三章、双樹と猫



 十六、


 今日も今日とて瀬々木に連れ添って、貧民窟に足を運んできた。さすがにほとんど毎日のように足を運べば、ひとという存在自体には慣れてくる。瀬々木のようにぽんぽんと会話を交わすことはできなかったが、前のように誰彼構わずひとにびくつくということはなくなっていった。

「……?」

 自室に戻ろうとぺたぺたと濡れ縁を歩いている途中、桜はふと気配のようなものを感じて庭に視線をやる。
 狭い庭には、青から淡い紅に染まり始めた紫陽花が咲いている。昨晩降った雨のせいか、その葉には雫が宿り、また地面にはぽつぽつと水たまりが残っていた。紫陽花の茎にしがみついていた雨がえるが水たまりを跳ね、飛沫が散る。
 ――いつもの庭の風景だけども、問題はその横である。濡れ縁の上に腰掛けて、ゆっくり煙管をふかしている青年がいた。背には行商が持ち歩くような箱が負ぶさわれており、そこにはまるで蚯蚓がのたくったような字が描かれている。
 
「おっ。よう、忠犬!」

 煙管をくゆらしていた青年がこちらに気づいて顔を上げる。固まっている桜へ、旧友と再会したかのような人懐こさでよっと手を振った。

「……真砂? 誰?」

 真砂、と呼んでおきながら、だれ、と一見矛盾する言葉を連ねてしまったのは、青年が少し前に会ったときとはまったく異なる服装をしていたからだ。あのときは雪瀬のように小袖に袴であったのに、今は子袖の下にもんぺのようなものを履いており、頭には渋染めの頭巾をかぶっている。

「はじめましてっ。薬問屋の『ごさまなばちた』です、通称ばちたって呼んで! どうぞよろしく以後よしなにしてオクンナセー?」

 最後のほうは微妙に片言で喋って、真砂――否ばちたなる青年は桜の両手をがしりと握り、オクンナセーを繰り返す。……真砂、なのだろうか。でもごさまなばちたなどと言っていたし。違うひとなんだろうか。でも顔も態度も同じだ。どっちなんだろうと桜が混乱気味に視線を彷徨わせていると、

「何やってんの。真砂」

 冷めた声がすぐ背後から降った。雪瀬だ。
 えー、と青年は自らを顧み、「薬問屋の物まねっ」と桜のときとはまた微妙に異なる答えを返す。

「ものまね……」
「だってやっぱり潜入に変装はつきものでございましょ? この箱なんかな、作るのに夜半過ぎまでかかっちゃったんよー? そのせいで今眠い」

 真砂は煙管で膝に乗せた箱をこんこんと叩き、ふわぁとあくびをした。煙管もまたくゆらせているのかと思いきやただの小道具だったらしい。

「あ。俺、今そこの子犬にも言ったけど橘真砂じゃなくて『ごさまなばちた』な。うん、やっぱり変装に仮名はつきものざましょ? 通称ばちたって呼んで」
「――ごさまなばちたでも橘真砂でもどっちでもいいけど、」

 片目をつぶってみせた青年の言葉を軽く流しやってしまうと、雪瀬は障子戸に背を預け、腕を組む。

「用件、扇から聞いてる?」 
「いんや、まだですが?」
「そう。――桜。さっき瀬々木が呼んでたよ」

 その言葉はいつもと何ら変わりのない調子でごく自然に続けられたのだけど。どうしてかこの場から雪瀬が桜を追い払いたがっているような気がして、胸が小さな棘で刺されたように痛んだ。
 沙羅は空蝉のところへ一緒に帰ろうと言う。桜はそれが嫌なのだけど、雪瀬はそうではないのだろうか。桜など早くどこかへ行ってしまえばいいとそう思っているのだろうか。

「早く行ってやってね」

 俯いてしまった桜へ促すように言って、雪瀬は障子戸から背を離した。眼前をひらりと少年の袖が翻る。おもむろに、それを桜ははっしとつかむ。雪瀬はひとつ眸を瞬かせ、足を止めた。

「――なぁに?」

 静謐と囁く声に引かれ、桜は口を開こうとする。けれどうまく言葉が出てこない。何度か同じ事を繰り返してから、桜はそぅと目を伏せた。しわがよってしまうなんてこと考えもせずに、布を握り締める。

「……ずっとここにいちゃ、だめ?」

 ようよう吐き出した言葉に、少年は淡く苦笑した。
 微かな衣擦れの音がして、顔を上げようとすれば、あちらがこちらへ目線を合わせるようにかがみこむ。
 桜はずっとここにいたいの?、そう耳元で柔らかな声が尋ねた。
 眸を瞬かせ、それから桜は困ったように首を傾ける。ずっとここにはいたい。この生活がずっと続けばいいのにとそう思う。けれど、それは桜が決めてはいけないことの、はずなのだ。桜は“人形”だから。桜の生きる場所を決めるのは桜自身ではなく、いつも他のひとだった。そういうものだと思っていた。

 そう、と雪瀬はうなずき、桜の手から袖を離して行きなよでもいうように軽く背を叩いた。明確な答えは口にしないままいつものようにはぐらかされてしまったのだと桜が気づいたのは、濡れ縁を出たあとのことだった。




「ほんっと可愛い子犬を拾ったよなー!」

 桜が視界から消えるのを見て取ると、真砂が揶揄まじりににやにやと笑う。

「犬猫じゃないでしょ」
「犬猫だよ。だってアレにはまだ明確な意思がない」

 面白いねぇ、と煙管に口をつけながら、真砂は濃茶の眸をすがめる。

「異国では泥人形に名を書いた紙を入れると、意思を持つって言うぜ。今度試してみたらどーお?」
「名前なら、もう持ってるよ」
「違いない。――んで、本題ってなんだっけ?」

 煎じ煙草の入ってない煙管を口から離し、真砂はかんと“くすりや”と汚い字で書かれた箱を叩いた。この従兄の隣に腰掛けるのは嫌だったので、濡れ縁から降りて庭の雑草を抜いたりしながら「難しい話じゃないよ」と雪瀬は答える。

「この屋敷にお得意の結界をかけて」
「どんな種類の?」
「開けるの逆」
「閉じ込めるほうな。はいな、合点」

 元気よく返事を返し、真砂はさも当然と言った様子で手を差し出してきた。なに、と問えば、代金、と答える。ちらりと青年の手のひらへ視線をやってから、「ん。代金」と雪瀬は摘み取った雑草を青年の手に乗せた。

「じゃあよろしく」
「それ食い逃げっ食い逃げと同じだぞお前っ」

 雪瀬がきびすを返してしまうと、真砂がなんだか間違ったことをわめきたてながら雑草を投げてくる。しかしそれも寸秒で飽きたらしく、真砂はけっと悪態をついて煙管の代わりに筆を取り出した。







 昼間上がっていた雨はまた夕刻あたりからぽつぽつと気まぐれに降り始めた。障子戸の外では絶え間ない雨音が続いている。

「こうじめじめしていると髪が広がってやぁねぇ……」

 沙羅は嘆息し、鏡台の前で銀髪を編み始めた。そういうものかな、と思いつつ、桜は自分の髪の毛先をつまみあげる。確かにいつもより若干ばらついている気がするが、もともと髪の量が少ない上まっすぐな毛を持っている桜はあまり変化がない。とはいえ、宮中で毎日米の伽汁で洗わされ、一刻ほどかけて手入れしていた頃に比べたら色艶は落ちたのかもしれないけれど。
 
「あなたの髪はまっすぐでいいわよねー?」

 桜を見やって沙羅が苦笑する。髪を梳いていた桜は沙羅に櫛を返すと、後ろに回って三つ編みを編むのを手伝い始める。近頃の夜の日課だ。


「桜。明朝、空蝉さまのもとへ帰りましょう」

 突如投げかけられた言葉に、桜は目を瞬かせる。明日の朝、なんて。そんなこと聞いていない。

「や……」

 弱々しい声をあげ、ゆるく首を振れば、「我侭を言わないの」と沙羅が駄々っ子をあやすように叱る。

「もう気が済んだでしょう。あなたは空蝉さまに作られた人形なのだから。彼の言に従わなきゃ」
「……いや」
「聞き分けの悪い子ねぇ」

 沙羅は長く息を吐き出した。

「桜。橘の子があなたに何をしたのか知りませんけど。彼は略奪犯、なのよ? 今はよくしてくれるかもしれないけれど、じきにどこかに売り飛ばすに決まってます」
「沙羅、」

 きっぱりと言い切った少女へ、桜は小さく首を振る。

「雪瀬は“略奪犯”じゃないよ。雪瀬は悪いこと、してないよ」

 そう、雪瀬は怪我をしていた桜を拾って手当てをしてくれただけで、葛ヶ原から出してくれただけで、黒羽織に追い回されるような悪いことは何もしてないのだ。してない、ともう一度念を押すように続ければ、不意に沙羅がくすくすと笑い出した。

「なんだ。あなた、もうすっかり彼の夜伽ね」

 その言葉にはどこかこちらを嘲るような響きがある。

「そうね、確かに空蝉さまのもとへ帰る必要はないかもしれない。誰かのものになってしまった人形なんてもう誰も欲しがらないもの」

 ほしがらない、と桜は繰り返す。――それは人形としての少女の価値の絶対の否定であった。深く、大きな否定だった。
 力を失くした指先から三つ編みの房が抜け、はらはらと今まで編んでいたぶんが解けてしまう。あらあらと沙羅は苦笑し、悪い子ねぇと呟いた。




「毬街の西、大通りの三番地、瀬々木診療所。至急、こちらに人形たちをよこすように。今夜かたをつけます」

 煙るような雨の中、浮かび上がった金魚に少女は告げる。このようななりをしているが、雪瀬が持つ白鷺同様、空蝉の放った使いのようなものである。
 紅の金魚は了解したとでも言うようにくるりと一回転すると、雨の中を消えていく。少女はそれを見取って部屋に戻った。

 金魚は降りしきる雨の中を泳いでいく。だが、家の柵を越えようとしたところで紫光雷電、何かに弾かれたように粉々に散りうせた。それを外から見ていた青年はにやりと笑って煙管を回す。

「くーすりー、金魚も弾くばちたのくすりー、おひとつ三両、これは安い!」

 薬箱を背負いなおし、初夏の雨にまぎれるようにして青年は足早に去っていった。