三章、双樹と猫
十七、
行灯の明かりがゆらゆらと頼りなく揺れている。
そのたびに開いた本に落ちた影が移ろい、なんとも読みにくいことこの上ない。旬の野菜と料理、というそもそも興味があるのだかないのだか、といった内容の書物であったので、雪瀬はふわぁと気の抜けるようなあくびをして、枕元に置いた腕にほとりと顔を乗せた。視界に白い靄がかかり、うつらうつらとまどろみの中をたゆとう。
きし、と板敷きの軋む微かな音を聴きつけたのはそのときだった。
雨音に混じり、若干判別しにくくなっているが、きし、きし、と床を軋ませる足音はだんだんとこちらに近づいてきているようである。雪瀬は息をひそめ、そちらを注視した。
障子戸に淡い人影が映りこみ、ぴたりと足音が止まる。ほどなく音もなく開かれた障子戸を見据え、「お待ちしておりましたよ」と雪瀬は本に栞を挟みながら言った。
*
とくとくと音を立てて芳しい名酒が盃を満たしていく。
夕餉の膳を片付けて楚々と立ち去っていく女将を見送ると、五條薫衣は盃に口をつけた。酒を一気に飲み干し、「うまいっ!」とため息とともに舌鼓を打つ。
「噂に引けを取らないなかなかの美味。さすが都近くの港町だけある」
な!、と薫衣は隣に同意を求めようとし、けれど相手が畳に仰向けになってすぴすぴ眠っているのを見つけた。少女はほんの少し顔をしかめ、少年の頭をこぶしで小突く。
「なぁーに寝てんだ、お前は」
「……う。うー…ん」
しかし透一は何やら夢見が悪そうにうめくような声を上げるだけ。薫衣は据わった目で少年をねめつけた。
「ほぉ、私の呼びかけを無視するとはいい度胸だな、お前?」
「――その辺にしときなよ。薫ちゃん」
腕まくりをし、透一の胸倉を掴みあげようとしかかった矢先、颯音が苦笑気味に止めの手を入れる。
「あのね、薫ちゃん。薫ちゃんってば今頭にお酒が回ってちょっとよくわかってないだけだと思うんだけども、それだけお酒飲んだら酔いつぶれるよ、普通? みんながみんな薫ちゃんみたいにザルじゃないんだからさ」
「何を言う。この量で酒に飲まれる奴のほうが普通じゃないに決まって 」
薫衣は畳に転がる酒瓶五本を指差し、言葉中途で一瞬だけ固まる。それからちぇ、と舌打ちして透一を離した。思ったよりも多かったらしい。
席に戻り、残った膳から菜の花漬けを箸でつまみあげつつ、「しっかし、百川の刀斎さまが一枚噛んでたとはなー」と薫衣は苦笑した。
三人ぶんの羽織の掛けられた衣桁の隣には、三つの鈴をぶらさげた太刀が置かれている。鈴に記されているのは三つ巴紋。百川の家紋だ。薫衣は絡まった鈴のひとつをつんと指でつつき、少しばかり恨めしげな視線を颯音へ向ける。
「全然知らなかった。事前に刀斎さまがお前に通行証を貸してたなんて」
「おや。話さなかったの嫌だった?」
「なっ、……んなわけが、」
そう切り返すと、薫衣は箸を勢いよく膳に置き、颯音を振り仰ぐ。こちらが淡く微笑み混じりに見やっているのに気づいたのか、薫衣は言葉半ばで口をつぐんだ。
「……うちのあるじさまはすぐひとをからかいなさる」
「別に誰も彼もをいじめるわけじゃないよ」
颯音は衣桁の前に置かれた刀を取り上げて、絡まった鈴をほどき始める。
「帝殺害があいなったにせよ、結局逃げる手立ては必要だったからね。前々から刀斎さまに鈴を貸してくれないかと聞いてたんだよ」
「よく話に乗ったよな」
「刀斎さまも今上帝にたいしてはよい気持ちを持ってないからね」
いつぞやの宴を思い起こしながら颯音は説明する。
これは都に限った話ではないのだが、領地を出る際には、東西南北いずれかの関所にて通行証である家紋入りの鈴を衛兵に見せなければならない。下級の衛兵たちは手配書になっている犯罪者ならばともかく、一日二日前に謀反を起こした豪族の顔を知っているわけはないので、まんまと「百川一族」の三人に成りすまし、関所を出たというわけだ。あとで出入記録を調べれば露見する話だが、そのときにはすでに逃げおおせたあと、なんら問題はない。
かくして無事、中央を抜け出した颯音たち一行は都近くの宿にて身を隠している。
ここから国の東の最果て、葛ヶ原まではまだかなりの距離がある。陸路にしておよそ、二十日。水路をとれば、七日ほどで帰れるが、梅雨のせいで水が増水し、舟が出されていなかったので、颯音たちは船着場の近くの宿で朝一の舟を待つことにした。
海の近くだという宿は終始波の音が途切れることなく、障子には月光に照らし出された波紋がゆらゆらと描かれ、畳にほの蒼い影を落としている。障子戸を少し開けてみると、濃い潮風の匂いがした。埠頭に大きな船が止められている。明晩、あれに乗るのだろうか。
颯音があれこれと思いをめぐらせていると、隣で薫衣がふーと大きく息をついた。盃にまた酒を注ぐ。
「“失敗”とはなぁ……」
都を抜け出すまで張っていた気が緩んだからだろうか、ぽつりとそんな言葉が呟かれた。薫衣は盃を置いて窓の桟に腕を乗せると、「失敗とはなぁ」ともう一度呟く。潮風が少女の不ぞろいな淡茶の髪をふわりと流し、白いうなじがあらわになる。はらはらと肩にかかった少女の毛先を戯れのようにつまみ、綺麗に揃えればいいのに、と颯音は言った。
「薫ちゃんは可愛いんだからさ」
「戦に“綺麗”や“可愛い”はいらんだろうに」
対する少女の答えはそっけない。刀でざっくり切られた髪は毛先が少し痛んでいるようだった。――女の身でついてきた少女である。数年前、周囲の反対を押し切って家を継ぎ、一緒に長かった髪をばっさりと切り捨てた少女の決意や苦悩を颯音は知らない。否、想像はつくが聞いたことはない。
颯音は淡茶の毛先をつかの間いじってから、薫衣が少し身じろぎしたのを見取って手を離した。
「そうは言ってもね。もとから成功率の低い賭けだったでしょう?」
「そりゃ、そうだけど、さ」
「父さんを排した上で参内し、見張りの兵が少ないところを狙って帝を討つ。……とはいえ、あの方のそばには必ず月詠がいるからねぇ」
「ん、確かにあれは厄介だ」
うなずき、薫衣は寝返りを打った透一の頭をこつんと蹴る。
またそういうことを、と颯音はあきれたような笑みを浮かべ、軽く腰を浮かせて衣桁から羽織を一枚とった。幸せそうに眠る少年に身体にそれをかける。
「んー……」
透一は口元を緩ませ、もぞりと寝返りを打って羽織を引き寄せる。見ているだけで何やら毒気を抜かれてしまう寝顔だと颯音は苦笑した。
「なぁ。あちらはこれからどう出ると思う?」
「さぁて……、」
若干濁した言葉を返し、思考をめぐらすように部屋へと視線を流していると、ふと外に何がしかの気配が横切り、窓の格子をすり抜けるように、白い紙が部屋に投げ入れられた。ひらり蒼闇を舞うそれをつかみやり、颯音は夜空へ消えていく白鷺を仰ぐ。
「……雪瀬からだ」
「雪瀬―? 何だって?」
薫衣がひょいとのぞきこんでくる。手紙の中身にさっと目を走らせ、颯音は淡く微笑んだ。
「ふぅん。どうやら面白いモノを手に入れたらしいよ。銀髪に碧眸の“お人形”」
「ほぅ。そりゃー面白い」
「雪瀬を毬街に置いておいた甲斐があったよ。こんなにも早く“しらら視狩り”が動いてくれるとはねぇ?」
「……しらら視狩りに興味があるのか?」
「辻斬り犯には興味ない。ただ、裏で手を引いている人物は気になるかな」
果たして何が釣れるかなぁ、と颯音は楽しそうに呟く。狙いはそれだったのか、と薫衣は呆れて肩をすくめた。
「……しらら視狩りに狙われた弟を案じるようなふりをしておいて。すべてお見通しでやってるんだから、あなたは性格が悪い」
「何をまた。今さらのことでしょう」
天才風術師兼腹黒策士は底知れぬ微笑い方をして手紙を畳んだ。燈台の油皿に置かれた炎へとそれをかかげる。ちりりと焦げ付き、小さくなっていく紙を眺めながら、ふと微かに響き始めた水音に颯音は格子の外へと目をやった。
「――降ってきたよ、雨」
「雨?」
「そう。夜の長雨がね」
応えた颯音のかたわらに寄り添い、薫衣は茶色の目を細める。ぽつりぽつりと降り始めた雨は瞬く間に激しい時雨となった。
「……八代さまは雨を慈しんでたな」
「父さん?」
「そういや八代さまだけじゃなくって。小さい頃、雨が降ると無性に喜んでたよなぁ雪瀬も、柚(ゆず)も」
「ああ、雨が降る日は家に妓女が入らないからね。それが嬉しかったんでしょうよ」
「女が入らない?」
「そう、あのひとにとって雨の日は雨の好きだった母親を悼む日だった」
女々しいことだけどもね、と颯音は自嘲気味に言い添える。雨影に沈むそのひとの横顔はどこか、いつもと異なる気配がある。薫衣は目をすがめた。
「でもあなたはそんな父親をあいしていた」
「おや。本当にそう思う?」
「そう、思う」
だから四年も、颯音は待ったのだ。家督を継げる年になってから、この待つのが大嫌いなひとが四年も。父親が妻を失った痛手から立ち直り、再び政に興味を示すことを待った。この四年間、颯音にとっては失望と落胆の繰り返しであったに違いない。
「違うよ、本当は大嫌いだった」
颯音は彼にしては妙に感情的な言葉を淡々と言い放ち、ゆるりと微苦笑を浮かべた。そこにはすでに感傷の跡形もなく、ただ翳りを帯びた琥珀の眸には強い意思だけが宿されて残る。嘘吐きめと薫衣は胸中で悪態をつき、青年の上着の裾をついと握り締めた。何がおかしかったのか、くすりと淡くさざめくような微笑の気配が耳朶を撫ぜ、そ、と髪に手を差し入れられる。
「きみは正直者だよねぇ」
冷えた頬へ手があてがわれ、軽い口付けが降りる。
窓の障子に映ったふたつの影が重なり、絶えることない雨音の中、そうして静かに障子も閉められた。
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