四章、空蝉



 一、


 道端に咲いている野花を引き抜いて手土産にするという彼の子供じみた癖は、結局彼が十五になっても変わることがなかった。
 黄色い小花を咲かせた都草を片手に、彼は海沿いの高台をひとり歩く。空には夕月が架かり、連なる山々は藍色の稜線を描く。山間から夕星が昇り始めていた。涼しげな潮風に吹かれながら、彼は慣れた道を行く。
 たどりついたのは、ひとつの墓石だった。苔むした墓石に名はない。そこは数多の引き取り手のいない死人が眠る墓地の一角だった。

 ただいま、と言って彼は都草を石の前に置き、すっと腰をかがめる。あとは手を合わせるわけでもなく、経を唱えてやるわけでもない。彼はただ翳りを帯びた琥珀の眸をすがめて墓石を眺めた。
 夕風が吹く。くるおしい蝉時雨の中、雨上がりの、草の甘い吐息を匂わせる風が吹く。どこか、懐かしい色をしたその風に夕光に染まる髪をなびかせながら。
 ただいま凪(なぎ)、と雪瀬は優しく微笑んで言った。







「――よう。お帰りさん」

 濡れ縁に腰掛け、ひとりの男の死体を興味深げに物色していた人形師は門をくぐって戻った少女へ気軽そうに手を上げる。剃髪した頭に墨色の衣。はたから見れば、死んだ男に経をあげている僧にしか見えない。

「珍しいですね。男の人形ですか?」

 男の隣に座らされた死体を見やって、沙羅は碧眼をすがめる。人形師・空蝉(うつせみ)は数多いる人形師の中でも愛玩用の少女の姿をした人形しか作らないことで有名だ。長く男の側に仕える沙羅も、空蝉が少女以外の人形を作っている姿はほとんど見たことがなかった。

「まぁな。少し入用かと思ってよ」

 空蝉はにやりと笑って、取り出した和紙にさらさらと文字を描いた。それを丸めると、屍の顎を手に取り、開けさせた口の中に紙を突っ込む。それから空蝉はつぅと空に向けて指を立てた。人形である沙羅にはうっすらと空蝉の指にまとわりつくようにして発光する人魂の姿が見える。
 人形に必要なのは、ひとの屍、水と曼珠沙華の種、名を書いた紙、あとは穢れのない魂。母の胎から流れた赤子の魂を男は好んで使った。俗世を知らぬその魂が至純であると。

「起きろ」

 空蝉は淡く光った指をとん、と屍の左胸へとつける。すっと屍の中に人魂が溶けいるようにして入り込んだ。刹那、土気色だった屍の肌はみるみる精彩を帯びていく。心の臓が動き、血が通い、体温が生まれる。さながら屍が蘇りでもするように。男は、翠の眸を開いた。何度か瞬き、空蝉の姿を認める。空蝉は満足げに笑って、おはようさんと男の頭を軽く撫ぜた。
 ――もう幾度となく目にしている光景であるが、そのたびに沙羅は何とも恐ろしい気分になる。自然の摂理を破り、無から有を生み出すという禁忌への畏怖。自分とてそうして生まれた存在でありながらも、沙羅はどうしても恐ろしく思えてならなかった。このような禁忌を繰り返していれば、いつか天罰が下るのではないだろうか、と。
 だが、当の本人である空蝉はいつもなんということはない様子で軽々とそんな業をやってのけるのだった。


「それで。橘雪瀬のほうはどうだった?」

 黒と赤の金魚のあやかしを空に泳がせながら、空蝉が問う。沙羅は目を伏せ、失敗しました、と首を振った。

“今のこと、帰って空蝉に伝えてくれる?”

 かの少年の静謐とした声が耳奥で響く。ひとたびしらら視の命令を受けてしまえば、人形はそれに従わざるを得ない。唇を噛みつつ、沙羅はことのあらましを空蝉へと語った。



「――そうか」

 沙羅の話を一通り聞き終えた空蝉は、皮肉げな笑みを浮かべて嘆息をした。

「なーるほど。橘につくか中央につくか、俺に選択せよというわけか。……ったく、やぁーな境地に立たされたなぁ」

 やぁーな、などと言っている割にはその声は明るい。むしろこの状況を楽しんでいるようですらある。
 沙羅は柳眉をひそめ、空蝉さま、と面倒そうに頭をかいている男にたしなめるような声をかけた。

「くれぐれも油断をなさらぬよう。これはいつものお遊びではありません。橘雪瀬の殺害を失敗した時点で月詠(つくよみ)はあなたさまに刃を向ける所存ですよ?」
「刀を向ける、ね……」

 ふん、と男は鼻で笑い、腕を組む。その口元には相変わらず、ひとを嘲笑うかのような薄笑いが湛えられていた。

「あの男、案外それが狙いかもしれねぇなぁ」
「狙い、と?」
「俺を消してぇんだよ。あいつからすれば、俺ってば何かといろいろ知りすぎてるらしいからよう?」

 のんびりと呟き、空蝉は老獪な猫のごとく淡紫の片目を細めた。

「たとえばあの男の素性。たとえば“桜”はどこに落ちていた屍をもとにして作ったかなんてのも、聞きようによっちゃ実に面白い。奴もなぁ、道理で人形ひとつに躍起になって探すわけだよ」
「躍起になっているのは帝でございましょう」
「いんや、違うね。焚き付けてるのは黒衣のほうだ。何せあいつは、」

 にやりと口端を上げ、空蝉は沙羅の耳元に唇を寄せた。何がしかが囁かれ、少女は碧眼を驚いたように大きくする。

「まだ、生きていたのですか? “アレ”が」
「まぁな」
「空蝉さま。したらば、黒衣の占術師はきわめて危険。私たちのとるべき道はひとつしかないかと」
「橘につく、と? しかし俺はよ、支配されるの嫌いなんだなー」

 空蝉はのんきにごちて、墨色の袖の中に手を入れた。濡れ縁に座った男は思案げに暮れゆく夕空を目を細めて眺める。

「なぁ沙羅。世の中ってのはな、己が支配してナンボってもんだ。でなけりゃ何の価値もねぇ」

 男は小さく嗤い、不安げに眉根を寄せる沙羅をなだめるように引き寄せた。その銀髪をいじりながら「ふぅむ」とひとつうなる。

「しらら視の餓鬼に、『桜』、橘一門に、月詠か。出札は揃ってるな。すこーし配置を変えてやりゃ面白いことが起きるぞ」
「何か、策でも?」
「あぁ。――よし、沙羅。決めた。荷物をまとめろ」

 空蝉は沙羅の髪を優しく梳いてから離し、ぽんと膝を軽く叩く。この家を出るのですか、と尋ねた沙羅へ「まさか」と首を振り、空蝉は今しがた生み出した人形の背を軽く叩く。

「俺はな、こう見えて平和主義者なんだ。まずは話し合いをしねぇとよ?」







 背には今の皇家を表す花の紋。
 夜闇に沈み込むような黒羽織を身にまとった少女は人形師の男が住む庵の前で足を止めた。昼は帝の女官として、夜は黒衣の占術師の一番の側近として働いている少女。氷鏡藍(ひかがみ あい)は今晩、占術師から内々の命を受けてこの場所へと赴いたのだった。

 枝折り戸を音もなく開くと、藍は空蝉邸の中へと入っていく。息をひそめ、足音は立てぬよう細心の注意を払った。暗がりの中、明かりの漏れている障子を見つけ、藍はそちらを目指す。
 障子戸にはぼんやりと人影が映っていた。空蝉だろう。この男は持ち前の勘とやらで藍が訪れるときがわかるらしい。いつもは周りにはべらせている人形を決まって下げ、必ずひとりで藍を待っている。――もちろんやましい気持ちが多分にあるわけである。

 藍は眉をひそめ、すっと刀の柄へ手をかけた。自然高ぶった神経を落ち着かせるように軽く息をつく。瞬間、障子戸を開け放った。こちらに背を向けて座る男へ向けて一閃、刀を薙ぐ。その斬線は武に秀でた者であるのならため息をつくほど鮮やかだった。男の背から鮮血が上がり、ふつりと糸の切れた人形のごとく、畳へと倒れこむ。悲鳴を上げる暇もない。絶命していた。

 藍はためていた息を吐き、衿から出した懐紙で刀についた鮮血をぬぐう。鞘へ刀身を収めると、倒れた男のかたわらに膝をついた。死んでいるとは思うが、命令を受けた以上一応確認だけはせねばならない。
 むっとした血の臭いに顔をしかめつつ、藍は空蝉の腕をつかんで突っ伏した男を転がそうとする。刹那、その腕の感触が消えた。男の身体が灰と散り、霧散する。

「人、形……」

 しまったとばかりに藍は舌打ちした。立ち上がろうとすれば、どこからともなく一枚の紙が眼前へと滑り込むようにして落ちてくる。中には流麗な文字でただ一文、『立つ鳥あとを濁さず されど一羽の鳥を残す』とだけあった。されど一羽の鳥、つまり身代わりというわけか。
 藍は紙を置き、あたりを見回す。だが、小さな庵に人影はなく、あとで調べたところ、男の持つ金や身の回りのもの、人形に至るまでがすべて消え去っていたことがわかった。


 こうして人形師空蝉は月夜の晩に消息を絶った。