぇぇぇ可愛くないこと言ってくれますなぁ。覚えてろ」

 真砂はあからさまに不機嫌そうな表情になると、ちっと舌打ちする。机に頬杖をついてそっぽを向くが、一方の雪瀬は涼しい顔だ。……確か従兄弟と真砂は言っていたはずだが、もしかして仲が悪いんだろうか。
 
「そういやまだ聞いてなかったんだけど。どこのお知り合い?」

 冷やしたお茶に口をつけてから、雪瀬がほんの少し首を傾けるようにして尋ねた。えと、と桜は顎に手を当てて説明の言葉を考える。けれどそれを遮るように沙羅が楚々とした所作で飲んでいた湯飲みを受け皿に戻した。

「知り合いも何も。母です」
「……はは?」
「ええ、母親です」

 沙羅は桜を引き寄せ、胸を張る。とたん雪瀬は疑わしげに桜と、それからせいぜいそのふたつかみっつくらいしか上に見えない沙羅とを見比べた。

「本当に産んだんじゃ、ないよね?」
「それはね。『人形』は女の腹からは生まれませんもの。“育ての”母、です」
「なぁなぁ雪の字―」

 と、真砂が何がしかを思いついた様子でまたはいっと手を上げる。

「じゃあお前は父ですって言えよ」
「はぁ?」
「面白いから」
「うん、話がややこしくなるからお前出てけ」
 
 にっこり笑顔で容赦なく突っぱねられ、真砂はけっとまた舌打ちした。つまんねぇのーとぼやきながら、それでも雪瀬の言に従って腰を上げて外へと出て行く。お酒お酒、とすれ違いざま、呟く声が聞こえたから自分のぶんの飲み物を取りに行ったらしい。
 
「それでおかあさんは? 桜を迎えに来たの?」
「ええ、そのつもりですけど」
「……、迎え?」
「ふぅん、連れ帰ってそれからどうするの?」
「また昔のようにするだけです」
「昔のように、お店に並べるわけですか」

 雪瀬はゆるく一笑する。彼にしては珍しい、明らかな嘲笑だった。このひとが他人に対して侮蔑のような負の感情をあらわにするのは初めてではないだろうか。挑発じみた言葉を受けて、沙羅は碧眸をすがめる。

「――それが何か?」
「いえ、別に」
「……ねぇ、迎えって?」

 完全に話から置いてきぼりにされた桜は雪瀬の袖を引いてもう一度同じ言葉を繰り返した。自然、すがるような色を帯びた眸になる。だって迎えなんて話、ちっとも聞いていない。桜はずっと雪瀬と一緒にいられるってそう思っていたのに。

「そうよー? 空蝉さまのところに一緒に戻りましょっ」

 沙羅に微笑みまじりに抱きしめられるが、桜はゆるく首を振った。

「――……雪瀬は来るの?」

 桜は沙羅の肩越しに雪瀬を見やる。湯飲みに口をつけながらあちらは苦笑して、「俺はそちらのおかあさんの息子じゃないからねぇ」と答えた。息子じゃない。つまり沙羅が迎えに来たのは桜だけということだ。なんだか別の飼い主に預けられる子犬のような心情になって、桜は俯き、ぶぶんと首を振った。そんなの。桜は雪瀬が一緒じゃなきゃ嫌だ。雪瀬と引き離されるのはそれがどこであろうと嫌なのだ。

「あらあら、桜。どうしたの?」

 少し涙目になってきてしまうと、沙羅がなだめるように頭を撫ぜやる。女のひとらしい沙羅の所作はとても優しい。静かに身じろぎをしないでいると、よい子ねぇと沙羅がくすくす笑った。

「どうやらこの子、あなたに懐いてしまったようですし。私もしばらく旅の療養をしたいので、よろしければ数日ここに置いてもらっても構いません?」
「数日……?」

 炊事洗濯はやりますし、と続けた少女を雪瀬は飴色を深めたような眸をすがめて眺める。どこか探るような視線に桜があれ、と思ったのもつかの間、

「どうぞ? お気に召すままご自由に」

 実にあっさりした答えが返された。桜は眉をひそめる。だって雪瀬はここに身を置いて以来、むやみやたらにひとをこの家に入れることをとても厭うていたのに。いったいどんな風の吹き回しなのだろうか。
 そっとうかがうような視線を向けた桜へ、彼はなぁに?とばかりに透明な笑みを返す。その真意は欠片も読み取ることが出来ない。もともと何を考えているのかわからないところのあるひとだけど、今は意図的に隠されてしまっているような気すらするのだった。
 雪瀬は少し桜の答えを待ってみてから、こちらが口を開く気配がないのを見て取ると、お盆を脇に持って腰を上げる。

「それじゃあ俺はこれで。寝所は桜と一緒でいいよね?」
「ええ、もちろん」
「よかった。お客さま用の布団が押入れに入っているから、それを使ってくれます? あと何かわからないことがあったら桜に聞いて。――どうぞごゆるりと」

 柔らかな声が落ち、襖が閉められる。少年の姿が視界から消える。――何か変だ、と思ったのはほとんど直感のようなものだ。飼い主に四六時中べったりとくっついている子犬は時として本能で飼い主の異変がわかるものなのである。桜は閉じられてしまった襖を眺めやってから、ぱっと立ち上がった。

「さくら?」
 
 こちらの挙措をいぶかしんだのか、腕を取ってきた沙羅へ小さく首を振って、桜はそろりと襖を開いた。後ろ手に襖を閉め、内廊下へ目を向ける。雪瀬、雪瀬、と少年の影を探していると、


「それで? 何の用?」


 果たして、少年の声は微かながらすぐに聞こえた。いつも桜に向けられるものよりはどこかそっけなく、淡白さがより際立っているような調子であったが、まぎれもなく雪瀬の声だ。桜はそろそろと足を忍ばせ、声がしているほうへ向かう。

「だぁーかーらー、そこのきみの過保護―な兄貴に言われて見に来てやったんですよ。いい奴だよなー俺。も、自分でどうしてこんな聖人君子のごとき慈愛に満ちた心を持っているのか不思議になるねっ」
「それ、『自』愛の間違い」
「ふっふーん、おうともよ! 俺、自分大っ好きだもーん」

 声がだんだんと近くなる。
 角を曲がった先の床に、雪瀬と真砂の影が落ちているのを見取って、桜は足を止めた。どうやら玄関のほうにいるようだ。

「とにかくくれぐれも“しらら視狩り”には気をつけてね、ってさ」
「あーそれ、この前扇にも言われた」
「ああ例の白鷺な。ふぅーん。もうここらじゃ噂になってるん?」
「謎の辻斬りって話だけど」
「おお! そういえばさっき俺、行きがけにその死体とやらを見てきたんよ。ちょうど奉行所の連中が引き取っててさ。楽しそうだったから」
「悪趣味」
「はぁー? 見るだけじゃん。――なぁなぁ死体な、今回は少年だったんだけどなっ、あれほんと鮮やかだよな! 首を一撃必殺っ」

 あーそうとやる気のない返事を返した雪瀬に、俺わかっちゃったんよ、と真砂が声をひそめて囁く。

「辻斬り犯さぁ、女か子供だ」
「……女子供? なんでそう思ったわけ」
「傷口がさ、下からだった。上からじゃなくって」

 こうやって払うようなかんじ?、と自分の首筋を指で示してみせて、真砂はにやりと笑った。

「だから辻斬りさんは相手より背が低かった、ってことになる。少年より背が低いってことは女か子供。さすが俺さま! なんと深い洞察力であろうっ!」
「ふぅん……」

 後半の賛美にはまったく耳を貸した風でもなく、雪瀬は考え込むように目を伏せた。女か子供ね、と真砂の言葉を繰り返す。

「ま。辻斬りが本当にしらら視を狙ってるんなら、お前も気をつけときなぁねってお話」

 真砂の影が動く。かたん、と扉が開く音がした。

「帰るの?」
「そろそろあのやぶ医者帰ってくるじゃん。俺、医者嫌いなんよ。ひとの身体見やがってあれが悪いこれが悪いと気色悪いっ」
「あそ。……そういや、颯音兄はもう都についた頃?」
「じゃね? まだ早馬は着てないけど、もしや明朝あたり瓦版になるかもだぜー?」
「……うまくいったかな」
「失敗したら面白ぇのに」

 ぽそりと呟いた真砂に雪瀬が不穏げな視線をやる。冗談の通じない奴、と肩をすくめ、真砂は戸を開いた。

「ご苦労サマ」

 あまり相手をねぎらっているとは思えない、棒読み口調の言葉がその背にかけられる。真砂がどんな表情をしたかは桜の位置からは見えなかった。ただ、扉の閉められる音だけが答えるように響く。
 それにしても、しらら視狩りだの辻斬り、だのなんだんだろう。いまいち要領を得ず、首をかしげて先のふたりの会話を桜が脳裏で反芻していると、雪瀬の影がおもむろに動いた。思考を打ち消し、慌てて道を引き返そうとするも、
 
「立ち聞きするなら、もっとうまくやりましょーね?」

 背後からそんな声が投げかけられる。
 ――気づかれていた。愕然となって、桜は蛇に睨まれた蛙がごとく身をすくませた。いったい、いつから。まさか、最初から?
 立ち聞き、するつもりなんてなかったのだが、結果的にはそれと同じことをしていたのに変わりはない。怒られてしまうだろうことを覚悟して、桜はそろそろと雪瀬を振り返る。しかしあちらは淡く微笑んだだけで、「さぁてそろそろ忙しくなるかなー」と桜の横を一陣の淡い風のごとく通り抜けていった。