三章、双樹と猫
十八、
ふと目を覚ますと、いつのまにか外では雨が降り出していた。
桜は布団から身を起こすと、さざめく水音に呼ばれるように、細く障子戸を引く。とたん、雨水の匂いを含んだ独特の空気が部屋に入り込んだ。
張り出した濡れ縁の先には、橘の家よりははるかに小さいがおざなりにも庭がある。木々の葉は露を宿し、砂利交じりの庭土にはいくつも水溜りができていた。厚い雲に閉ざされた空に月はない。いつもより幾分暗さを増したような夜闇を、桜はぼんやりと眺める。――この前のように、星が見たかったのに。しゅんとなって桜は障子戸を閉め、布団に戻ろうとした。
と、そこでふと部屋がやけに静かであることに気づく。隣に眠っているはずの沙羅を振り返れば、布団はもぬけの殻だった。
「沙羅?」
ぱふぱふと掛け布団を叩いてみるも、やはり手ごたえがない。布団をはいで、敷布のほうに手を這わすと、すでに温もりの欠片すら感じられないほどに冷えいっていた。いなくなってもうずいぶん経つのだろうか。
そのとき感じたのはほとんど動物的な勘に近かったのだけども。何故だか嫌な予感がして、桜は夜着のまま内廊下に出た。
まず診療所のほうへ行ってみたが、瀬々木はまだ診察から戻っていないらしい。そういえば、今晩はひとを看取ることになるかもしれないから場合によっては帰れぬかもなぁ、というようなことを朝瀬々木が言っていた気がする。
しんと静まり返った部屋の中では、ただ無機質な雨の音だけが響いていて、たゆとう空気のあまりの静けさに桜は身震いした。
桜は足を返す。早く自分の部屋に戻ってしまおうと思った。けれど寝室の襖に手をかけたところで、かた、と奥のほうから微かな物音が聞こえた気がして、桜は顔をそちらへ向ける。寸秒迷ってみた末、自室を通り越し、足音を忍ばせて廊下の奥に進む。
気のせいではなかったらしい。
奥に近づくにつれ、徐々におぼろげだったざわめきが鮮明な色を帯びてくる。囁くような話し声。とはいえ、その内容までは聞き取れず、桜は眉をひそめた。こんな夜更けにいったい誰なんだろう。沙羅なのかな、と考えながら、桜は奥からひとつ手前の部屋の前で立ち止まった。話し声はその中からしている。部屋内のひとの存在を示すように障子から漏れた行灯の光が足元に落ちた。
そこが誰の部屋だかは知っていた。だって桜はここに何度も来たことがあるから。知らないわけがなかった。眠れずにあてどもなく屋敷を歩き回っていたとき、暗闇に灯ったその行灯の明かりにどれほど安堵したことか。障子戸を開ければ、彼がいる、そのことがどれほど嬉しかったか。
――にもかかわらず、今晩に限って嫌な感じがするのはどうしてだろう。とても嫌な、開けてはならない感じが。桜はそんな己の考えを振り払うようにふるりと首を振って、障子戸に手をかける。
最初に目に入ったのは、数畳の狭い室内に敷かれた布団だった。
そこに雪瀬が横たわっているのはいつもと変わらない。けれど何故かその上には折り重なるように今しがた自分が探していた少女がいる。少女が少年を押し倒したような形。解けかかった銀髪のお下げ、しどけなく着崩れた少女の襦袢に桜は目を瞬かせた。――これはなに?
こちらの気配に気づいたのか、沙羅がびくりと顔を上げる。驚愕に染まった顔がみるみるうちに冷え入っていくのを桜はただ見つめた。
「桜。どうして、来たの?」
少女の冷たい声に怯えて、反射的に首を振ろうとする。それを「嘘」と鋭い声が遮った。
「あなた、全部わかってたんでしょう? だから邪魔しに来たのね? “悪い子”」
赤い濡れ濡れとした唇が笑みの形に歪む。少女の豹変ぶりにぞっと背筋が冷え入り、桜は身をすくめた。少し開いた襦袢の衿をたぐり寄せ、沙羅が身を起こそうとする。と、おもむろに伸びた少年の手が沙羅の銀髪をひと房指に絡めて引いた。
「うん、びっくりしちゃったんだよね桜は。――オトコとオンナの夜の閨を垣間見てさ」
桜は眸を瞬かせる。確かに桜は世間知らずではあったが、閨の意味がわからないほどに子供でもなかった。
「でも今は夜の時間なので。一言でいうなら、お邪魔なのです。お子さまはおやすみー」
彼は口元に淡い微笑を湛え、ひらひらと手を振る。まるであっちへ行けとでも言わんばかりの仕草だった。そのとき、自分がどんな表情をしたのかはわからない。ただ思わず数歩後ずさり、それから桜はほとんど逃げるように身を翻した。
*
「何を言うんですか」
「おや、そういう用件じゃなかった?」
「この状況を見てそう捉えられたら、あなたは相当の馬鹿か幸せ者です」
嫌悪感もあらわに柳眉をしかめて返した少女に、違いない、と雪瀬は苦笑する。彼女の髪に絡めていた指を離し、横に視線だけを動かした。
ゆらめく炎の照り返しを受けてぎらりと鈍く刀身が光る。短刀は雪瀬の首筋、頚動脈へあてがうように突き立てられていた。その柄を握っているのは無論沙羅だ。解けた銀髪がすだれ隠したせいで、桜からは見えなかったらしい。とはいえ、もしも“見えて”いたら、この少女は彼女へと刀を向ける気がまんまんだったので、気づかなくて幸いだったというべきか。
「それにしても不思議なひとですね。どうして桜に助けを乞わなかったんです?」
「だって邪魔だもん」
どこか腑に落ちなそうに尋ねた少女へあっさり返し、「それに彼女は知る必要のないこと」と雪瀬は続ける。沙羅の注意が短刀からわずかそれる。そのわずかな間隙を見取って、雪瀬はぱっと身を起こした。布団に突き立てられた短刀を少女の手から奪う。とっさに短刀を奪い返そうと手を伸ばしてきた沙羅からひょいと身をかわし、雪瀬は反動で体勢を崩しかけた彼女の首筋に向かって短刀を薙ぐ。はらりと一房、銀髪が畳に落ちた。
「あなたの思惑も。――それから、俺の思惑もね」
少女の首の皮一枚のところで刃を止めたまま、雪瀬は微笑む。
「あなたの、思惑?」
「そう。あなたが探していたのは、瀬々木じゃなく俺。それから桜。――違いますか、“しらら視狩り”。お前の後ろにいるのは誰?」
少女が小さく息をのむ。驚いたように眸をみはり、それからきっとこちらを睨み据えた。
「凛! 琴音!」
外に向けて少女が呼び声をかける。風が吹き、ちりりと行灯の炎が揺れた。だが、少女の声に応える気配はない。そこで初めて沙羅の表情に動揺が走った。背後を振り返り、「凛……?」と先ほどよりも頼りない声で呟く。けれど返るのはただ静かな雨音だけで。
「お仲間なら来ないよ。うちの結界師が外との連絡路を絶ってしまったから。……空蝉は今頃あなたからの音沙汰がなくなって苛立っているだろうねぇ」
「っあなた空蝉さまのことまで……?」
「あぁなんだ、やっぱり“空蝉”だったんだ」
桜が一度寝言みたいに呟いていたからかまをかけてみただけだったのが、当たりだったらしい。へぇそうなんだ、と雪瀬が底意地悪くうなずくと、唇を噛んで沙羅は障子戸に手をかけようとする。それを遮るように背後から腕を差し伸ばした。たん、と手を障子戸につける。
「結界ってさっき言ったよね。今屋敷を出ると、ひとだったら卒倒、霊だったら消滅しちゃうよ。“人形”がどちらになるかはわかりませんが」
「……何故、私が人形であると?」
「だって俺、空蝉と同じしらら視だもん。それくらいわかる」
雪瀬は手を下げると短刀を鞘に納め、沙羅に放って返した。
「とにかくまだ逃げないで。せっかく苦労して捕まえたんだからさ」
「――……何ゆえ、ですか」
刀へ視線を落としながら、沙羅は首を傾ける。この期に及んで何故自分を生かすのかと不審に思ったらしい。
「ただ、ゆっくりお話がしたくて」
「つまらぬ話なら容赦しませんよ」
碧眸をすがめて沙羅はぴしゃりと返す。そんなかりかりしなくても、と雪瀬は肩をすくめ、さりげなく少女から間合いを取って壁に背を預けた。か細い煙を上げる灯心を眺めながら雪瀬はゆうるりと口を開いた。
「まず、あなたに俺を始末するよう命じたのは空蝉」
少し間を空けるが、沙羅は口を閉ざしたままこちらの言葉を待っている。どうやらあちらから話してくれる気はないらしい。雪瀬は苦笑して腕を組んだ。
「その空蝉に命令を持ってきたのは帝の近臣……、黒衣の占術師あたりかな。空蝉の名前なら俺だって知ってる。中央専属の人形師。裏で中央専属の殺し屋までやってるとは思わなかったけどね」
「別に好きでやってるわけじゃありません」
「ふぅん?」
口を挟んだ少女へ雪瀬は一見淡白な相槌を打つ。沙羅は短刀の柄を握り締め、好きでやってるわけがないじゃないですか、と呟いた。
「月詠が手下の女を使って脅してきたのですよ」
「いやいやってことか。それなら話が早い」
「どういう意味です?」
「……ねぇあなたたちは月詠に離縁状を叩きつける気、ない?」
「婉曲的な言い回しがお好きなひとですね。つまり、何だと?」
「つまり老帝を見限ってこちらにつく気、ない? って話」
「お誘いですか」
「脅しに変えてもいいけど」
冷然と続けると、沙羅は顔をしかめ、ぎゅっと短刀を握り締めた。まぁすぐには無理でしょうから、と雪瀬は腕を解いて壁から背を離す。ゆっくり少女との距離をつめ、身構えた少女の手をすり抜けるようにその左胸にすっと手をあてがった。
「“今のこと、帰って空蝉に伝えてくれる?”」
水の色を深めたかのような碧の眸をのぞきこみ、脳に染み入らせるように、そう言の葉を紡ぐ。“命令”をひとつ、与える。しらら視の力はひとあらざる者の知覚・使役。人形もまたしかり。
「……やりましたね」
沙羅は目を瞬かせ、口惜しげに呟いた。
「やっぱり出会いがしらにその首をかっきっているんだった」
「なんとも恐ろしいことを言うなぁ」
「あら、人形は恐ろしい生きものですよ。その美しきかんばせと声、あどけない性質をもって、一見、持ち主にそれは甘美な時を与えるようにも見えますが、その一方で破滅、堕落へとひとを引きずり込む。私はね、空蝉さまの隣で人形を手にして身を持ち崩した愚かな男どもをたくさん見てまいりました。――あなたもどうか、お気をつけあそばせ」
「……ご忠告どうも」
朱色の唇に嫣然と笑みを乗せて囁いた少女へ、雪瀬は肩をすくめて返す。しかしそう言われたところで人形というよりは雛鳥、子犬の呼び名がふさわしい少女へ自分がのめりこむなど露ほどにもありえなさそうだった。たまに可愛いなぁとは思うけれど。どちらかというと犬猫の首を撫ぜている感覚に近い。
「――あぁ、障子戸なら勝手に開けていいよ」
きびすを返そうとしてから、閉まったそれの前でたたずむ少女に気づいて雪瀬は言った。
「最初から結界なんてかかってないから」
「……は?」
「ここは瀬々木の家なんだよ? ひとが卒倒するかもしれない怪しい結界をずっとかけてるわけないでしょうに」
「さっきのは、嘘、だと?」
「うん。言わなかった? 俺は嘘吐き一族だって」
にっこり笑って、雪瀬は障子戸を開いた。ろくな一族ではありませんね、といつだかに聞いたような言葉を沙羅が呟いた。
「じゃあ騙せたご褒美に。最後にひとつ」
雨の降りしきる夜の庭をぴょんと蛙が横切る。雪瀬は濡れ縁の板敷きにかがみこみ、下駄に足を通している少女をうかがうようにした。すっと眸を細める。
「黎(れい)という男の所在を知ってる?」
「……れい。古い名を、持ち出すこと」
古い名かな、と雪瀬は薄く笑った。
「それで? 知ってるの? 知らないの?」
「失礼ですが、その男とあなたにはどのような関係が?」
「それは内緒」
「じゃあ教えられません。――だってあの男はすでに“死んで”いるんですもの」
沙羅は軒に立てかけられていた番傘を取って闇夜へと開く。肩に柄を乗せ、少女はくすりとさながら妖のごとく嫣然と微笑った。
「残念でしたねぇ、思ったような答えが得られなくて。それでは、どうかよい夢を」
「……傘泥棒のくせに偉そうな」
すかさず雪瀬は悪態をつく。沙羅は甘く笑い声を響かせて身を翻した。降りしきる雨に霞む人影を眺めやり、ひそりと嘆息すると雪瀬は障子戸を閉めた。
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