三章、双樹と猫



 十九、


 からだがいたい。からだのおくがいたい。いつかのようにどこを怪我しているというわけでもないのに、ひどくくるしい。


 まるで逃げるように内廊下を駆け抜けた桜は診療所にたどりついたところで、ほぅと息をついた。そのままへなへなと畳の上に座り込む。妙な動悸がまだ胸に残っていた。
 なんだったんだろう、あれはなんだったのだろうと。そう考える一方、脳裏を何度も蘇るのは“邪魔”という雪瀬の言葉だった。じゃま。そうなんだ、と桜は目を伏せる。沙羅が言うように桜は誰にも欲しがられない人形で、雪瀬だってやっぱりそう思っているんだ。だから桜はやめて、沙羅といることにしてしまったんだ。
 ずぶずぶと深みにはまっていく思考に蓋をするように桜は抱えた膝の中に顔をうずめた。もう初夏であるというのに、雨のせいか、湿った空気はひどく冷たい。夜着一枚しかまとっていない身体から徐々に熱が奪われていき、桜は震えがちの吐息をつく。
 かた、と引き戸が微かに揺れたのはそのときだ。まさか誰かが瀬々木を尋ねてきたのだろうか。以前、深夜に発熱した赤子を抱えた女が来たこともあったので、桜はあまり驚きはせずに戸を少し開けた。しかし人影はどこにもなく、ただ夜の闇の中を音もなく雨が降っているだけ。風の音か何かだったのかな、と桜が少し首を傾けていると、細い隙間から黒いイキモノがひょいと顔を出した。
 桜は目を瞬かせ、半月形のソレと見つめ合う。ソレはにゃあとか細い声でひと鳴きすると、家の中へと入ってきた。黒い毛は雨に濡れそぼり、しっとり矮躯にへばりついている。黒猫は雨滴を弾くように身体を震わせ、その場に座り込んだ。どうやら雨宿りのつもりらしい。

「……ひとりなの?」

 桜は猫から少し離れたところにかがみこんで、そっと尋ねてみる。けれど、相手は警戒じみた視線を向けてくるだけで、何も答えてはくれない。

「お前も捨てられてしまったの?」

 問いを重ねて、桜は猫の首元におそるおそる指先をつけた。そ、と濡れた毛を撫ぜやる。刹那、猫が眸を開き、桜の手を爪でひっかいた。驚いて桜は手を引っ込める。ふううと威嚇するような声を立てられ、桜は引っかかれた手をもう一方の手で握り締めたまま、猫を見つめた。
 今まで我慢していた何かが急に胸の中をせり上がって、苦しくてたまらなくなってくる。こめかみがきゅうと痛み、視界がいびつに歪んだ。
 ――桜はすぐ泣くよなぁと雪瀬がたまに苦笑混じりに言う。でもすぐ泣くようになったのは本当に最近のことだ。昔は笑うこともないぶんほとんど泣くこともなかった。なのに今は些細なことですぐ嬉しくなったり悲しくなったりする。ただ言葉というものを多く知らない桜はそれをどうひとに伝えたらよいのかわからず、溢れる気持ちを持て余してしまう。そんなとき涙がこぼれるのだ。嬉しかったり、悲しかったり、いっぱいになった気持ちが溢れ出すように涙がこぼれた。


「――あれ。まだ起きてたんだ?」

 抱えた膝に顔をうずめて嗚咽を繰り返していると、ふと背後の襖が軋んだ。かけられた声に小さく肩を震わせ、桜は慌ててごしごしと手の甲で涙をぬぐう。

「うわ。真っ暗」

 声のぬしは診療所を見回して呟き、手に掲げていた蜜蝋を文机の上に置いた。闇を照らす光に驚いたのか、猫がぱっと身を翻してしまう。隙間から逃げ出していってしまうそれを名残惜しげに眺め、桜は戸を閉めた。

「……さらは?」
「あーあいつならさっきひとの傘を盗んで中庭から……」

 答えかけ、雪瀬はしまったという感じで一度言葉を切る。
 
「じゃなくて。“沙羅は情事のあと、空蝉様への申し訳なさと一夜で揺らいでしまった恋心との間の葛藤に耐えかね、さしもの人目を忍ぶかのごとく裏戸から立ち去っていったのでした”―」

 文机に置いてある草紙をぱらぱらと開きながら、雪瀬はどこぞの物語を読み上げでもする風に答える。――実際のところ、その通りであったのだが、このときの桜は無論気づくわけもない。ただ、つくんと胸の奥が引っかかれたように痛んで。桜は胸のあたりを衣越しに押さえて、目を伏せる。文机の前にいる少年からは離れた場所にちょこんと座り込んだ。

「どうしたの。手」

 文机に頬杖をついたまま、雪瀬はちらとこちらの手元へと目を向ける。答えないでいると、雪瀬は軽く腰を浮かせて桜の手首を引いた。蜜蝋の明かりにさらされた手の甲には細い引っかき傷が走ってうっすら血が滲んでいる。さっき猫の爪にやられたものだ。

「どうしてそうすぐ怪我すんのかな」

 雪瀬は小さく嘆息すると、文机の上に桜の手を置いて草紙を閉じた。膝立ちの格好で、棚から何かを探し始める。ただ彼の後姿を目で追うことしかできないでいれば、ほどなく雪瀬が戻ってきて包帯と薬と水盆を文机に置いた。
 ほら、と促され、そろそろと手を差し出す。雪瀬はこちらの手首を取って、水盆に張られた水の中に浸し始めた。軽く洗い、手ぬぐいで拭きやると、薬湯を染み込ませた真綿を傷口にあてがった。ぴりりと沁みる痛みに桜は眸を瞑る。

「はい、おしまい」

 微かな苦笑を落とし、雪瀬は桜の手首を下ろした。文机の上を片付けると、水盆を持って立ち上がる。どうしてか、ひどい不安のようなものに駆られ、桜はその袖端をついと引いた。――このまま、雪瀬はいなくなって二度と戻ってきてはくれないんじゃないかと思ったのだ。彼にとって、桜は怪我をしている鳥や猫やなんかを世話するみたいなもので、もしも傷を癒したら、当然のようにさよならって言われてしまうんじゃないかと。だって桜は何もできないから。文字もろくに読めない。髪も自分ひとりじゃ結べないし、魚を焼けば焦がしてしまう。自分の気持ちすらうまく言葉にできなくて。
 当たり前だ。どんなひとだって桜よりは沙羅を選ぶだろう。

「なぁに?」

 雪瀬は水盆を一度おろすと、桜の目を合わせるようにかがみこんで柔らかく問うてくる。桜は俯いたまま、雪瀬の袖端を握り締めた。抑えようと思ったのに、指先が微かに震えてしまう。さくら、といぶかしげに名を呼ばれるに至って、桜はそっと顔を上げた。

「雪瀬、沙羅と、くずがはら、かえっちゃうの?」
「――……へ?」

 少年は珍しく虚をつかれたような表情をした。それがまさに図星をさされたひとの挙措のように見えて。そうなんだ、やっぱりそうなんだ、と桜は確信を強める。だから桜はもういいんだ。いらなくなってしまったんだ。

「沙羅と葛ヶ原ってあのさぁそれどこから、」

 言いながら雪瀬はひょいとこちらの顔をのぞき込み、それから、驚いたようにひとつ眸を瞬かせた。

「……って何も泣くこと、」
 
 言葉が途切れる。少しばかり惑うた風に視線をそらし、ああもうわかったってば、と雪瀬は軽く息をついた。
 
「さっきの嘘。空蝉さまとか情事とか全部嘘。俺が悪かったから」

 なだめるように言われるも、けれど桜は言葉そのものを拒むように、いやいやと首を振った。頬を伝う涙を一生懸命手の甲でぬぐおうとする。それでもうまく泣き止むことができなくて、苦しげに嗚咽を繰り返していると、こそりとひとつ嘆息が落ちたあと、そっと頭を撫ぜられた。ごめん、と先ほどとは趣の異なる声が耳元をかすめる。持て余し気味に髪を梳かれ、桜は目を細めた。その手のぬしに頬をゆだねるようにする。

「おいていかないで……」

 今にも消え入りそうな声でようやくそれだけを口にする。
わからない。どうしてこんなに身体の奥が痛いんだろう。怪我なんてしていないはずなのに、くるおしく、くるおしく痛むのは何故?

「――ね。かえろっか、葛ヶ原」

 喉にひっかかりがちに嗚咽をこぼしていると、そんな桜をしばらく何も言わずに眺めていた少年が不意に口を開いた。

「くずがはら?」
「追い風が吹いたので。家出はもう終わり」

 濡れた頬を少年の手がぬぐいやる。
 かえる、と桜は呆けた表情になって繰り返した。帰る。誰と? 雪瀬と? 誰が?
 
「それともアレかな。桜はここにずっといたい?」

 苦笑まじりに問われ、桜は慌ててぶんぶんと首を振った。

「……わたし、私ね、」
「うん」
「わたし、雪瀬と一緒にいたい」

 声にしたとたん、胸を押し潰しそうになっていた何がしかが緩んで、桜はくしゃりと表情を崩す。一緒にいたい、としゃくり上げながらもう一度口にすれば、物好きだねぇと彼は淡く苦笑めいた笑みを漏らした。おもむろに手を差し出される。桜がそれへと自分の手を重ねれば、刹那、手を引かれ、立たされた。

 いったい何度雪瀬は手を差し伸べ、桜はその手をとったのだろうか。
 ――“追い風”と彼は言うけれど、桜にとってはこの少年自体が風のようなものだった。つかみどころがなく、またその真意とて知れたものではないけれど、桜をまだ知らぬ場所へ連れて行ってくれる風。その風が桜は好き。だから、ずっとずっと追いたいとそう思う。
 桜は涙をぬぐうと、ふわぁとあくびまじりに歩き出してしまった雪瀬の背中をぱたぱたと小走り気味に追った。