三章、双樹と猫



 十五、


 新鮮な鯵(あじ)が手に入ったので、朝食で出してくれ、と起きるなり瀬々木に言われた。
 桜は台所の隅で埃をかぶっていた七輪をよろめきながら運んで、道端に出る。魚を焼くときは煙がたくさん出るので、外でやらないと部屋が煙ってしまうのだ。それに火事の原因にもなる。……というのは、雪瀬に教わったことであったが。

 七輪に乗せた網の上に置いた魚を菜箸でひっくり返したりうちわで扇いだりしつつ、あわただしく鯵を焼く。風向きか、煙が大量に押し寄せ、桜は軽く咳き込んだ。眦に滲んだ涙を指でぬぐいやっていると、通りのほうから何やらひとの騒ぎ声のようなものが聞こえてくる。何か、あったんだろうか。好奇心というよりは持ち前の本能じみた警戒心のほうに引かれて、桜は菜箸を持ったまま通りのほうへ顔を出した。

「号外―、号外ー!」

 声が聞こえたかと思えば、長屋の扉がばたばたと開き、まだ襦袢姿の娘やら下着姿の男やらが外へ駆け出てくる。集まる人ごみの中心にいるのは、ひとりの男だ。あけておくれあけておくれ、と男はひとごみをかきわけながら、紙をばらまいていく。なんだろう、一見変哲のない紙だけども、そんなに皆が欲しがるほどすごいものなのだろうか。
 桜が首を傾げて通りの様子を見守っていると、ひらりと舞った紙がこちらのほうへ落ちてきた。紙端をつかみとって、桜は紙面へと視線を落とす。墨で大きく書かれているのはたぶん漢字だ。桜は文字が読めないので、表題から紙面の大半を占めている簡素な絵へと視線を移す。絵師によってさらさらとお伽話の挿絵風に描かれた絵では、老人と、ひとりの男が向き合っている。男が刀を持っているような気がするが、筆致が乱雑なせいでいまいちよくわからない。
 
 と、そこで嫌な臭いが鼻についた。七輪からぷすぷすと黒い煙が上がり始めたのに気づき、桜は目を瞬かせる。それで自分が魚を焼いている途中だったことを思い出した。



「あら。焦がしてしまったの?」

 少しばかりしゅんとなりながら、黒く消し炭のようになった魚を皿に置いていると、急須を傾けてお茶を入れていた沙羅が苦笑する。うん、と力なくうなずき、桜はお盆に載せた料理の皿をひとつひとつ運んでいく。
 皿を一度置いて戻ってくると、沙羅が衿元から小さな紙を出しているのが見えた。袋状になった紙の口をあけて、それを湯飲みの口へと傾ける。白い粉がお茶に注がれた。沙羅はそれを匙で混ぜ、袋はまた衿元に戻す。

「何してるの?」

 お盆を胸に抱えて、桜は不思議そうに尋ねる。沙羅がはっとした表情になってこちらを振り返り、何でも、と口元に取り繕うような笑みを載せた。

「お茶の苦味を消すお薬よ」
「そんなのが、あるの?」
「ええ。でも桜。これはみんなには内緒よ?」

 口元に人差し指をつけられ、桜はいぶかしげに眉をひそめる。苦味を消すならよいことのはずなのに、どうしてみんなに内緒にしなくちゃならないのだろう。ううんと考えてみてから、仕方なく桜はしぶしぶうなずいた。





「これはー、誰の作だ?」

 真っ黒になり、もはや原形をとどめていない魚を箸でつまみ上げつつ、瀬々木が問う。わたし、と力なく答え、桜は魚を口に入れた。にがい。
 心なし肩を落としながら、もそもそと朝餉を食べる。沙羅は何も言わずに食べていたが、瀬々木は少し顔をしかめて箸を置き、雪瀬にいたっては脇によけていた魚をそっと忍び込んだ猫にあげていた。彼にはこの手の“やさしさ”やら“気遣い”やらはない。

「ああでも。このおひたしはうまいじゃないか」
「……それ、沙羅」

 励ますように瀬々木が言ってくれたが、逆効果だった。醤油のほの甘い味がきいた山菜を口に運びつつ、そちらのほうはしっかり食べている雪瀬を見取って桜はむぅっとした表情になる。いったい何にむぅっとなったのかはわからないが、とにかく胸がもやっとしたのだ。焦げあがった魚の尻尾をかじり、桜はいいもんとばかりに雪瀬から目をそらした。

「……あ。瀬々木、」

 そういえば、とさっき配られた紙のことを思い出し、桜は席を立って対面の瀬々木へと袂から出した紙を差し出す。

「これ、なんて書いてあるの?」
「なんだ? 貸してみろ」

 瀬々木は紙を受け取って、そちらへ目を落とす。その表情がにわかに険しくなった。

「おい、雪瀬。これ、」
「あぁそれね」

 横からひょいと瀬々木の手元をのぞきこんだ雪瀬がなんということはない様子でうなずく。

「朝配ってたよね」
「知っていたのか?」
「さっき俺ももらった」

 衿から一枚の紙を差し出してみせると、雪瀬は薄く笑った。表題に指をつけ、「“橘一族、帝へ反逆す”」と文字を読み上げてくれる。

「はんぎゃく?」
「臣下が主君を裏切ったということ。謀反かな」
「むほん」
「帝の敵になるってこと」
 
 雪瀬はそう言って、おもむろに箱膳の片隅にあった湯飲みをひっくり返した。あまりにも鮮やかな手つきに一瞬目を奪われる。ぱたぱたとお茶が畳にぶちまけられるに至って、桜はようやく状況を理解した。

「――何やってんだ?」
「手が滑りました」

 眉をひそめる瀬々木にひらひらと手を振って返して、雪瀬は転がった湯飲みを箱膳に戻す。

「ねー。これ代わりにもらっていい?」

 畳を手ぬぐいで軽く拭くと、雪瀬は桜の膳からおもむろに湯飲みを取り上げた。急須は別にあるのに何故わざわざ桜のお茶なのだろう。不思議に思っていると、しかし雪瀬はすぐにはそれへ口をつけてしまわず、すんとお茶の匂いを嗅ぐようにする。あぁこれは大丈夫だ、と変なことを呟いてお茶を飲み干し、桜の手に湯飲みを返した。一連の雪瀬の行動の意図がまったく読めず、桜はきょとんとしながら湯飲みを受け取る。――だって“手が滑った”って。あれはどう見ても雪瀬が自分でひっくり返したんじゃないか。

「これ洗ってくるね」

 怪訝そうな表情になる桜をよそに、雪瀬は濡れそぼった手ぬぐいを持って立ち上がる。桜というよりは瀬々木に向けて言って、雪瀬は外へと出て行った。







 つるべを引っ張ってたらい桶に水を満たす。汚れてしまった手ぬぐいを井戸水に浸して洗っていると、微かな羽ばたき音が耳をかすめた。

「扇」

 雪瀬は井戸端に止まった白鷺を仰いで、おかえりと声をかける。

「都からご帰還、ご苦労さま」
「その様子だとすでに事の次第は知っているようだな」
「朝早くに号外が出たからね。――颯音兄、失敗したって?」

 瓦版の下のほうには暗殺未遂、と書いてあった。つまりそういうことなのだろう。手ぬぐいを洗いながら、「生きてるの」と問えば、「無論だ」と扇が答えた。

「颯音と薫衣と透一は五日前の夕方都の門を出て、今は少し離れた港町で毬街へと出る船を待っている。一昨日、雨がひどかったろう? 増水して船の出が遅れてるんだ」
「ふぅん。そのうちに黒羽織に追いつかれないといいけどねぇ」
「……まぁ、あいつらなら大丈夫だろう」

 扇の言葉は無論気休めなどではない。葛ヶ原の当代きっての天才風術師かつ腹黒の策士ともあれば、たいていのことはひとりで切り抜けられてしまう。第一、今は薫衣と透一もついている。
 確かに大丈夫そうだ、とうなずき、雪瀬は洗った手ぬぐいをしぼってはたはたと水を切った。嘆かわしい、とまた扇が呟く。

「橘一族が手ぬぐい洗いなんぞ……」
「けれどこれがびっくり、普通の手ぬぐいじゃあないんだ」
「普通じゃない? なんだそりゃ」
「何も糸瓜も附子ですよ」
「ぶす?」

 扇は目をみはり、跳ねるように顔を上げた。
 附子というのは鳥兜(とりかぶと)の根を煎じたもので、食すと嘔吐や呼吸困難を起こし、しまいには死に至る劇薬だ。つまるところ毒である。
 
「飲んだのかっ?」
「いや。匂いがきついからすぐに気づいた。それに毒はちゃーんと一通り嗜みとしてならしてあるのです。うちの曾祖母は祖父に毒を盛られて死んでるからね」
「……ろくな一族じゃないな」

 ぽそりと呟いた扇の言葉はもっともであったので、雪瀬は肩をすくめる。ひとから揶揄まじりに嘘吐き一族と呼ばれる橘一族は、初代が婿をとらずにひとりで子を身篭ったという伝承に端を発して、何かと一族間でのいさかいが絶えない。血で血を洗い、争いを繰り返し、そうして強き者だけが生き残って橘の血を継いできた。ひとつの壷の中に蜘蛛、百足、ありとあらゆる虫を入れて食い合わせ、唯一生き残った者が蟲毒と、ひとを死に至らしめる最高の毒となるように。

「しかし鳥兜なんぞそうそう混ざるものでもあるまい。盛られた、ということか?」
「――まぁそうなるだろうね」
「あのな、まぁそうなるってな」
「うん。扇。真砂に連絡。至急こっちに来るよう」
「結界師?」

 何ゆえとばかりに扇はいぶかしげな声を上げる。首を伸ばしてこちらをのぞきこんだ。

「お前、何を始める気だ?」
「別に何ということはない。たださ。そろそろ逃げるのはやめにして、こっちから罠をしかけてみようかなと」
「罠、なぁ」
「嘘吐き一族ですから」

 雪瀬は微笑み、たらい桶に張った水を流した。