三章、双樹と猫



 十四、


 暮れゆく茜空の都では、閉市を告げる太鼓の音が九回、鳴らされた。大路の道端に筵(むしろ)を敷いて市を出していた商人たちがそさくさと品物をしまい、店を畳み始める。俵を積んだ荷車、家路に急ぐ女子供でせわしない大路に、さてまぎれこむように移動する者がここに三名。
 
「お兄さん。売れ残りだけど安くするよ? 買わない?」

 熟れた橙色の夏蜜柑を手にした女に声をかけられ、青年がつと足を止める。じぃっと女に期待に輝く眸で見つめられ、青年は淡く苦笑して後ろの少女と少年に少し待つよう手振りで示した。

「じゃあもらっておこうかな。いくら?」
「四半銀貨二枚」
「高いなぁ」
「なら、一枚でもいいよ」

 にっと笑った女へ青年はそれならと財布から小さな銀貨を取り出した。が、しかし、刹那遠方から走ってきた黒羽織の一群に気づき、少女が険しい表情で青年の袖を引く。女が不思議そうに瞬きをしてみせた頃には、三人はすでに彼女の前から消えうせている。
 手に持ったままになってしまった夏蜜柑へと視線を落とし、あらあらまぁまぁと女は小首をかしげて頬に手を当てる。その前を、黒羽織の一団が提灯を片手に駆け抜けていった。



 黒羽織の中央軍があたりからいなくなったのを見取って、茶屋の店先から薫衣はひょいと顔を出した。頭にかぶった頭巾をうざったそうに取り払い、まずいな、と忌々しげに舌打ちする。

「扇たちにあの場を任せて、なんとか禁中から脱出したものの……、すごい騒ぎになってやがる」

 あらかじめこちらよりの女官のつてで確保しておいた抜け道から御所を逃げ出した颯音たちは、しばらくの間、都の片隅に隠れ潜んで騒ぎが落ち着くのを待っていた。だが、日の落ちた今も見回りの黒羽織が減る様子はない。どころか彼らはますますその数を増やしているようですらあった。ちょうど南方の一族の反乱の鎮圧のために都からは兵は大半が出払っていると聞いていたのだが、腐ってもこの国を掌握する王朝だけあって、これくらいの兵は鈴の音ひとつで動かすことができるらしい。
 次第焦燥を帯びる薫衣と透一をよそに、当の本人は茶屋の縁台に腰をかけて風を読みでもするようにのんびり空を仰いでいる。おい颯音、と薫衣が睨めつけるような視線を青年へとやると、「ああそうだねぇ」と颯音は空から視線を落とす。

「さすがに夜四ツに都の大門が閉門されてしまう前にはここを出ないといけないよねぇ」
「でもこの調子じゃ、門までたどりつけたにしても通してくれないのがオチだと思うぞ? 通行証の木鈴には橘紋入ってるからばればれだし」
「ふぇぇぇぇそれじゃあ僕ら、袋の鼠ですかっ?」

 透一が顔を蒼白にさせ、悲鳴じみた声を上げる。颯音の腰掛ける縁台に手をつき、「どうしよ、どうします颯音さん?」と青年へと涙目を向けた。

「ももももしもこのまま中央さんにつかまりでもしたら、僕ら拷問された挙句、市中引き回しですよー!?」

 言っているうちに実感を伴ってきたらしい、透一は灰色の眸を潤ませ、えぐえぐと泣き始めた。情けない、とごちて薫衣が肩をすくめる。透一というのは颯音がいるとどうにも幼くなってしまっていけない。甘え、なのだ、ある意味。信頼するあるじに対する。やれやれといった風に透一の背中を見ている少女に苦笑気味の視線を投げやると、颯音は透一の頭を励ますように撫ぜた。大丈夫、とつとめて穏やかな声をかける。

「策はある。とりあえずこれ以上都にいるのもよくないから、太陽が落ち切る前に門に向かうよ」
「でもなぁ、」
「大丈夫だから」

 有無を言わせぬ口調で告げると、颯音は刀の鞘についた木鈴をふたりへとかかげて見せた。

「――木鈴?」

 先ほど使えないという話をしたばかりだというのに。透一と薫衣が一様にいぶかしげな表情になる。消えかけた夕光に、三つ巴紋の入ったその鈴は滑らかな木肌を艶やかに光らせた。




 日没を前にして、都の大門には都に入る旅人と都を出る旅人とが押し寄せ、長い列を作っていた。夜空に星が瞬き始めた暮れ六ツの頃に、ようやく颯音たちの番が回ってくる。篝火の横に立つ衛兵に颯音は刀の鞘についていた木鈴を渡した。透一が颯音の背中にくっつきながらびくびくと怯えまじりの視線を衛兵にやる。
 
「これは――……」

 鈴の紋を見取って衛兵は目をすがめた。篝火の照り返しを受けてその表情には般若のごとき恐ろしさが加わる。ううっと透一は一巻の終わりとばかりに目を瞑った。

「どうぞ。百川諸家三名さまですね」
「ほぇ? 僕はかぶら…、」
「もちろん! 百川紫陽花、漱、刀斎の三人でございます」

 思わず素直に返しかけた透一の口を颯音と薫衣はすばやくふさぐ。心なし強い語調で言い切ると、そさくさと木鈴を受け取った。道を開けた衛兵の横を歩いて門を抜ける。確かに都に出入りするひとびとの規制をはかる大門にはすでに橘一族を取り逃がすな、との達しが来ていたが、しかしながら兵の中でも下っ端の部類に入る彼らは橘一族の顔までは知らない。加えて事が起こったのは昼、明日の昼ほどにならなければ、人相書きのたぐいも出回るわけがなく。衛兵たちは通行手形兼身分証である木鈴の紋から颯音たちを瓦町の百川諸家と判別したらしかった。もちろん、百川諸家は規制の対象外だ。
 背後の朱色の大門を振り返り、颯音はくすりと微笑んだ。脱出成功、である。







 さらりと背中にかかった長い銀髪は緩く波打ち、行灯の橙の光を受けて淡くきらめく。その髪を手に取ると、みっつに分けて房と房とを織り込むようにして編んでいく。湯浴みのせいでしっとりと濡れた髪は上質な絹のように手触りがよい。桜はずっと昔、こんな風に少女の髪を無心に編んでいるのが好きだった。

「こういうの、久しぶりねー」

 同じことを考えていたのだろうか。沙羅が懐かしそうに長い睫毛を伏せて呟いた。うん、と心なし弾んだ声でうなずいて、桜はまた手元へと注意を戻す。不器用な桜は気を抜くと房を取りこぼしてしまうのだ。そうすると沙羅の柔らかな髪は瞬く間にばらばらになって一からやり直しになってしまう。

「ねぇ桜、あの子とはどうして知り会ったの?」
「あのこ?」
「橘の子」

 雪瀬のことか、と理解して、桜は少し考え込むようにする。

「怪我してたとき。たすけてくれたの」
「ふぅん? なんだやっぱり“橘”なのね」

 沙羅が呟いたのを聞いて、桜は雪瀬が沙羅の前で瀬々木の息子だと名乗っていたことを思い出す。今の、桜が勝手に答えてしまってはまずかっただろうか。とはいっても、沙羅は最初から雪瀬が橘であることをわかっていたようだから隠し立てしても仕方ないような気はするのだけども。

「それで、あなたは彼に助けてもらって?」
「うん、」
「それから今までずっと一緒にいるの?」
「……うん。――っわ、」
 
 房を取り落としそうになって、桜は小さく声を上げる。危ういところでなんとか手ですくい、また編むことを再開した。ひとつひとつ丹念に編んでいって、最後に紐でくくって完成。きゅっと何やら少しよれた蝶々結びをしてみせた桜に、「終わった?」と沙羅が尋ねる。出来上がった三つ編みを手にとって見やって、沙羅は花色の唇に笑みを綻ばせた。

「ありがとうね、桜。――おいで」

 手招きされ、桜は沙羅のかたわらに座り込む。すると、指のほっそりした綺麗な手がこちらの頭を撫ぜやった。くすぐったそうに目を細めれば、髪をゆっくり滑り降りて、ひんやりとした手のひらが桜の頬を包む。

「えらいわ、“よい子”ね。あなたは」
「よいこ?」
「そうよ。いつだってひとの言うことを聞くよい子だわ」

 そうなのだろうか。ひとの言うことを聞くのはいいことなのだろうか。
 沙羅の言葉に桜は少し疑問を感じたが、それはついぞ強い反発などに変わることはなかった。そんなものなのかな、と思ったくらいである。

「だからね桜。空蝉さまのもとに一緒に戻りましょうね」
「……雪瀬は?」

 先ほどと同じ問答を繰り返すと、沙羅は小さく微笑み、「その必要はきっとなくなるわ」とどこか遠いところを眺めながら呟いた。







「ええ、見つけました。橘雪瀬」

 降りしきる夜雨の中、水たまりから浮き出るように現れた金魚へと少女は声をひそめて囁く。ぼそぼそと金魚が何かを言う。少女は碧眼をつぅと細め、ご心配なく、と返した。

「明朝にでも死体をお目にかけることができますよ」

 金魚がうなずくようにしてふわりとひれを返す。雨の中を泳ぐように消えていく金魚を見送って、少女は濡れ縁から足を返した。部屋の中に敷かれた布団では黒髪の少女がすやすやと安らかな寝息を立てている。少女は眠る少女のかたわらに膝をつき、白い頬にかかる黒髪を梳いた。ごめんなさいねぇ、とぽそりと呟く。

「いとしいひとの作った大切な娘。嘘じゃないわ。けれど空蝉さまのお命と引き換えになるものなど、沙羅にはないのよ」

 少女は徐々に笑みを冷えいらせると、桜から手を離して立ち上がる。衿元から取り出した小さな袋を寸秒眺め、少女は目を伏せた。