四章、空蝉



 二、


 長い梅雨が終わって間もない季節だ。桜は雪瀬に連れられ、数ヶ月ぶりに葛ヶ原の土を踏んだ。
 本当は、葛ヶ原に戻ったらまた前のように衛兵たちに追い回されるんじゃないかとすごく不安だったのだけど、それは杞憂というものだったらしい。雪瀬の後ろにくっついて関所を通っているときも、葛ヶ原の衛兵たちはちらりと興味深げな視線を桜に向けただけで、それ以上は別にどうといった反応も示すことはない。抱えた槍を振り下ろすこともしなかった。桜は安堵の息をついて、雪瀬の袖端を握り締めていた手の力を少し緩める。

 その雪瀬は桜とはまた少し勝手が違い、「お帰りなさいませ」と衛兵たちに笑顔で迎えられている。まだ十五かそこらの少年に、ゆうに十は年上の男たちが恭しく頭を下げる姿というのはどことなく奇妙に映ったが、そういえば雪瀬はこれでいて葛ヶ原を治める一族の第二子なのだ。それがいったいどれくらいの身分なのか桜には具体的にはわからなかったけれど、とりあえず“偉いひと”ではあるらしい。――たぶん。そこそこ。
 
 衛兵に付き添われながら、葛ヶ原を少し歩き、大きなお屋敷の門をくぐる。その無骨な瓦屋根の門構えには覚えがあった。橘宗家のお屋敷だ。
 今日は裏門ではなく、表の門から入ったので、玄関にたどりつくまでにはいつも以上に時間がかかった。さらに玄関で大勢の女や男たちに迎えられてしまい、桜は驚いて雪瀬の背に隠れる。
 何でもこの屋敷で働く女中や守りの兵たちらしい。以前は離れの部屋にひとりでいたので気づかなかったのだが、屋敷の中にはこんなにも多くのひとがいたようだ。屋敷自体がとても大きいのだから、中にいるひとも多くて当たり前といえば当たり前なのだけども。

 桜は、短いやり取りのあと澱みのない足取りで迎えた者たちの間を抜けていく雪瀬の背中を小走り気味に追う。そうしてたどりついたのは、屋敷の一角にある一室だった。

「はい。ここがこれから桜サンの部屋ね」

 襖を開け放ち、雪瀬が言う。目を瞬かせ、桜は雪瀬の脇からひょいと顔を出した。目の前に広がる部屋は瀬々木の家で与えられた部屋より少し大きいくらいだろうか。障子戸から燦々と陽の光が降り注ぎ、真新しい青い畳にはうっすらと揺れる木漏れ日が落ちている。
 調度は部屋の隅に置かれた文机と衣桁があるだけで他は一切ない。桜は雪瀬の脇をすり抜けて、部屋に一歩踏み入ってみた。“わたしの”、と胸中で繰り返し、中を見回す。今まで便宜上身をおく場所は与えられていたが、“自分のもの”として部屋が与えられたのはこれが初めてだった。ここにこれから住むのだと思うと、不思議と胸が高揚してくる。

 桜はあたりをぐるりと眺めてから、射し込む光に引かれるように障子戸に手を伸ばした。開くと、視界がぱっと明るくなる。白日の下に広がる庭には、真っ白な蕾をつけた樹が一本あった。

「それは花柚子の樹」

 濡れ縁に出て、甘い薫りをくゆらせる花を仰いでいると、いつの間にか隣にやってきていた雪瀬が教えてくれる。樹にとまっていた小鳥が咲き初めの花をついばみ、眼前を飛び去る。おいしいのかな、と呟くと、「食べないでね」と苦笑まじりに返された。

「桜。まず、何を置きたい?」
「……う、んと」

 桜は難しい顔になって考え込む。部屋には普通何が置かれているものなのだろうか。瀬々木の家を思い出し、布団とか、鏡台とか、金魚鉢とか、亀とか、とあれこれ考える。どれも必要そうな気がしたし、またどれもいらないような気もした。
 桜は濡れ縁から庭に下り、風にそよいでいる雑草の前にしゃがみこむ。庭は長く手入れがされていなかったようで、花柚子が一本ある以外は他に花の影もなく、いたるところに雑草がはびこっていた。どこかもの寂しい。
 とがった葉を指先で撫ぜつつ、桜は「あ」と不意に声を落とす。

「――はな。花がいい」

 言い切ってしまってから、大丈夫かな、とうかがうように雪瀬を仰げば、あちらは意外そうにひとつ眸を瞬かせた。

「いいんじゃない?」
 
 淡い微笑と一緒にうなずかれて、桜はよかったとほっとする。それから目の前に広がる庭を眩しそうに眺めた。




 目の前をひらり、ひらりと一羽の揚羽蝶が通り過ぎる。
 一点の曇りもない真っ青な空へと顔を上げ、燦然と輝く太陽に桜は目を細めた。こめかみに伝い落ちた汗をぬぐいやる。
 
 ――今、目の前には葉を茂らせた花柚子と、数多の花が咲き綻んでいる。

 花は種を植え、また道端に咲いていたのを株ごと持ってきたものだ。水を与え、雑草をむしり、世話をした。
 最初に植えた卯の花は雪のような白から、薄紅、紫へと色を移ろわせ、美しく咲き誇った。今はすでに散り落ちたあとだったが、あとには独楽にも似た形の実がなっており、他に、都草、梅笠草などが咲きそろう。季節は、まさに盛夏に入ろうとしていた。


「あ、いたいた! ――えぇと、“桜ちゃん”!」

 背後から聞きなれない声がかかり、桜は花に水をまく柄杓の手を止める。振り返ると、小柄な体躯の少年がちょうどこちらに向けてぶんぶんと手を振りながら駆け寄ってくるところだった。
 亜麻色に近い薄茶の髪に、黒よりは色素の薄い灰色の大きな眸。くりっとしたその眸のせいか、どこか人懐っこそうな印象を受ける少年である。とはいえ、初対面の人間はやっぱり怖い。桜が柄杓を持ったまま、少しばかり身構えてしまっていると、

「何してるのー?」

 と彼は屈託のない笑みを浮かべてぴょんと桜の顔をのぞき込んだ。心臓が跳ね上がる。自然一歩後ろにあとずさりながら、みずやり、と桜は消え入りそうな声で返した。

「あ、ほんとだ。お花がたくさんあるっ」

 大きな風呂敷包みを小さな身体に持て余し気味に抱えた少年は、足元の卯の実を眺めて笑みを綻ばせる。それからこちらの不安げな視線に気づき、はっとなった様子で姿勢を正した。

「えっと。僕のこと、雪瀬から全然聞いてない?」

 少し考えてみてから、桜はこくんとうなずく。そんなぁ、ととたんに透一はなんだかおじぎ草みたいにしゅんとこうべを垂れてしまった。

「……んー。んー。でも聞いてないんじゃしょうがないよね。わかった、じゃあ“はじめまして”っ」

 どう声をかけたらよいかわからず視線を彷徨わせていた桜をよそに、瞬時の立ち直りをみせた少年はぐっとこぶしを握って、勢いよく顔を上げる。

「僕、蕪木透一(かぶらぎ ゆきひと)って言います。んとねー、雪瀬の幼馴染、とはちょっと違うんだけどまぁそんなかんじ、かなぁ?」
「かぶらぎゆき……?」
「ゆきひと。みんなはゆき、って呼んでるけどね」

 彼はそう言い添え、「じゅーご歳っ。桜ちゃんいくつ?」と続けた。あれ、と桜はそこで初めて思い至ったような顔をして考え込む。
 いくつ。言われてみれば、桜はいくつだったんだろうか。ひの、ふの、と指折って数えてみるも、途中でわからなくなり小首をかしげる。十よりは上の気がするが、二十よりは下の気がする。――気がするも何もかなりの幅だった。

「ふふーきっと僕らと同じかちょっとちっちゃいくらいだよ」

 透一が言ったのは外見年齢のほうだと思うが、なんとなくそれでいい気がしたので桜もうなずいた。人形である桜には実年齢はあまり重要ではないのだ。沙羅だってあの姿でもう五十年近くは生きているというし。
 
 ふーと透一は大きく息をつくと、腕に抱えた風呂敷を一度地面に下ろして、額に浮かんだ汗をぬぐいやった。長い間、太陽の下を歩いてきたらしい透一は汗だくになってしまっている。暑そうに衿元をぱたぱたしだしたので、桜はつと考え込んでから、手に持っていた柄杓を少年の頭上で傾けた。
 ぱらぱらと陽光を透けとおして七色にきらめく水滴が、透一の頭の上に降る。

「ふぁっ?」

 びっくりしたらしい。灰色の眸をさらに大きくして、透一が顔を上げた。それからこちらの意図に気づいてくれたのか、目を細め、きもちー、とふにゃりと人のよい微笑い方をする。ぷるぷると頭を振る仕草といい、何だか子犬みたいなひとだ、と桜はこっそり思った。




 緑茶に浮かんだ氷がからんと澄んだ音を立てる。 
 緑陰の蝉時雨は絶え間なく。地面に置かれた桶の把手に揚羽蝶がやってきて身を休める。

「はい、これ。薫(くの)ちゃんが桜ちゃんにって」

 濡れ縁に腰掛け、緑茶をすすっていた透一はひと心地つくと、桜のほうへ抱えていた風呂敷包みを差し出してきた。条件反射で手を差し出してしまってから、桜は思いのほか重かったそれへと不思議そうな視線を落とす。

「……これ? 中?」
「んとねぇ、着物らしいよ」
「きもの?」
「“年頃の女の子が男物を肩上げしてるんじゃかわいそうでしょ?”、だそうで」
「そうなの?」

 自分の着ている柳染の単(ひとえ)を顧みて桜が首を傾げると、透一はにっこりうなずく。

「うん、女の子はねーたくさんお洒落しなきゃあ」

 ぴっと人差し指を突き立て、得意顔で言ってみせたあと、「でもしょうがないかな。あの家は今桜ちゃん以外に女の子がいないからねぇ」と独り言のように続ける。桜は眉をひそめた。今朝桜に朝餉を出してくれたのは、確か老婆ではなかったろうか。

「女のひと、たくさんいた、よ?」
「たぶんそれはね、お女中さん。家のお手伝いするひと。十日ごとに入れ代わり立ち代わりで実家に戻ってるよ」
「おてつだい」
 
 じゃあ別に雪瀬と血縁があるわけじゃないんだ。じろりと桜に一瞥をやるだけで、あとは無言のままご飯をよそった茶碗を差し出してきた老婆を思い出し、桜は考える。
 宗家の屋敷の者たちが桜に向ける視線はだいたいふたつに分けることができた。すなわち好奇か、無関心。どちらも桜には慣れたものであったので今さら傷ついたりはしなかったけれど、かといって居心地がいいものでもない。顔を合わせるひとが増えたところで桜が普通に言葉を交わせるのは雪瀬や扇くらいのものだった。

「奥方さまはもうずいぶん前に他界してるしねぇ。柚ちゃんも今留守だし……」

 透一は遠くへ視線を上げて、思案げに呟く。

「奥方さま?」
「うん、」

 うなずいて、「でももういないんだ」と透一はほんの少しだけ困った風に微笑んだ。

「あ。でねでね、単なんだけどね、」

 ぱっといつもの笑顔に戻ると、透一は桜の手に抱えられた風呂敷の結び目を解き始める。
 薄い生地の風呂敷がはらりと開かれて落ちる。中に入っていたのは、数多の着物だった。水浅葱に落とし文、深縹に夏花が散らされたものなど、しっとりと落ち着いていながらも、繊細な色合いのものばかり。
 たぶん、これをくれた人はあお色が好きなんだ、と桜は着物をひとつひとつ手に取りながら考えた。何せ色の濃淡や柄に違いはあれど、どれも相通じる、涼やかな色合いをしているのだ。――“薫ちゃん”というのは、あおが好きなひと。そしてきっとやさしいひとなのだろう。
 ひとの好意というのはくすぐったく、けれど心を丸く包んでくれるような温かさがある。
 
「……えと、ありがとう」

 風呂敷を抱きしめながら、自然こぼれ落ちるように微かな笑みを返せば、透一はひどく驚いた様子で目を丸くした。ひとつ瞬きしてから、

「わ、笑ったー!?」

 とたん、満面の笑顔で感嘆の声を上げる。ぴょんぴょんとあたりを飛び跳ね、笑った笑ったと叫び回る。万歳三唱すらやりかねぬ勢いだ。

「ぜひ薫ちゃんに報告せねば! うーわぁかーわいーいっ」

 少年がいったい何を喜んでいるのかがよくわからず、桜はいぶかしげな表情をする。が、透一があんまり大仰に騒ぐので、そのうちおかしくなって思わず小さく吹き出してしまった。

「あ、また笑ったー! ――え、でも今の何で?」

 弾んだ声で指摘をしてから、若干不思議そうに透一はこちらの顔をのぞきこんでくる。桜は微かな笑みの残滓を宿したままに、そ、と首を振った。

 穏やかな、夏の昼下がり。
 生い茂る葉の匂い含んだ薫風が、育まれた卯の実を優しく揺らした。